『消費社会の神話と構造』より その6
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(一)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置きかえることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪い取る(これは本質的なことだ)。こうした自体は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。(223ページ)

性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
 一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表される使用価値―――なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)。
 二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、または今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に関する生活態度」)。(224ページ)

いずれにしても大部分のモノは理論的には交換価値と切り離すことのできる一定の使用価値をもつわけだが、時間はどうだろうか。(227ページ)

貨幣と時間は交換価値のシステムの表現そのものだからである。(232ページ)

象徴的意味では金貨も銀貨も、客体化された時間も排泄物だが、貨幣と時間に排泄物としての古風で供犠的な機能を与えることはほとんどないし、現在のシステムの下では論理的に不可能である。そんなことが可能なら、われわれは象徴的なかたちで貨幣と時間から真に解放されることになるだろう。ところがわれわれを支配する計算と資本の秩序においては、いわばその反対のことが起こっている。この秩序によって客体化され、交換価値として操作されているのはわれわれ自身であり、貨幣と時間の排泄物となったのもむしろわれわれのほうなのである。(232ページ)

余暇がふえ、自由時間がだれでも手に入れられるようになると、特権が逆になって、時間の義務的消費からできる限り逃れていることが至上の特権になるかもしれない。余暇が開発されるのに伴い、その理想的な意図とは裏腹に競争と厳格な倫理に組み込まれるようになれば(充分考えられることだ)、労働(ある種の労働というべきだろう)が余暇から解放されて一息つくための場所と時間になるかもしれない。いずれにしても、現代社会では労働はすでに差別と特権を表示する記号となることができる。(235ページ)

余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の不在によって規定される。余暇の本質的価値でもあるこの差異はいたるところで共示され、誇張され、見せびらかされている。余暇のすべての記号・態度・実践の中で、また余暇が話題とされるすべての言説において、余暇はそのような見せびらかしや絶えざる誇張を糧とし、自己宣伝によって成り立っている。(239ページ)

人間関係(自然発生的・相互的・象徴的人間関係)の喪失は、われわれの社会の基本的特徴である。この事実にもとづいて、人間関係が―――記号の形で―――社会的回路に再投入され、記号化された人間関係と人間的温かさが消費されるという現象が生じている。(243ページ)

広告のずるさ、それはいたるところで市場の論理を《カーゴ》〈貨物船〉の魔術(未開人が夢見る完璧で奇跡的な豊かさ)ですりかえることにほかならない。(251ページ)

われわれはショーウィンドウをのぞくことによって絶えず変化への適応性と社会への順応度をテストされ、誘導された自己投影能力を試されている。(253ページ)

消費と流行のサイクルに入りこむことは、自分の好みに合うモノやサーヴィスに取り囲まれるようになることばかりでなく、自分自身の存在の意味そのものを変えることである。それは、自我のもつ自律性・性格・固有の価値にもとづいた個人的原理から、個人の価値を合理的に減少させ、変動させるコードに従って行われる、ルシクラージュの原理への不断の移行を意味している。このコードが「個性化(ペルソナリザシオン)」のコードであって、これをはじめから身につけているものはいないが、他者との明示的関係においては誰もがこれに頼らざるをえない。ここでは決定の審級としての人格が消滅し、個性化原理が支配的になる。その結果、個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な関係の一項にすぎなくなる。(259ページ)

この自己への他者の内在化と他者への自己の内在化は、際限のない相互関係の過程に従って、社会的地位に関するあらゆる行動(つまり消費の全領域)を支配している。ここには、厳密にいえば、個人的「自由」を持った主体も、サルトル的な意味での「他者」も存在せず、人間関係の各項がその差異的可動性によってのみ意味をもつ「雰囲気」が一般的になっている。(260ページ)

われわれにとって問題なのは、むしろ最適社会性つまり他人や多様な社会的立場や職業とできるかぎり摩擦を起こさないこと(ルシクラージュ、なんにでも適応できる能力)、あらゆるレベルでの社会的移動に順応できることのほうである。どんな場所にも「移動でき」、信頼され、どんな状況にも適応できる能力こそは、ヒューマン・エンジニアリング(人間工学)時代の「教養」である。(260ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 23:46 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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