由を考える―9・11以降の現代思想

自由を考える―9・11以降の現代思想

東 浩紀 大澤 真幸NHK出版

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久しぶりに読み返してみた。
たとえば、マクドナルドでイスが硬いから10分で食事を終える。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか。(55頁)
私は、、イスが硬いと早く食事を済ませるという前提に疑問を抱く。
それは私がふかふかのイスで歓待などされないのが当たり前な人生を送ってきたということもあるが、それだけではない。岡本太郎に「座ることを拒否する椅子」という有名な作品がある。「椅子」の座面にごつごつとした顔のような模様があって、物理的にも心理的にも座り難いという。(もっとも実際のすわり心地はそんなに悪くはないともいうが)岡本はもちろん、人間のプリミティブな野生を再生させる仕掛けとしてこの椅子を作ったわけだが、環境管理型権力に如何に対抗するかを考えるヒントにもなるのではないか。
自動改札が導入されたとき、我々は管理されてるのか自由になったのか、ということを考えた場合にどうなるのか。もしこれが管理されており、何かが抑圧されている状態だと記述しようとすると、その排除されたり抑圧されたりしている行為を特定しないとならない。それは強いて言うと「キセルする自由」なんですよね。
排除されているのは「キセルしないことを選択する自由」ではないか。ほかに選択肢がなく正しい手段で鉄道を利用するのと、キセルすることが可能であるにもかかわらずそれをしないことを選択し、自らの意思で正しい方法を実行するのとでは、たとえ結果が同じでも中身が異なる。どれほど選ぶ価値のないあるいは選んではいけないものであっても、その選択肢を吟味した上で廃棄することによって、私たちが自分の選んだ選択肢に責任を負うことがはじめて可能となるのだ。
私たちが日々の選択によって自分の行為の責任を負うことを学習せず、ただ管理型権力にしたがって行動するだけなら、倫理的に悪しき行為であっても、それが「できる」状態にあればそれは「してもよいこと」になってしまいかねない。それなら、そういった漏れがないように管理を徹底すればいいという反論が帰ってくるだろうが、いかなる権力といえども未来を管理することはできない。技術の進歩によって今までできなかったことが可能になったとき、それが管理可能になるまでは、最先端にいる人間の倫理や責任感に頼らざるを得ない。環境を管理されることで、市民がそういった自己訓練の機会を奪われてしまえば、彼らの責任感はあてにできなくなってしまう。
自動改札のような場合には、それほど多くの選択肢の可能性はないかもしれないが、時に難問にぶつかった人間は誰も想像もしていなかったような新しい選択肢を見出すことがある。管理された環境の中では、そういった創造性が発揮される機会も奪われるだろう。
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by tyogonou | 2009-07-26 03:31 | Trackback | Comments(0)
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