消費社会 その5
ボードリヤールが援用したソシュールの記号論をざっとおさらいしてみる。(とはいっても簡単に説明するのは困難な作業だが)

ソシュールを理解するためにはまず、二つの混沌について押さえるところからはじめよう。
1つは私達の外にあって、私達の言葉によって指し示される外在的世界。もう1つは私達が言葉を発する時にもっぱら使用する音声。
どちらも混沌としていないじゃないか、といわれるかもしれない。町を歩けば男の人や女の人、子供達に、犬に猫にからすがいて、家々とそれを囲む塀、道路には車が通り、電信柱に道路標識、看板などが立ち並んでいる。整然としているか雑然としているかの差はあっても、ちゃんと秩序だっていて混沌としているようなところなどない。音声だって同じ、混沌としているなら50音から勉強して出直せと。確かにどちらの秩序も自明のことのように思われる。
だが、虹を考えてみよう。外在的な現象として私達の目に飛び込んでくる虹の多様な色も、それを表す語彙もちゃんと秩序だっているように思われる。しかし、私達が「赤 橙 黄 緑 青 藍 紫」の七色で区別する虹の色も、文化によって2色にしか区別されなかったりする。 また同じ色数でも、日本語の「赤」とそれに対応する外国語の単語が示すものの範囲が同じとも限らない。ただいえることは、虹には異なる色みが含まれているということ。それをどう区別するかは、見る人間によるのであって客観的に正しい区分が秩序だって存在しているのではない。
音声も同じ。外国語をちょっと習えば「あ」と「え」の中間の音、といった50音にない音もある。日本語ではおなじ「ん」の音でも、中国語では "n" "ng" という区別がある。日本人でも「ナンナンナン・・・」というときの「ン」は前者、「ンガンガンガ・・・・」というときの「ン」は後者の音に近い音を出せるが、日本語はそれを区別しない。声帯と口、鼻、舌や唇、歯などを使って人間が出せる音声は多様にあるが、「あ」の音、「い」の音、「う」の音、といった秩序がその音声の中に自ずから存在しているわけではない。
外在的世界も音声も、内にたくさんの差異を含んだ混沌なのである。
ソシュールはこの二つの混沌が接し、干渉しあう中で両者に含まれた差異が一体化して記号となり、そこで初めて秩序が生まれると考えた。
外在的世界をシニフィエ、音声をシニフィアン、記号をシーニュと呼ぶ。他に、言語行為をランガージュ、体系化された記号による言語をラング、シニフィエと似ているが微妙に異なる「指向対象」をレファランと呼ぶ。

シーニュ(記号)=シニフィアン(記号表現、意味するもの)+シニフィエ(記号対象、意味されるもの)

重要なのは、シニフィアンとシニフィエはともにネガティブ(否定的)であるということ、つまり、「あか」というシニフィアンは「あお」でも「くれない」でも「しゅ」でもないとしか言えず、それが指すシニフィエも同様であるということだ。赤というシーニュがポジティブ(実定的)に「赤とはこういうものだ」といえるのは、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、二つの否定性が結びつくことで可能になる。
シニフィアンとシニフィエのネガティビテ(否定性)はもう1つ重要なシーニュの「恣意性」という概念を導く。色とは光の波長の違いによって認識されるものだが、その波長をどこで区切ろうが、それをどういう名前で呼ぼうが、人間の勝手である(客観的に決まっていない)ということだ。あるいは、それは言語を使用する人々の間の単なる「約束事」にすぎない、といえる。記号としては特殊な例だが自動車のパッシングを考えてみよう。右折しようとしているとき、対向車がパッシングしてきたら、多くの場合「お先にどうぞ」という記号だが、地域によって全く逆に「先に行くからまだ曲がるなよ」という意味で使われる場合もある。どちらが正しいかは自明のことではなく、ただ相手のドライバーの文化的背景のみが根拠である。なにかを伝えたいと思えば、なにか通常とは異なる(差異のある)行為を思いつけば、どんなことでも自由に表現できる。対向車線で速度違反の取締りをやっている!、向こうから来た車に教えてあげよう、相手の注意を引くには・・・パッシングだ、というように。自分の肯定的な印象を表現したいが、ナウいでもイケてるでもかわいいでもない・・・といったところから新しい表現が出てくるわけだ。

ボードリヤールの問題点は、この差異、否定性、恣意性という概念が悪いことのように捉えられていることだ。むしろ、そういった特徴は人間の精神生活、文化を豊かにしてくれるものと考えるべきだ。
先程レファランという用語を挙げた、その説明にもなるのだが、あるホモサピエンスの個体に対して(レファラン)、「父」「親父」「パパ」といったシーニュが存在する。それらは、同じレファラン=指向対象に対して使われるがそれぞれが別のシニフィエを持っている、つまり「親父」と「パパ」とでは意味がちょっと違う。ひとつの事物(レファラン)を様々な切り口(差異)によって捉えることができる、ということはその事物との関係が豊かであるといえるだろう。
また、そういった記号を使いこなすことによって、私たち人間ははじめて混沌とした外在的な事物を利用することができるということも忘れてはならない。動植物にまったく興味のない人間がいきなり大自然のなかに放り出されたら、「なんや分からんいろんな草や木がボーボー生えてるけどどうしたらええんや」と途方にくれるだけだが、そういった草木を言語によって秩序だって認識できる人間にとっては、いろいろ利用できる宝の山となりうる。

ボードリヤールはソシュールの記号論を経済の分析に適用することで、私達の理解を確かに深めたといえるだろう。ボードリヤールは記号化された商品やサービスをモノ(オブジェ)と表現したが、それを先程のシーニュの図式に当てはめると、次のような表現も可能である。

モノ=交換価値+使用価値
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by tyogonou | 2009-06-24 00:13 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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