消費社会 その7
今まで見てきたソシュールの記号論の全体を図にしてみると次のようになる。(クリックすると別ウィンドウで拡大)
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それに対して、ボードリヤールがシーニュ、シニフィアン、シニフィエをどのように見ているか、あるいはその消費社会的表現である「モノ」がどう「ある」と見ているのかは次のように図示できる。
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すべての宣伝には意味(サンス)が欠如している。宣伝は意味作用(シニフィカシオン)を伝達するだけである。宣伝の意味作用(およびそれが引き起こす行動)はけっして個性的なものではなく、まったく示差的であり、限界的(マージナル)で組み合わせ的である。つまり、宣伝の意味作用は差異の産業的生産に由来している。この事実こそ消費のシステムをもっとも協力に定義づけるものといえよう。(『消費社会の神話と構造』112頁)
ソシュール的に理解すれば、ラングという構造の中でシーニュの関係が意味を生み出すものであるから、これは奇異な主張である。下図に示したようにボードリヤールは、モノの使用価値を味わうことが「意味」であると見ているようである。また、既に指摘したようにシニフィアンとシニフィエを独立して存在しうるものと見ているようでもある。(もちろん、言語行為と消費活動とを完全に同一視することが可能かどうかは話が別だし、ボードリヤール自身、シーニュの全体性の破壊がもたらすシニフィアンとシニフィアンの分離について論じてもいる。)

ボードリヤールのモノについての考え方をざっと見てみよう。
消費社会以前、私達人間が使う「もの」は、それこそチンパンジーがアリ塚からアリを吊り上げる棒のように、使えればよい=使用価値さえあればよいものだった。それが宗教的、呪術的な装飾を施されることなどはあっても、他の「もの」との交換において有利になるように、シニフィアン(交換価値)が付与され操作されることがいわば制度化されたのが消費社会である。それはのように、交換価値と使用価値と両方とも含んでいるのが健全な形であるが、ボードリヤールは現代社会にシニフィアンにシニフィエが吸収されるような「混同」があると論じている。
第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードの収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。(中略)すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(『消費社会の神話と構造』178頁
ものの使用価値が失われその「意味」を失い、差異のみによってアイデンティファイされる「モノ」が操作されるだけの社会、それこそボードリヤールの消費社会の核心的なイメージである。
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by tyogonou | 2009-06-28 15:20 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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