安楽公

意外に思われるかもしれないが、これは三国志のなかで私が最も好きな場面のひとつだ。
字幕もないので知らない人のために大雑把に説明すると、
これは蜀の滅亡後、司馬昭が安楽公劉禅(劉備の息子)を招いて開いた宴会の場面。
ピンクの衣装を着た女性たちが蜀の舞いを踊り始めると、左側に座る蜀の旧臣たちは哀しみに沈む。ただひとりへらへら笑っているのが劉禅で、司馬昭が「安楽公、蜀が懐かしくはありませんか?」と聞くと、「楽しいのでそんなことはありません」と答える。司馬昭は、「なんと人情の薄いことだ。主君がこんなでは孔明が生きていたとしても蜀は長くは持たなかっただろう。まして姜維ごときではどうにもならなかったわけだ。」と思う。劉禅の隣にいた家臣は、「陛下、また聞かれたら、泣きながら、蜀には父の墓がありますので懐かしく思わない日はありません、と答えれば蜀に帰してくれるかもしれません」と入れ知恵する。司馬昭が、再び同じ質問をすると劉禅はその通りに答えるが、司馬昭「郤正どのがそう言えと教えてくださったのかな?」「そうそうそう、その通りでございます」魏の一同は爆笑し、司馬昭は安心して気が緩んだのか口がきけなくなり、司馬炎を(後継者として)指差し、死んでしまう。

どうみてもさえないこんな場面の何がいいのか。
後漢の末、圧制に苦しむ民の怨嗟の声が大地に満ちて以来、兵馬のあげる土煙、焼かれる兵器や建物を包む炎、殺される兵や民衆の上げる血飛沫、ことならずに散っていった英雄達の涙、そういったものが劉禅を通じて今は昔の夢物語へと昇華して行くのがこの場面なのだ。
司馬昭から司馬炎へのバトンタッチも象徴的で、この時点で既に天下は事実上司馬氏のものであるが、魏の皇帝を退位させ、呉を併合して名実ともに天下を統一するのは司馬炎である。つまり、魏朝から晋朝への転換がここで行われているのだといえる。
三国時代に別れを告げ、英雄達を現世から神話の世界へと送りだす、三国演義の実質的な終点はまさにここだ。

ワーグナーの「ニーベルングの指輪」もそうだが、大作の結末は難しい。単純な善悪の物語であれば、最後に強大な悪を倒すことで大団円にできるが、複雑な人間関係が織り成す物語をまとめるのはなかなか難しい。卑近なところでは『二十世紀少年』しかり、『北斗の拳』しかり。その点、荒々しい戦乱の物語をペーソスで包みこんで高い芸術性を与える三国演義のこの一話は他のそのエピソードにも負けない価値を持っていると思う。
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by tyogonou | 2009-04-20 23:34 | Trackback | Comments(0)
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