消費社会 その2

消費社会の神話と構造 普及版

ジャン ボードリヤール / 紀伊國屋書店

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性をもつ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。(101頁)
消費はひとつの社会的労働なのだ。消費者は(今日ではおそらく「生産」のレベルでと同様)このレベルにおいても、やはり労働者として必要とされ動員されている。(106頁)

ボードリヤールは読み難い。示唆に富んではいるがそれですっきり話が分かるかというとそうでもなく、合わない眼鏡をかけているような居心地の悪さが付きまとう。差異を安易に階級の上下に結び付けてしまうのも問題があるように思われるし、ポップアートに関する記述など今となっては古い印象がする部分があるのも確かだ。
しかし、消費の社会的論理を社会的意味をもつもの(シニフィアン)の生産および操作の論理とする基本的な見方は今でも代わらぬ価値を持つ。

消費社会とは言うまでもなく、単に無駄遣いをする社会などというものを意味しているのではない。それは、親族や階級制度などに代わって、商品(ボードリヤールは「モノ」と表現するが)が社会内での個人の位置を定める座標軸となる社会であり、消費こそが社会参加である社会である。

私たちが何か新しい商品を作り売り出そうとするとき、それを消費者に買ってもらうために他の商品との「差別化」をはからなければならない。他者の製品(自社の旧製品も含まれるが)とどのような点で異なるのかが示されることによって初めて、消費者が他の商品ではなくそれを選択するのかを考えることが出来る。
そういった差別化=差異を必要にしているのは、競合する商品の種類が豊富にあることと、かつそれぞれの商品が自己同一性(アイデンティティ)を保っていること、そして鉛筆からミサイルに至るまでの多様な商品群が貨幣を媒介として交換可能であることである。

工業化される前の社会では商品の自己同一性はあいまいで、陶器でいえば産地、作者、大皿や小鉢といった種類、大きさ、描かれた模様の題材などの特徴によって記述するしかなく、例えば盗難届の出ている茶器と同一の品かどうかは写真などと照合しなければ不可能だ。しかし、工業製品である時計などなら型番が分かれば同一の品だと確実に言える。
この自己同一性は、ボードリヤールが言っていることではないが、商品の差異が神話へと形作られるのには不可欠の要素であると思われる。また、発展した消費社会に生きる人間が「自分探し」へと向かうことが必然であることも示唆しているように思われる。
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by tyogonou | 2009-03-22 01:23 | 消費社会 | Trackback | Comments(2)
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Commented by cabo at 2009-03-23 00:15 x
消費は労働か。
今日では消費者と生産者は同レベルで労働者ってことですか?
んー難しいな(汗。
Commented by tyogonou at 2009-03-23 22:38
「消費者の欲求とその充足は、今日では他の生産力(労働力など)同様強制され合理化された生産力となっている。(103頁)」
ボードリヤールは、生産と消費は別のものではなく、「生産力とその統制の拡大生産(102頁)」(≒経済成長)といった1つのプロセスのなかに組みこまれているのだと主張しているのです(たぶん)。
コンピューターの発達にユーザーが果たしてきた役割などはその典型的な例と言えるのかもしれません。
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