『消費社会の神話と構造』より その5
文化が永続することを前提として創造される時代は終わった。なるほど、文化は普遍的審級や観念的準拠として維持されてはいるが、文化が実質的意味を失ったためにますますそういうことになるのだ(自然にしても、いたるところで破壊されるようになるまではあれほど礼賛されはしなかった)。(138ページ)

規則的な授賞というシステムは昔はばかばかしいと思われていたのだが、今では状況に応じたルシクラージュや文化の流行の現代性と両立するようになった。かつて、文学賞は一冊の本だけに後世の人びとの注目をひかせようとしたが、それは滑稽だった。今日の文学賞は一冊の本を現代人の前で目立たせればよいのであり、それは効果的である。こうして文学賞は息を吹きかえした。(139ページ)

モノを買うという行為はクイズ番組によく似ていて、今日ではある欲求を具体的な形で満足させるための個人の独特な行動というよりはむしろ、まず第一にある質問に対する解答―――個人を消費という集団的儀式に引きずりこむための解答―――なのである。したがって、購買行動は、モノが常に一連の似かよったモノと一緒に提供され、個人がコンピューターゲームで正解を選ぶのとまったく同じやり方でモノを選択する―――購買行為とは選択であり好みの決定である―――よう催促されるという意味では一種のゲームだということができる。こういう次第で、モノの効用や性能についての直接的な質問ではなく、ほんの少しだけ異なるさまざまなモノ同士の「戯れ」についての間接的な質問に答えながら、人びとは買いものというゲームを楽しんでいるわけだ。この「ゲーム」とそれを成り立たせている選択は、伝統的な利用者と対立する購買者としての消費者の概念を特徴づけるものである。(144ページ)

消費社会、それは地位移動の可能な流動的社会である。幅広い層の人びとが社会的階梯をよじのぼり、ひとつ上の地位に到達すると同時に文化的要求を抱きはじめるが、それはこの地位を記号によって表示したという欲求にほかならない。社会のどのレベルにおいても「上の階層によじのぼった」世代は自分にふさわしいモノのパノプリ[セット]を求める。(153ページ)

ガジェットもまたキッチュと同じテクノロジーのパロディ、無用な機能の徒花的ひけらかし、実際に役立つ内容をもたないでひたすら現実的機能を模擬することにほかならない。このようなシミュレーションの美学はキッチュの社会的機能と奥深いところで結びついている。というのもキッチュは、階級的願望、階級上昇への予感、上層階級分化―――その形式、習俗、差異表示記号―――への魔術的同化を表現するからである。(155ページ)

テレビやラジオという技術的媒体や手段の力を借りて、事実と世界をバラバラに切り離し、断続的に継起するが互いに矛盾しないメッセージ(放送という抽象的次元において他の記号と並んで組み合わせられる記号)とすることこそ、消費の効果である。したがって、われわれがここで消費するのは、あれこれのスペクタクルやイメージそのものではない。想像しうるありとあらゆるスペクタクルが次々と出てくる可能性をわれわれは消費するのだ。しかも番組の継続と切り取りの法則のおかげで、あらゆることが月並みなスペクタクルと記号としてだけ出現するのだという確信をも、われわれは消費している。(175ページ)

マス・メディアの機能は、世界が持っている現実に生きられた―一回限りの―出来事としての性格を中和し、互いに意味を補完しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界を置き換えてしまうことだ。結局、各種のマス・メディアは互いに同じ内容になってしまう。―――これこそは消費社会の全体主義的「メッセージ」にほかならない。(177ページ)

記号を、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子どもやスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。この時、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179ページ)

この意味で、広告はおそらく現代のもっとも注目すべきマス・メディアである。広告は個別的なモノについて語りながら、実質的にはあらゆるモノを礼賛し、個別的なモノや商標を通して総体としてのモノ、モノと商標の総和としての世界について語っているわけだが、同様に個別的消費者を通して全消費者に、また全消費者を通して個別的消費者に狙いをつける。こうして広告は、総体としての消費者なるものをでっちあげ、マクルーハン的な意味で、つまりメッセージの中に、とりわけメディアそのものとコードの中にはじめから伏在している共犯と共謀の関係を通じて、消費者を部族のメンバーのような存在にしてしまう。広告のイメージや文章はその都度すべての人びとの同意を強要する。彼らは潜在的にそれらを解読することを求められている。いいかえれば、彼らはメッセージを解読しつつ、メッセージが組み込まれているコードへの自動的同化を強制されているのである。(180ページ)

それは、矛盾に満ちてはいるが現実的で流動的な経験から生まれたのではなく、コードの諸要素とメディアの技術的操作にもとづいて人工物として生産された出来事や歴史や文化や観念の世界である。このような事態だけがすべての意味作用を消費可能なものとして定義する。(181ページ)

広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果をあげるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者への同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。(中略)[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。(185ページ)

生産性向上のために合理的に搾取されるためには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。労働力が賃金にもとづく支払可能な需要と交換価値に変えられるためには、労働者の個人的自由の形式的原則である自由な意思決定と個人的利益が保証されなければならないのと同じように、欲望の力が合理的操作の可能な記号としてのモノの需要に変えられるためには、個人は自分の肉体を再発見し、自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要がある(形式的快感原則)。つまり解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的過程が擁立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ。
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by tyogonou | 2009-09-16 20:24 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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