ソシュール
心理的にいうと、われわれの思想は、語によるその表現を無視するときは、無定形の不分明なかたまりにすぎない。記号の助けがなくては、われわれは二つの観念を明瞭に、いつもおなじに区別できそうもないことは、哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた。思想は、それだけ取ってみると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない。予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない。

次のようなものは存在しない。
(a)他の諸観念に対して、あらかじめ出来上がっていて、まったく別物であるかのような観念
(b)このような観念に対する記号(シーニュ)。
そうではなくて、言語記号が登場する以前の志向には、何一つとして明瞭に識別されるものはない。これが重要な点である。

文字法においても、我々はラングと同じような記号の体系の中にいる。その主な性質は次の通りである。
(1) 記号の恣意的性格(記号とそれが指示する事物の間には関係がない)
(2) 記号の純粋に否定的(ネガティヴ)で示差的な価値。(記号はその価値を差異のみに求める。たとえばtは、同一人物が書く場合でもさまざまで、t T  のようになるが、必要なのは、それがlとかnと全く同一であってはならないということだけである。)
(3) 文字法の価値は、一定の体系内で対立関係におかれた大きさでしかない。その価値は対立的であり、対立によってしか価値とならない。
 これは(2)に述べたことと全く同じことではないにしても、結局は否定的(ネガティヴ)な価値という意味に帰着する。
 例えば、ロシア人にとってのPは、ギリシア人にとってはRである。等々。(2)も(3)も、(1)の必然的帰結なのである。
(4) 記号の生産手段は全く非関与的であること(これもまた(1)の帰結なのだ)。

人間が樹立する事物の絆は、事物に先立って存在し、事物を決定する働きをなす。他の場所においては事物すなわち、与えられた対象が存在し、ついでそれをさまざまな視点から観察することができる。此処においては、それが正しいにせよ誤っているにせよ、まず在るものは視点だけであって、人間はこの視点によって二次的に事物を創造する。(・・・・・・)いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。

価値という語をめぐって我々が述べたことは、次の原理を措定することによっても言い換えることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。差異というと、我々は差異がその間に樹立される実定的(ポジティヴ)な辞項を想起しがちである。しかし、言語の中には実定的な辞項をもたない差異しかないという逆説である。そこにこそ、逆説的真理があるのだ。
厳密に言うと、シーニュがあるのではなくて、シーニュ間の差異があるだけである。

ここに至って、記号学の地平がよりよく定義される。われわれは、社会的産物としての性格をもつ現象しか記号学的なものとしては認めない。そしてこの社会的産物をより厳密に定めなければならない。いかなる記号学的産物を考察するときも、これが多くの単位から構成されることが見てとられるが、これらの単位の性質、つまり他の事物との間に一線を画すその本質は、それらが価値であるということである。記号体系であるところのこれらの単位の体系は、価値体系なのである。(・・・・・・)そして、この価値はそれが相互性を無視しては語ることができないという意味で複合性を有する。いかなる価値といえど単独には存在しない。またこの価値は、これを容認する集団の力によってのみ与えられる。
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by tyogonou | 2009-10-17 20:07 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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