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“曹操の墓”断定に反論、「魏の武将・夏侯惇の墓の可能性」
“曹操の墓”断定に反論、「魏の武将・夏侯惇の墓の可能性」 2010/01/05(火) 16:18:07 [サーチナ]
夏侯惇の墓だったならそれはそれで嬉しいのだが。

発掘者側の言い分によると、魏武王の称号については、三国志武帝記は、一月に死亡、帝から武王の称号が贈られ、二月に埋葬されたという順序で記述しているので、問題はないということだ。

他の疑問点に関しては私の見解だが・・・。
自分の墓と分からないようにという曹操の遺志と名前が彫られた石牌の矛盾については確かに分からない。もっとも、曹操の猜疑心の強いイメージは後世になって強められている部分があるので、別の意図があって印などを墓に入れないように命じていたのが、自分の墓を知られないようにと変化した可能性はあるかもしれない。
また、曹操は生前、倹約を旨(むね)としており云々に関しても、「贈答用や副葬用として」そういった実用でない品を作るのを禁じたというのが素直な解釈で、「常所用」の道具を墓に収めることまで禁じられていたと断じるのは強引である。また、その論理で行けば、曹操のすぐ後に死んだ夏侯惇の墓であるというのもおかしい。夏侯惇が自分の埋葬についてどのように考えていようと、直前に死んだ主君の例に反するような埋葬のされ方をするはずがあるまい。
曹操の墓が墓群を形成していたはずという説も疑問だ。曹操と息子の曹丕は漢代の儒教的な価値観とは異なる考え方をもっていたようで、薄葬を命じたことから考えてみても漢代の制度を踏襲したという説のほうがより疑わしい。また、そうだとしても劉会長の夏侯惇の墓という説は、「曹操の墓の近くには26人の墓が設けられた。その筆頭に挙げられるのが夏侯惇の墓だ」という自身の説と矛盾してしまう。
武具が多いのは魏の支配者である曹操に相応しくないという指摘もそれほど説得力があるとは思えない。曹操自身、武芸に優れていたとされているし、戦時中だからという理由で短期間の服喪と質素な埋葬を命じた人物像と、そういった副葬品類は必ずしも対立しないように思われる。
現在劉氏の批判を完全に跳ね返すだけの証拠もないのだが、夏侯惇の墓説は曹操の墓説よりまだ根拠が薄いように思われる。

もしこれが曹操の墓でないとしたら、「魏武王」と記された副葬品は誰が作ったものなのだろうか。
偽物の副葬品を作る理由として考えられるのはまず金のためなのだが、「曹操の墓発見」の経済的利益は相当なものになるとはいえ、それを見込んで偽者を仕込むような者がいるだろうかと考えるとちょっと難しい。こういった「掘り出し物」の世界の奇奇怪怪なることは幸田露伴の『骨董』でも読めば分かることで、そんな可能性を否定することもできないのだが、やはり前にも書いたようにでっち上げるなら、溝の掘られた石版などではなく、もっと金になりそうなものを作りそうな気がしてならない。
ほかに一応考えられるのは、地域の住民(最近の人とは限らない)が、曹操の墓といわれるこの墓をいわば整備する目的で入れるということもあるかもしれないが、それなら「魏武王」とせずに「魏武帝」としただろう。
唯一、可能性がありそうなのは、発掘に当たった考古学者たちが学問的業績のためにでっち上げたというものだろう。彼らなら、少なくとも一部の考古学者の支持を得られるほどリアリティのある偽物をでっち上げることもできるし、もともと墓の中にあった本当の主を指し示す証拠を廃棄することもできる。そして、そういうことは歴史上なんども例のあることではある。

批判者たちは、偽物であるならこれら副葬品をでっちあげたのは誰かという問題をちゃんと考えるべきだ。今のところ、溝の掘られた石版を掘り出した盗掘者がそれを見て枕だと見当をつけて「魏武王常所用慰項石」と掘り込んだのだという程度の見解しかないようにも見える。だが、必要な知識や技術などを考えれば、これが偽物だとしたら相当悪質な詐欺行為だと思われる。そうだとすると、墓の中にあったものすべてがいわば「汚染」されている可能性があるので、それを根拠にたとえば夏侯惇であると主張することもナンセンスである。
一番確かなのは、副葬品の数々をひとつひとつ科学的に調査をして制作年代を探ることだ。どれだけのことが出来るか分からないし、時間も当然かかるが、考古学とはそういうものだ。
by tyogonou | 2010-01-06 23:59 | 国際
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