消費社会の神話と構造より その8
消費に社会的事実としての性格を与えるのは、消費が見かけの上で自然から受けつぎ保存しているかにみえるもの(充足と享受)ではなくて、消費が自然から訣別する本質的な手続きである(この手続きが消費をコード・制度・組織のシステムとして規定する)。親族体系が最終的には血縁関係や家系つまり自然的条件ではなく、任意の分類規則にもとづくのと同様に、消費の体系は最終的には欲求と享受にもとづくのではなくて、記号(記号としてのモノ)と差異のコードに基づいている。(97ページ)

システムがシステムとして成り立つのは、それが各個人の必然的に相違する固有の内容と存在を取り除き、差異表示記号として産業化と商業化が可能な示差的形態を対置するからに他ならない。システムは一切の独特な性質を除去して、差別的図式とこの図式の体系的生産だけを残しておく。この段階で差異はもはや排除的ではない。もろもろの差異は、違う色が互いに「戯れる」ように流行(モード)の組み合わせの中で論理的に互いに包摂しあうだけではない。社会学的には、ここにあるのは集団の統合を固めるもろもろの差異の交換なのである。このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか、反対に交換用具になる。(120)

この精神分析はもちろん、真の分析的実践ではなく、教養化、マス・メディア化された精神分析の機能=記号なのだ。(220)

性器つき人形(性器が玩具化され、子供が操作できるようになっている)の場合、全体的(トータル)交換という象徴的機能を持つ全体性(トータリテ)としての性がまず解体され、性的記号(生殖器、ヌード、第二次性徴、そしてすべてのものに一般化されたエロティックな意味作用)のなかに閉じこめられた上で、私有物あるいは属性として個人に割り当てられている。
「伝統的なタイプの」人形でさえ、それなりに象徴機能(つまり性的機能でもある)を十分果たしていたわけだが、この新種の人形のように人形に特定の性的記号を付与することは、この象徴機能を阻害し、人形に見世物としての機能だけを担わせることにほかならない。もっとも、性器つき人形は特殊な例ではない。二次的属性、性的寓意、象徴機能の検閲として人形に付け加えられたこの性器は、子どものレベルでの裸体主義とエロティシズムの寓話化であり、いたるところでわれわれを取り巻いている肉体の記号の礼賛でもある。
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(1)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置き換えることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪いとる(これは本質的なことだ)。こうした事態は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。先に述べた無意識の場合と同じことだ。
結局ここではただひとつのことが問題になっていることがわかる。それは、象徴的交換としての性、つまり機能的分割を超越した全体的過程としての(いわば壊乱的な)性の否定である。
性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表れる使用価値―なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)
二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、またわ今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に対する生活態度」)(223-224)

要するに存在の本質とその外観のむきだしの倫理的弁証法から完全に開放され、関係のシステムの機能性だけを担わされた人間関係が出現しているのである。(248)
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by tyogonou | 2009-12-22 21:52 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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