『消費社会の神話と構造』より その3
しかしながら、消費の領域は、財のみならず欲求や文化の多様な特徴が、モデルとされている集団や指導的エリート層からその他の社会階層へと(これらの階層の「昇進」に従って)移行する、構造を持った社会的領域である。(70ページ)

モノや財と同様、欲求の順序はなによりもまず社会的選択に従う。欲求とその充足とは、記号による距離と差異化の維持という絶対的原則、一種の社会的至上命令によって、下の方へ浸透していく(tricking down)。(70ページ)

ところで、経済成長によって「解放された」(つまり産業システム自身によって、そこに内在する論理的制約に従って生産された)さまざまな欲望が上のほうへ不可逆的に登ってゆくという現象のうちには、それらの欲求を充足させるよう定められた物質的文化的財の生産の力学とは別の固有の力学が存在している。都市における社会化や地位獲得競争や心理的離陸(テイク・オフ)が一定の段階に達すると、人びとの渇望は後戻りできない際限のないものとなり、加速度的に拡大される社会的差異や一般化された相互相対性のリズムに従って増大することになる。(71ページ)

所有するものが少ければ少いほど、望みも減少する(少なくともまったく非現実的な夢想が欠乏状態の埋め合わせをするような段階に達するまでは)。このように渇望の生産過程さえもが不平等なのである。(72ページ)

ところで、生産の増加には限界があるが、欲求の増加には限界がない。社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(73ページ)

流行の完全な独裁に裏付けられたこのエスカレーション、この差異的連鎖反応の描く軌跡が都市である(この過程は逆に田園や都市周辺地域での急速な文化変容によって都市への人口集中を強めるのであって、不可避的な現象である。この現象を阻止できると思うのは単純素朴な見解だ)。人口密度の高さはそれ自体としては魅惑的だが、都市の言説とはまさしく競争そのものである。動機、欲望、出会い、刺激、耐えず耳に入ってくる他人の意見、いつも興奮させられている性欲、情報、宣伝の誘惑、これらはすべて普遍化された競争という現実の基盤の上で、集団的参加という一種の抽象的運命となる。(74ページ)

財を生産する社会である前に、この社会は特権を生産する社会なのである。そして特権貧困との間には、社会学的に規定しうる必然的な関係が存在する。どんな社会においても貧困を伴わない特権は存在しない。両者は構造的に結びついている。したがって、成長はその社会的論理からして、逆説的にではあるが、構造的貧困の再生産によって定義されるわけである。この貧困は第一次的貧困(の希少性)とはもはや同じ意味をもたない。後者のような貧困は一時的なものと見なされるし、現代社会では部分的には吸収されている。しかし、この種の貧困に取ってかわる構造的貧困の方は決定的なものとなる。なぜなら、それは成長の秩序の論理自身のうちに成長へと駆り立てる機能として、権力の戦略として体系化されているからである。(76ページ)

未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。それは、自然や土地や道具や「労働」の生産物のいかなる独占も、交換を封じ込めたり希少性を生み出したりはしないという事実である。常に権力の源泉となる蓄積は、ここには存在しない。贈与と象徴的交換の経済においては、ほんのわずかの、常に有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人びとから他の人びとへと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人びとの間の具体的交換のなかに生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人の間でも、交換の度ごとに価値が付与されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。未開社会の交換の場合には、それぞれの関係が社会の富を増加させるのだが、原題の「差別」社会では逆に、それぞれの社会関係が個人の欠乏感を増大させている。というのは、所有されたモノはすべて、他のモノとの関係において相対化されるからである。(未開社会の交換の場合には、モノは他のモノと関係をとり結ぶことによってこそ価値あらしめられるのだ)。(78ページ)

消費者の行動をわれわれが社会現象と見なすようにあるのは、選択という行為がある社会と他の社会では異なっていて同じ社会の内部では類似しているという事実が存在するからである。これが経済学者の考え方と異なる点である。経済学者のいう「合理的」選択は、ここでは一様な選択、順応性の選択となった。欲求はもはやモノではなくて価値をめざすようになり、欲求の充足はなによりもまずこれらの価値への密着を意味するようになっている。消費者の無意識的で自動的な基本的選択とは、ある特定の社会の生活スタイルを受け入れることなのである(したがってそれはもはや選択とはいえないのだ!―――消費者の自律性や主権についての理論はまさにこのことによって否定される)。(82ページ)

だから真なる命題は「欲求は生産の産物である」ではなくて、「欲求のシステムは生産のシステムの産物である」なのである。この二つの表現はまったく別のものである。欲求のシステムとは、欲求がモノに応じて個別に生まれるのではなく、消費力おして、生産力のより一般的な枠内での全面的処分力として生産される現象のことであって、テクノストラクチュアはこの意味において自己の支配力を拡大するということができる。(90ページ)

個別に切り離された欲求はに等しく、欲求のシステムのみが存在するのだということを、あるいはむしろ欲求は個人の水準での生産力の合理的システム化のより進歩した形態(その場合「消費」は生産の論理的かつ必然的中継地点となる)にほかならないということを、彼らは理解していないのである。(91ページ)
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by tyogonou | 2009-09-15 22:09 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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