『消費社会の神話と構造』より その1
今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系(エコロジー)に根本的な変化が生じている。すなわち、豊かになった人間たちは、これまでのどの時代にもそうであったように他の人間に取り囲まれているのではもはやなく、モノによって取り巻かれている。人間たちの日常的な交渉は、今ではこれまでと違ってむしろ統計的に増加曲線を描く財とメッセージの受け取りと操作となっている。(11ページ)

相手として組み合わされる他のモノとまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。このために、モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。(14ページ)

衣類とさまざまな器具と化粧品とはこうしてモノの購入順序を作り上げ、消費者の内部に抵抗し難い拘束を生じさせる。消費者は論理的にあるモノから他のモノへと手を伸ばし、モノの計略に陥ってしまうだろう。これは、商品の豊富さから怒る購買と所有の幻惑とはまったく別のものなのである。(14ページ)

快適さと美と効率のこの結びつきの中に、パルリー2の住民たちはわれわれの無政府的な都市が拒否している幸福の物質的諸条件を発見するのである・・・・・(19ページ)

われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる。そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、総てが安易にそして半ば無自覚的に消費される。(19ページ)

それは技術のおかげなのだが、技術は社会的現実原則そのもの、つまりイメージの消費にたどりつく生産の長い社会的課程を、消費者の意識から消し去ってしまう。その結果、テレビ視聴者もメラネシア人も、何かを手に入れることを奇跡的効果をもつやり方でだましとることだと思うのである。(22ページ)

夢の国の幻覚に取り囲まれ繰り返される広告に説得されて、自分たちには豊かさへの正当な、譲渡できない権利があるのだと思いこんでいるのにもかかわらず、消費者大衆は豊かさを自然の結果として受けとっているのではないだろうか。消費への素朴な信仰は新しい要素であり、今後は新しい世代がその相続人である。彼らは財産だけでなく、豊かさへの自然権をも相続する。こうして、メラネシアでは衰えつつある貨物船(カーゴ)の神話が、西欧では再び蘇えろうとしている。なぜなら、たとえ日常的で月並みになったとはいえ、豊かさは歴史的社会的努力によって生み出され、もぎとられ、獲得されたものとしてではなく、われわれ自身がその正当な相続人である好意的な神話的審級、つまり技術、進歩、経済成長等によって分配されたものとして現れ、この限りにおいては、やはり日常生活の奇蹟となっているのだから。(23ページ)

われわれの社会が何よりもまず、客観的にそして究極的に生産の社会、生産秩序、つまり政治的経済的戦略の場所だというのではない。そうではなくて、記号操作の秩序である消費秩序が生産秩序と混ざりあっている、という意味である。この範囲では、魔術的思考についても(大胆ないい方かもしれないが)同じことがいえる。なぜなら、どちらも記号によって記号に守られて存在しているからだ。現代社会のますます多くの基本的な面が、意味作用の論理や記号と象徴的体系の分析の領分に属するようになっている―――だからといって現代社会が未開の社会だというわけではなく、これらの意味作用とコードの歴史的生産という問題が手つかずのまま残されている。もちろん、この分析はその理論的延長と同様に、モノと技術の生産過程についての分析に結びつかねばならない。(23ページ)

よく知られているように、魔術的思考は自らつくりだした神話のなかで変化と歴史とを祓いのけることを狙っているが、ある意味では、イメージや事実や情報によって一般化された消費も、現実の記号によって現実を祓いのけ、変化の記号によって歴史を祓いのけることを目的としているといえよう。(24ページ)

消費社会の特徴は、マス・コミュニケーション全体が三面記事的性格を帯びてくることである。政治的歴史的文化的なあらゆる情報は、三面記事という当たりさわりのない、しかし同時に奇蹟を呼ぶような形式で受け入れられる。これらの情報はまったく現実的なもの、つまり目につきやすいように劇的にされ、と同時にまったく非現実的なもの、すなわちコミュニケーションという媒介物によって現実から遠ざけられ記号に還元される。(25ページ)

メッセージの内容、つまり記号が意味するものは全くといっていいくらいどうでもよいものだ。われわれはそれらの内容にかかわりをもたないし、メディアはわれわれに現実世界を指示しない。記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費することを、われわれに命じるのである。消費の実践を定義しうるのは、この点においてである。現実世界、政治、歴史、文化と消費者との関係は利害や投資=備給(アンヴェステイスマン)や責任の関係ではなく、また完全な無関心の関係でもない。それは好奇心の関係である。同様の図式に従えば、われわれがここに定義したような消費の次元は、世界についての認識の次元ではないし、完全な無知の次元でもない。それは否認の次元である。(26ページ)

消費社会は、脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲しているのだ。これが消費社会のイデオロギーである。(29ページ)
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by tyogonou | 2009-09-15 00:26 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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