『愛を読む人』
ケイト姐さんが"DTハンター"に! オスカー受賞の官能作『愛を読むひと』
"DT卒業"の喜びと切なさを、ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、ブルーノ・ガンツら名優たちによって文芸色豊かに描いた社会派感動作なのだ。
テキストをどう読もうが勝手だとは思うが、『朗読者』をそんな風に読まれるのはちょっとひっかかる。『アクロス・ザ・ユニヴァース』のときもそうだったが、大ヒットは望めない映画にどう興味を持ってもらって映画館に足を運んでもらうための苦心の末の方便だと思いたい。

昔、原作についてリチャード・ローティ的な解釈にもとづいてちょっと文章を書いたことがあって、私には珍しく読みやすくまとまっていたが(たぶん)、残念ながらもう手元にはない。思い出しつつちょっと書いてみる。

まず、『愛を読むひと』という邦題はあまり良くないと思う。"DER VORKESER"がドイツ語の原題だが、問題は男性単数を示す「定冠詞」がついていることだ。
アメリカ映画で『ザ・ファン』というのがあって、これは日本版でもそのままカタカナ表記にしたはずだ。この映画はある野球選手に対する思いが過激化していくひとりのファンの狂気を描いたものだが、主人公は単なる「ひとりのファン」(ア・ファン)を越えているが故に「ザ・ファン」なので、邦題でも定冠詞をつけたのだ。
『朗読者』が"EIN VORKESER"ではなく"DER VORKESER"であることにも1つの意味がある。
それは朗読者であるということがミヒャエルの自己規定であるということだ。もちろん、それはミヒャエルが我こそ「ザ・朗読者」、朗読のプロだと辞任していたということではない。ハンナの謎の自殺に関して刑務所長は、ミヒャエルに尋ねる。「どうしてあなたは彼女にお書きにならなかったのですか?」 彼は答えることが出来なかったが、その答えはそれ以前に説明されている。
朗読こそがぼくの流儀であり、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だった。
ミヒャエルは自分を「朗読者」と規定したからこそテープを送り続け、ハンナが字を覚えた後にも手紙を書くことをせず、そしてもっとも重要なことに、ハンナが彼が手紙を書いてくれることをどれほど強く望んでいたかを察することが出来なかった
『朗読者』の主題はここにある。私たちが自他のアイデンティティを規定し、それを守ろうとするとき、それは全く自然で正当なことであるにもかかわらず、私たちが他者と理解し合い、時に相手を絶望から救い出すことを妨げてしまう。
ミヒャエルと父親の対話は短いながらも象徴的な場面だ。
「わたしたちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。」
哲学者である父は、自由と尊厳を守りつつ相手の幸せを願うなら相手の目を開かせる努力をしなければならないというものの、両者の対立を乗り越える、あるいは止揚させるようなアドバイスを与えることができない。子どもの幸福を願う「父親」としては苦しむところではあるが、自由と尊厳を語る「哲学者」としてはいたし方のないことだ。後者こそ、父にとってのアイデンティティであるのだから。
ローティ的な解法を探すと次のようなものになる。幸福と、自由や尊厳が矛盾したり対立したりするのにはひとつ前提がある。それは1つの論理体系の中にこの両者をともに組み込まなければならないと考えることだ。私たちは倫理について、矛盾のない1つの体系によって説明できるし、そうしなければならない、そういう前提を立てたとき、両者は相容れないものとなる。だが、そういった前提を放棄してしまえば、私たちは両者をともに追い求めることができるのではないか。
ミヒャエルの父にとって、自分が親として子どもに対して理不尽な介入をすれば、それは「哲学者」としてのアイデンティティを損なう深刻な事態となったであろう。しかし、自由と尊厳を重んじる哲学者が家でそういう親ぶりを発揮することは、アイロニカルで愉快な光景ではないだろうか。
『釣りバカ日誌』という映画(マンガ)があるが、二人の主人公、浜ちゃんとすーさんは、釣りの師匠でありダメ社員、へぼな弟子でありかつ社長、という矛盾する二つの関係を、場面にあわせて柔軟に変容させ、いろんなすったもんだを乗り越えていく。私たちは二人の関係を支離滅裂だとは思わない。ユーモアに満ちて、いかにも人間臭いと思う。人間とはそういうものだ。

『朗読者』の登場人物は皆真面目で、自分のアイデンティティにも他者のそれにも誠実であろうとしているが、それゆえに困難を上手いことごまかしてやりすごすような真似はしない。だが、それゆえにこそ他者の苦しみを救うことができない。
ナチ戦犯の裁判という状況の設定は巧妙である。ハンナは「『字が読めない』のではない自分」というアイデンティティを守ろうとしてジーメンスを辞め、「看守」という任務を真面目にこなそうとして焼かれ死ぬ囚人達を苦しみから救おうとしなかった。これは、自分のアイデンティティを守らなければならないという強迫観念は、人類が犯したもっとも残虐な行為に通じてしまいかねないということを示すものだ。
一方で、被害者であるユダヤ人少女も「被害者」故に同じ残酷さを示す。ミヒャエルが子どもの頃ハンナと肉体関係をもったという話を聞き、彼女はいかにもアメリカ的に反応して「なんて粗暴な女なのかしら」という感想を漏らす。実際の二人の心の機微を知っている読者から見れば酷な物言いである。そしてハンナが字を読めなかったという事実を聞かされても、それがあの裁判に全く別の光を投げかけるものであることに気づかない。そして「ホロコーストの犠牲者」を代表するひとりとして、ハンナに許しを与えることを拒む。それは全く責められないことだ。だがそれにもかかわらず、ハンナを救えなかったミヒャエルや囚人達を救えなかったハンナ同様、彼女もまた私達がお互いに理解し助け合うことを阻む罠にかかってしまっている。
『朗読者』とはそんな苦しさを私達に教えてくれる物語なのだ。
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by tyogonou | 2009-06-17 23:10 | Trackback | Comments(0)
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