『消費社会の神話と構造』より その2
これまでのすべての社会は、いつで絶対的必要の限界を超えて、浪費と濫費と支出と消費を行ってきたが、それは次のような単純な理由によるものだ。つまり、個人にせよ社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することが出来るからなのである。(39ページ)

合理主義者や経済学者が作った効用という概念は、もっと一般的な社会の論理に従って見なおされなければならない。この論理では、高度の社会的作用として合理的効用の概念と交代しつつ積極的な機能を果し、ついには社会の本質的機能と見なされることになる―――支出の増加、余剰、儀礼的で無駄な「役に立たない出費」等は、個人的領域でも社会的領域でも価値と差異と意味とを生産する場所となるだろう。この見通しのかなたに、消耗としての、集団的浪費としての「消費」の定義が浮かび上がってくる―――必要性と貯蓄と計算のうえに成り立つ「経済学」とは逆の見通しである。そこでは、余剰が必需品に先立ち、支出が(時間的にではないにしても)価値において蓄積と取得に先立つのであろう。(40ページ)

ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、このもくてきとは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(45ページ)

消費が理想とする幸福とは、まず第一に平等(あるいはもちろん区別)の要請であり、そのために常に目に見える基準との関係で意味をもつべきものなのである。この意味では、幸福はあらゆる「祭り」や集団的高揚からはなおはるかに遠いところにある。というのは、平等主義的要請に裏付けられたこの幸福は、各個人に幸福への権利をはっきりと認めるフランス革命の人権宣言によって強化された個人主義的諸原則の上に成り立っているからである。(49ページ)

平等の神話では、「欲求」の概念が福祉の概念と結合している。「欲求」は安心感を与える目的に満ちた世界を描き出し、その自然主義的人間学は普遍的平等を約束するが、そこには次のような説が暗示されている。すべての人間は欲求と充足の原則の前で平等である。なぜなら、すべての人間はモノと財の使用価値の前で平等だからだというわけである(ただし交換価値の前では不平等であり反目しているが)。欲求は使用価値に応じて定められるのだから、ここにあるのは、その前では社会的・歴史的不平等がもはや存在しないような客観的効用または自然的合目的性の関係である。使用価値としてのビフテキを前にしては、プロレタリアートも特権階級もないのである。(50ページ)

成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。別のいい方をすれば、技術的・経済的成長の内在的自律性は、社会構造によるこの規定性と比べれば、微弱で二次的なものに過ぎない。(56ページ)

全体としてみれば、成長の社会は、民主主義の平等主義的原則(それは豊かさと福祉の神話によって支えられている)と特権と支配の秩序の維持という根本的至上命令との妥協から生じている。技術の進歩が成長の社会をつくったのではない。(56ページ)

(二) システムは不均衡と構造的窮乏によって生存し、その論理は偶然にでなく構造的に両義的であることを認め、システムは富と貧困を同時に生み出し、充足と同様不満を、進歩と同様公害をも生み出すことなしには存続できないと考える立場。システムの唯一の論理は生き残ることであり、この意味でのシステムの戦略は、人類の社会を不安定な状態、耐えざる欠損の状態に保つことなのである。生き残り復活するためにシステムが伝統的に戦争を強力な手段としてきたことは良く知られているが、今日では、戦争の機構と機能とは日常生活の経済システムと機構のなかに組み込まれてしまっている。(59ページ)

「きれいな空気への権利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって、資本主義システムの進歩にすぎないものを、客観的な社会の進歩(モーセの律法表に刻まれるような「権利」)ととりちがえてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に生産形態、つまり(一)、経済的利潤、(二)、社会的特権の源泉へと変質することなのである。(64ページ)

そのおびただしい数、そのさまざまな形態、流行の作用、さらにはその純然たる機能を越えたあらゆる性質によって、モノは今なおひたすら社会的価値(地位)を装う。(66ページ)

以上の事実は、したがって、欲求と豊かさの形而上学を超えて、消費の社会的論理についての真の分析をわれわれに指示する。この論理は、財とサーヴィスの使用価値の個人的取得の論理―――奇蹟への権利をもつ者と奇蹟から取り残された者とが存在する不平等な繁栄の論理―――とはまったく別のものであり、欲求充足の論理でもない。それは社会的意味するもの(シニフィアン)の生産および操作の論理である。この視点に立つと、消費過程は次の二つの根本的側面において分析可能となる。すなわち、(一)、消費活動がそのなかに組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味づけとコミュニケーションの過程としての側面。この場合消費は交換のシステムであって、言語活動と同じである。このレベルでの消費の問題に取り組むことは構造分析によって可能なのだが、この点については後でまた触れることになろう。(二)、分類と社会的差異化の過程としての側面。この場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキーの中の地位上の価値と指定秩序づけられる。ここでは、消費が戦略的分析の対象となり、知識、権力、教養などの社会的意味をもつものと共に地位を示す価値として特定の比重を決定される。
分析の原則はやはり次のようなものである。人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(67ページ)
[PR]
by tyogonou | 2009-09-15 00:29 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://fukureki.exblog.jp/tb/11935940
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 『消費社会の神話と構造』より その3 『消費社会の神話と構造』より その1 >>