『消費社会の神話と構造』より その7
ところが、豊かさそのもの(豊かさそのものさえも、というべきだ)が新しい型の強制のシステムに過ぎないという仮説を少しでも認めるなら、この新しい社会的強制(多かれ少なかれ無意識的な強制)には新しい型の解放の要求しか対応できないことがすぐにわかるはずである。今のところ、この要求は、無差別的暴力の形態(物質的・文化的財の「盲目的」破壊)または非暴力的で逃避的な形態(生産や消費への投資の拒否)をとった消費社会に対する拒否となっている。(270ページ)

アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間の常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方的で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって無視され検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しかもたないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。(270ページ)

われわれの社会に存在するあらゆる過程は、欲望(デジール)の両義性を解体し分裂させる方向にむかう。享受と象徴機能において統一されていた欲望の両義性は、同じ論理に従って二方向に分裂する。欲望の肯定性はすべて欲求〔必要〕とその充足の連鎖のなかに移行し、そのなかで一定の目的へと導かれつつ姿を消す。欲望の否定性はすべて統御不能な身体化、あるいは暴力行為の中に移行する。(284ページ)

したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される、つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味を持つ事実なのである。(302ページ)

消費という特殊な様式のなかでは、超越性(商品のもつ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。意味するものと意味されるものの間には存在論的分裂ではなく論理的関係があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。幸福な時にも不幸な時にも人間が自分の像と向かい合う場所であった鏡は、現代的秩序から姿を消し、その代りにショーウィンドウが出現した。そこでは個人が自分自身を映してみることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中へ吸い込まれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものの描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。(303ページ)

子どもは自分自身と他者の中間に位置する鏡の中の像と「戯れる」。消費者にしても同じことで、項目や記号を次々と変えて自分を個性化する過程を「演じている」。子どもとその像の間には共謀と秩序だった関わり合いの関係があって、絶対的対立関係がないように、記号同士の間には何の矛盾も生まれない。消費者は自分がもっているモデルのセットとその選び方によって、つまりこのセットと自分とを組み合わせることによって自己規定を行う。この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明(アイデンティティ)の悲劇性に徐々に取ってかわったということができる。(304ページ)

消費社会が以前の社会とは違ってもはや神話を生み出さなくなったのはなぜだろうか。消費社会そのものが消費社会についての神話となっているからである。(305ページ)

その名に恥じないあらゆる偉大な神話と同じように、「神話」は独自の言説と反言説をもっている。すなわち、豊かさを礼賛する言説はいたるところで、消費社会の弊害とこの社会が文明全体に必ずもたらすであろう悲劇的結末を批判する陰気で道徳的な反言説をあわせもつことになる。(309ページ)

中世社会が神と悪魔の上で均衡を保っていたように、われわれの社会は消費とその告発の上で均衡を保っている。悪魔のまわりにはさまざまな異端とさまざまな黒魔術の流派が組織されえたが、われわれの魔術は白く、豊かさのなかには異端はもはや存在しえない。それは飽和状態に達した社会、眩暈も歴史もない社会、自ら以外に神話を持たない社会の予防衛生的な白さなのである。(310ページ)
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by tyogonou | 2009-09-17 20:40 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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