『消費社会の神話と構造』より その4
モノは、かわりのきかないその客観的機能の領域外やその明示的意味の領域外では、つまりモノが記号価値を受けとる暗示的意味の領域においては、多かれ少なかれ無制限に取りかえ可能なのである。こうして洗濯機は道具として用いられるとともに、幸福や威信等の要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機に取ってかわることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定された機能や欲求にはまったく結びついていない。(93ページ)

すなわち、一方には、欲望が充足させられると緊張が和らいだり消えたりするという合理主義的理論とは到底両立しがたい事実、すなわち欲求の遁走、欲求の際限のない更新という事実を前にして絶えず素朴に狼狽ばかりしている立場があるが、これに反して、欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望であることを認めるなら、完全な満足などというものは存在しないし、したがって欲求の定義もけっして存在しないということが理解できるだろう、と。(95ページ)

消費は享受の機能ではなくて生産の機能であって、それゆえモノの生産とまったく同じように個人的ではなくて直接的かつ全面的に集団的な機能だと考えるのが消費についての正しい見解である。(96ページ)

消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに越えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96ページ)

しかし分配の段階では、財とモノはコトバやかつての女性と同様、人為的で首尾一貫した記号の包括的なシステムを形成する。それは欲求と享受の偶然的世界に取ってかわる文化的システムであり、自然的で生物学的秩序にかわる価値と序列の社会的秩序なのである。(98ページ)

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性を持つ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。(101ページ)

生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである。(102ページ)

消費者の「猛烈なエゴイズム」は、豊かさと安楽な生活についてのあらゆる大げさな賛辞にもかかわらず、やはり彼が現代社会の新しい被搾取者であることについての漠たる潜在意識なのである。このような抵抗や「エゴイズム」がシステムを解決できない矛盾へと導き、システム自身はそれに対して共生を強めることしかできないという事実―――これはひたすら消費が膨大な政治的領域であることを証明している。(107ページ)

消費についてのあらゆる言説は消費者を普遍的人間とすること、すなわち人類の一般的・理想的・究極的な体現者とすることを目指し、さらに消費を政治的・社会的解放の挫折のかわりにすること、またこの挫折にもかかわらずなしとげられるであろう「人間解放」の前提にすることをめざしている。だが、消費者はけっして普遍的存在ではない。彼は政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であって、そのような存在として根本的な歴史的問題を再び提起するのである―――すなわち、消費手段(生産手段ではない)の所有、経済的責任(生産の内容についての責任)などの諸問題である。ここには深刻な危機と新たな矛盾が潜んでいる。(107ページ)

労働力の剥奪による搾取は、社会的労働という集団的セクターにかかわっているのである一定の段階からは人びとを連帯させる。搾取は相対的意味での階級意識をもたらす。消費対象や消費財の管理された所有は個人主義的傾向をもち、没連帯的で没歴史的傾向をもつ。生産者たるかぎりでまた分業という事実によって、労働者は集団の一部である。したがって搾取は万人の搾取なのである。消費者たるかぎりでは、人は再び孤立し、ばらばらに細胞化し、せいぜいお互いに無関心な群集となるだけである(家庭でテレビを見ている人々、スタジアムや映画館の観衆など)。(108ページ)

個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることなく、ある無限定な階梯の上に秩序化していくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。特異性とは、他者や世界との具体的対立関係においてしか生まれないからだ。これこそ差異化の奇蹟でもあり悲劇でもある。こうして消費過程全体は(洗剤の商標のように)人為的に数を減らされたモデルの生産によって支配される。そこでは他の生産部門の場合と同じように独占化の傾向が見られる。差異の生産の独占的集積が存在するわけだ。(113ページ)

ここで問題にしている場合でも、差異の崇拝はもろもろの差異の喪失の上に成り立つのである(114ページ)

このような差異の社会的論理を分析の根本的基軸として決定的に把握し、差別的なものとしての、記号としてのモノの開発(この水準だけが消費を独自的に定義する)がそれらの使用価値(およびそれと結びついた「欲求」)の追放の上に成り立っていることを理解しなければならない。(118ページ)

システムがシステムとして成り立つのは、それが各個人の必然的に相違する固有の内容と存在を取り除き、差異表示記号として産業化と商業化が可能な示唆的形態を代置するからにほかならない。システムは一切の独特な性質を除去して、差別的図式とこの図式の体系的生産だけを残しておく。この段階では差異はもはや排除的ではない。もろもろの差異は違う色が互いに「戯れる」ように流行(モード)の組み合わせの中で論理的に互いに包摂しあうだけではない。社会学的には、ここにあるのは集団の統合を固めるもろもろの差異の交換なのである。このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか、反対に交換用具になる。このことこそ基本的な事実であって消費はこの事実にもとづいて次のように定義される。
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。(121ページ)

ルシクラージュは(精密科学、販売技術、教育方法などにおける)知識の耐えざる進歩にもとづく科学的概念とされている。社会から「脱落しない」ためには誰でもこの進歩に順応するよう努めるのがあたりまえだといわんばかりだ。(135ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 20:23 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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