消費社会の神話と構造 まとめ その1
1.『消費社会の神話と構造』の難しさ
『消費社会の神話と構造』が難解だといわれる理由のひとつは、それが消費社会の全体像を提示するのでも、論理を順繰りに積み重ねていくのでもなく、その中の部分部分を(他の経済学者らを批判する形で)詳細に記述したものを列挙するという形をとっているところにある。部分と部分をつなぐ脈略、議論全体の理路が不明確なため、それぞれの部分の適否や意味などが判断しにくい。もっともそれはボードリヤールばかりの責任ではなく、分析の対象である消費社会にそういった捉え難さがあるということなのかもしれないが。
消費システムの安定化が不可能だという事実、つまり消費の熱狂と限りない前進を前にした経済学者や理想主義福祉論者たちの狼狽は、いつ見ても教訓的である。(69)
ボードリヤールの議論(そして彼が見た消費社会)を理解するにはここから出発するといいだろう。
経済学者らの「狼狽」とは次のようなものである。経済が発展すれば、市民は皆豊かになり、快適で安全ですばらしい生活を送ることができるようになるはずである。欲求にも収穫逓減の法則が働き、貧困にあえいでいたころの渇望は薄れ、すべての市民が平等に満ち足りることになるはずだ。それにもかかわらず、消費への「欲」は尽きるどころか無限の熱狂と前進を続けるように見える。
ボードリヤールはここに発想の転換の必要性を見る。

2.成長
楽観論者と共に「成長は豊かさを、それゆえ平等を生み出す」とはもういえないし、「成長は不平等をもたらす」という逆の極端な見解も採用できない。(55)
成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。(56)
ボードリヤールは、民主主義と資本主義の発達が、生まれによって固定されていた社会階層を、行い(経済活動)によって移動可能な(流動性のある)ものに変えたところに、消費社会を特徴付ける「消費の限りない前進」の原動力を見る。
市民はもはや、道具などとして使用するために商品を買うのではない。経済活動とは、流動的で相対的な社会階層の中で自分の地位を上昇させるための活動であり、商品はそうして上昇した地位を他者に知らしめるための記号として購入される。市民の平等を求める(上の階層に追いつこうとする)エネルギーと、不平等を維持しようとする(下の階層に追いつかれないようにしようとする)エネルギーとは、常に「より上位の」社会記号としての商品を要求し、それが消費者の無限の欲求と経済の永遠の発展とを生み出す原動力となっている。消費者が求めるのは「持てる者」になることではなく、「他者より、そして今の自分より持てる者」になることである。

3.流行の強制 計画的廃用
そのような説明にはひとつの難点がある。。経済活動を人間の物理的生物的欲求を充足させるための営みとして規定してしまうと、それはいずれ限界にあたってしまう、すなわち、無限に成長し続けることはできない。かつて、太っていることは、たらふく食べるだけの財力があることを示していたが、いくら裕福さを誇示したくても胃袋の大きさには限界がある。
この難点を回避するために消費社会が用いた戦略は二つあって、そのひとつはかつてのローマ人のように、食べたものを消化しないで満腹になったら吐いて胃袋を空けてさらに食べ続けるような方法である。計画的廃用によってモノの回転は早くなり消費の絶対量も増加可能になる。
ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(45)
女性の服飾品の毎年の移り変わりを見れば、それが暑さ寒さを凌ぐという使用価値ではなく、流行という記号的価値によって規定され、そしてそのために前者が奪い取られるという構造は容易に見て取れる。これは、単に数多く生産できかつ廃棄も容易な商品に限った問題ではなく、消費社会における商品には多かれ少なかれ共通する特性である。優れた作品が「不朽の名作」と呼ばれるような文学や芸術の分野でさえ、年ごとの文学賞という形で流行り廃りを強制されている。また、急テンポで移り変わる商品のラインナップの中から選び購入しなければならない消費者にも、その変化に遅れないよう「ルシクラージュ」が求められる。職業上の新しい知識を学びなおすことを意味するこのフランス語は、流行の「サイクル」について行かなければならないという要請を連想させるという意味では優れているが、21世紀に生きる私たちには「アップデート」というコンピュータ用語の方が分かりやすいだろう。ネットワークにつながりたければ、あるいはウィルスなどの被害を受けたくなければ、コンピュータソフトは常に最新のバージョンにアップデートしなければならないし、今や自動的(強制的)な手続きとなっていることも多い。

4.生物的欲求から記号的欲望へ
社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(73)
人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団を抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(67)
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。(121)
生物的制約を乗り越えるもうひとつの方法は、消費を欲求の充足の問題から切り離すことだ。つまりモノは、単に胃袋を満たすだけでなく、それを消費する人間の社会的な価値を高める特別な意味をもつことになる。
かつて多くの日本人にとって「米の飯」はそういう特別な意味を持っていたし、米食が一般の人々にとっても当たり前になると、「コシヒカリ」のようなブランドが同様な社会的権威づけの記号となった。高級外車、高級ブランドの服飾品など、誇示型商品の例は豊富に思い浮かぶ。
しかし、何にも意味ももたない雑器のなかにぽつんぽつんと特別な意味を持つ誇示型商品が浮かんでいるだけでは、経済発展は永遠に続く運動となりえない。そのためにはすべてのモノに意味を付与して、モノを使用価値の地面から浮かび上がらせ、それを階段状に配置しなければならない。あるいは、社会階層は無限に高くなるわけではないし、麦を食っていた貧乏人と米の飯を食していた上流階級の差は、ノンブランドの米を食う貧乏人とコシヒカリを食す上流階級の差となんら変わるところがないから、それほど多くない数のステップが次々と上から下へと流れてくるエスカレーターのような仕組みを作ればいい。さながら下りのエスカレーターを登っていこうとする子どものように、私たちはより上位の階級を追ってついさっきまで彼らが立っていたステップへと登っていくが、その実決して現在の位置から上昇することはないし、上下の階級との差も変わらぬままである。しかしそれでもなお、自分より上の者に置いて行かれないよう、そして自分より下のものに追い抜かれぬよう、私たちは登ろうとする努力をやめることも出来ない。

5。記号の「体系」
ここで注意しなければならないのは、モノはただその機能的な使用を越えただけでなく、所謂誇示型商品として個人や集団の単なる権威付けの機能も超えたということだ。それは、ただ機能を超えた社会的な意味を持つ商品が増えたということを意味するのではない。誇示型商品が権威など社会的な意味を持ちうるのは、ほかの商品がそういった意味をもたないという状況の中で始めて可能になることだ。すべてのモノが社会的な意味を持つようになると、そしてそれらがひとつの体系を構築すると、その意味は失われていき、モノはソシュールの言語論的な意味での差異表示記号となっていく。
ソシュールによれば、たとえば「水」という言葉とそれが指し示している液体とには何の必然性もない。言葉についての素朴な見方では、言葉の「正しさ」はそれが指し示している事物現象に根拠を持つが、ソシュールはそれを否定する。その液体を「水」と呼ぼうが "water" と呼ぼうがかまわないし、そのうちの温度の高いものを「湯」という別のカテゴリに分離するのも、単に "hot" な "water" として元のカテゴリに残すのもどちらでも問題ない。どちらが真実の水をより正しく捉えているかという議論は全く意味がなく、言葉の正しさはその言葉が属する言語体系によって規定される。そこで重要になるのは「水」という言葉が指し示す事物ではなく、それが対立しうる他の言葉(湯、油、火などなど)である。消費社会におけるモノにも同様のことが言える。ヴァージンコーラという商品名は、その飲み物の味わいなどを指し示すというよりも、コカコーラ、ペプシコーラといった他の商品名を引っ張りだし互いの差異を指し示す。そうして差異を表示するだけになったモノは、それが属する体系の中のひとつの要素にすぎなくなる。
生身の兵士は、様々な感情、様々な思考様式、様々な背景を持ち、それぞれが特異な行動をとるものだが、それが将棋というゲームの中に抽象化されると、個別の兵卒が持っていた属性は捨象され、唯一動き方の違いによって他の駒と区別され、あるいは同一視されることになる。いわゆる「差異の消費」とは、私たちが駒を動かして将棋を指すがごとく、記号としてのモノを操作して消費活動を営んでいるということを意味している。違うのが将棋がごく少数の例外を除いては私たちの日常生活に影響を及ぼさない特殊なコミュニケーションであるのに対し、消費社会においてモノが作り上げる差異の体系はマスメディアの力を借りて、私たちの社会生活そのものといえるまでに拡大しているところだ。

6.モノ分けされる世界
消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに超えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96)
マス・メディア的消費を規定するのは実在系をコードで置き換えるこの手続きの一般化なのである。(181)
もっとも取るに足りない技術的製品やガジェットでさえ技術がいたるところで勝利する見込みの現れであるのと同様に、イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、つまり現実の世界を全面的にイメージ化すること(イメージはいわば世界の記憶―普遍的読解の細胞―のようなものだ)の傲慢さの現れである。(177-178)
イメージは出来事の(歴史的・社会的・政治的)独自性を認めようとも理解しようともしないで、イデオロギー的構造であると同時に技術的構造でもある同一のコードに従ってすべての出来事を無差別に再解釈して人びとに引き渡すという意味でも、出来事とはまったく別のものである。ここでいうコードとは、テレビの場合なら、大衆文化のイデオロギー・コード(道徳的・社会的・政治的価値体系)およびメディア自身の切り取り、分節化の様式のことで、メッセージの多面的で流動的な内容を中和し、メッセージが持っている意味の命令的強制で置きかえるある種の言説性を押しつける。(179)

マス・メディアは、さまざまな出来事を「イベント」や「イメージ」として抽象化し、記号化し、消費の対象として、さまざまな商品などと交換可能な存在にする。商品と出来事という全く別の次元に属する概念がマス・メディアによってモノの体系というひとつの枠組みの中に組み込まれ、私たち人間を囲い込む。言語学者の丸山圭三郎は、ソシュールの記号論による言語とは人間が世界を分節化する枠組みであることを指摘し、動物とヒトがそれぞれ世界を分節化する仕方について、身分け構造とコト分け構造という概念によって説明している。マス・メディアの発達した消費社会に生きる消費者はもはやヒトを超えた生き物、すなわち「モノ分け」によって世界を分節化する別種の生き物であると言えるのかもしれない。

7.同語反復 真偽の彼岸へ
現実の世界をモノの体系という虚構の(ヴァーチャルな)世界で置き換えること、それは永遠に続く経済発展という資本主義の至上命令にどのような影響を及ぼすのか。
もっとも重要な効果は、コンピュータの仮想化と同様に、それによってシステムへの攻撃を防ぐことができることだ。逆に言えば、その中に生きる人間が資本主義システムを変えることを不可能にするということだ。
ボードリヤールに影響を受けたといわれる映画『マトリクス』の世界は奇妙なことにマトリックスのなかの自己同一性は生身の肉体に戻っても不変のまま保たれ、マトリックスと生身の体が存在する現実の世界とを行き来することが可能だった。それゆえにネオやモーフィアスたちは現実の世界で交流することができ、そこで自分たちが暮らしていた世界がコンピューターの作り上げた仮想世界であると認識し、それと戦うことが可能になった。しかし、生身の肉体に戻ることができなければ、あるいは戻ってもそこでもとの自己認識を保てなければマトリックスの世界はネオらの攻撃を受けることはなかっただろう。
「あなたが夢見る肉体、それはあなた自身のからだです」(123)
記号を、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子供やスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。このとき、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。つなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒体として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179)

もはや本ものも現実という準拠枠も存在せず、あらゆる神話や呪文と同様広告が別のタイプの検証つまり自己実現的予言(ある言葉を発することによって実現されたことになる予言)を拠りどころにしているからといってもよい。
(中略)
広告は、何かを理解したり学んだりするのではなくて期待することをわからせるという点で、予言的な言葉となる。広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果を上げるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者の同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。
(中略)
[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。(185)
実際には、広告(他のマス・メディアもそうだが)はわれわれを欺いたりしない。モードが美醜を越えたところにあり、記号としての機能を持つ現代的なものが有用無用を越えたところにあるように、広告は真と偽のかなたに存在している。(184)

「マクドナルドのハンバーガーパテはビーフ100%である」という言明を考えてみよう。自分で料理をし、牛肉100%のハンバーグも、合挽き肉のハンバーグも作りそれらの肉の味をよく知っている人間にとって、この言明は現実を指し示す意味のあるものとなる。しかし、ファーストフードのハンバーグしか食べたことのない人間にとって、「牛肉100%のハンバーグの味とは」「マクドナルドのハンバーガーの味」ということになり、その味がどんなものかをまったく説明しない。さらに、肉の味をよく知っている人間でさえ、それを他人(特に不特定多数の人間)に伝えようとすれば、こういった意味を失った言明に頼らざるを得なくなるのが消費社会である。
皿の上に正体不明のハンバーガーが載っていれば、人はバンズの味、パテの味、そのた調味料や野菜類の味とそれらが調和してかもし出す味覚を味わうだろうが、よく知った包み紙によく知った外観のハンバーガーが包まれていれば、いちいちそういった味わい方をしないだろう。それは良くて味の確認に過ぎず、違和感さえ感じさせなければほとんど味わわれないまま飲み込まれるかもしれない。広告業者の仕事は、広告によってハンバーガーの味わいを説明することではなく、むしろその経験を先取りし、奪い、自らの作り出すイメージをそこに植えつけておき、そこに消費者を誘導することである。消費者はそこで広告によって予言されていたとおりのものを見つけることになる。そうして預言者たる広告業者と創造主たる広告主の正しさは証明される。啓示による「正しさ」は理性による「正しさ」の判断を越えるがゆえに異議申し立ての不可能なものである。

8.生物的欲求の復活 成長を導くものとして
そもそもシステムの破壊の予防という問題が出てくるのはなぜだろうか。それは消費社会が異議や暴力のようなネガティブなものを必然的に生み出すシステムだからだ。そしてそれを遮断し丸め込み拡散する巧妙な仕組みを発展させたことが消費社会の成功の秘密でもある。
アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則と効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間に常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって、無視され、検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とはならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しか持たないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。
豊かな社会における暴力という重要な問題(間接的にはアノマリーやうつ状態や逃避などのあらゆる徴候の問題も含めて)は、こうして解明される。貧困と窮乏化と搾取が生み出す暴力とは本質的に異なるこの暴力は、欲望のまったく肯定的側面によって排除され、隠蔽され、検閲された欲望の否定性の顕在的出現としての行為である。欲求(ブズワン)が満たされることによって人間とその環境がめでたく等価性をもつようになる過程の真っ只中に出現した両義性の否定的側面といってもいい。(271)

価値において他者に対して相対的である存在としての人間の欲求には限度がないが、一方で相対的な満足は相対的な不満と表裏一体であるという側面もある。優越感のあるところ必ず劣等感がありということだ。
一方で、相対的な欲望(記号化された)欲求が作る差異の体系は、「上下」のような基準座標軸を欠いている。その要素たるモノは互いに対立しあって体系をなすが、それはそれぞれが逆方向のベクトルによって相対的に位置づけられるということでもあり、なんらかの絶対的なベクトル上に並べられるものではない。しかし永遠の経済成長という消費社会の絶対的な目標のためには、そこに上下という座標軸を通し、消費者にそこでの上昇を志向させなければならない。それゆえ、消費社会は一度捨てた生物的な欲求を再び枠内に呼び戻す。差異の体系の中に多様な価値を持つモノたちは、素朴な生物的必要、あるいは即物的な快楽といったものの増大というスケールに投影され消費者たちの行動の行き先を決定する。
生物的欲求はまた、相対的な欲望の生み出すネガティブな感情を丸め込むためにも利用される。たとえブリオッシュを食べることができなくても、パンをたらふく食べられてるなら文句を言うな、ということだ。相対的な欲望の階層の中では、いくら上へとよじ登り、望んでいたものを手に入れたとしても、見上げるとそこにはまだ手に入れなければならないモノが私たちを呼んでいる。私たちはそんな永遠の渇望に苛まれながら、それを永遠に新しくもたらされる満足であると思い込まなければならない。なぜなら、永遠の渇望は私たちの上昇への意志を摘んでしまうからだ。満足に満足を積み重ね、さらに新たな満足が加わる可能性があるからこそ、私たちは経済活動を続けるのだ。

(その2へ)
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by tyogonou | 2010-02-11 00:48 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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