消費社会の神話と構造 まとめ その2
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9.生産されたモデルへの登録としての「個性化」
個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることなく、ある無限定な階梯の上に秩序化していくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。特異性とは、他者や世界との具体的対立関係においてしか生まれないからだ。これこそ差異化の奇蹟でもあり悲劇でもある。こうして消費過程全体は(洗剤の商標のように)人為的に数を減らされたモデルの生産によって支配される。そこでは他の生産部門の場合と同じように独占化の傾向が見られる。差異の生産の独占的蓄積が存在するわけだ。(113ページ)
消費というものは、まず最初に個人的欲求をもった個人を中心に秩序付けられ、ついでこの欲求が権威ないし順応の要請に応じて集団の文脈の上に指数化される、といったものではないことを知るべきだ。実際には、まず最初に差異化の構造的論理が存在し、この論理が個人を『個性化』されたものとして、つまり互いに異なるものとして生産される。だがこのことは、自分を個性的なものとする行為においてさえも個々人が自分を順応させる一般的モデルと一つのコードにしたがって行われる。個人という項目についての独自性/順応主義の図式は本質的なものではなく、体験レベルの問題なのである。コードに支配された差異化/個性化の図式の論理、これこそ根本的な論理である。(119-120)
いいかえれば、コミュニオン(聖体拝領)はもはや象徴的媒体によってではなく、技術的媒体によって行われるのであって、この意味でコミュニオンはコミュニケーションとなる。(141)
モノが単に使用価値を越えた意味を持つのではなく、記号の体系の一要素となってしまうこと、モノが様々な意味を包含し統合しながらひとつの全体として象徴となるのではなく、モノがすべての意味を追放して差異を表示するだけの記号へと抽象されること、これこそが消費社会の特徴である。
象徴と抽象については象徴的記号としてナイフを例に考えてみよう。ナイフを男性の象徴としてみる場合、そこには男性器ばかりでなく、攻撃性であったり、ゴルディオスの結び目を断ち切ったアレクサンダー大王のような決断力なども男性的なものとして絡み付いている。それだけでなく、男性とは関係のないイメージ、たとえば日本の守り刀のように魔を祓うというような意味までも周辺にまとわりついている。しかし、広告がナイフを男性器をあらわす記号として用いるとき、それは「男性器の象徴」という抽象になっている。抽象とは余計なものをそぎ落とすことであって、ここでは攻撃性や決断力などといったものは排除されてしまう。もはや象徴作用の解明、精神分析は成り立たない。
そして、その中で生きる人間、モノを生産する労働力として、あるいはモノの記号的意味を生産する消費者として生きる人間もまた記号化の洗礼を受けてはじめて消費社会へと「現れる」ことができる。道具が他の道具との相性によって形作られるのではなく、ひとつのコンセプトにしたがってワンセットの道具が形作られるように、私たち人間の人格も他者との交流の中から自律的に立ち現れるのではなく、消費社会のコンセプトにしたがって用意されたいくつかのモデルのなかから好きなものを選びそれに自分を同一化することで形作られる。諸個人の特異性とその対立が生み出す不協和音は既成の社会への反乱の契機となりうるが、消費社会はとりどりに異なる消費者たちに魅力的なモデル、いわばプレタポルテの個性を選ぶ楽しさを共有させることによってその芽をあらかじめ摘んでしまう。
また、相対性の不安もここで押さえ込まれてしまう。すなわち、自分が選ぶモデルのよさを認識するためにはそれより劣ったモデルとの上下差が必要なのだが、「みんな違ってみんないい」のだということにすれば、自分の選んだモデルが他者のモデルの優位性を示すより劣ったモデルではないのかといった懸念を封じることができる。
かつては、生まれ・血統・宗教上の差異は交換されあうものではなかった。それは流行上の差異などではなく、本質的なものに触れていたのであった。それらは「消費」されるものではなかったのだ。ところが、現代における差異は、服装やイデオロギーや性の差異さえも、消費の巨大な連合体のなかで互いに交換される。それは諸記号の社会化された交換である。あらゆるものが記号の形式をとって交換されるのは習俗の少しばかりの「自由化」のおかげではなくて、すべての差異を承認の記号として統合する秩序によって差異が系統的に生産されるからである。またもろもろの差異は互いに取替え可能であるから、階級の上下、右翼と左翼の違い以外には、相互の間に緊張も矛盾も存在しないからである。(121)


10。機能的分割 個人の消滅
そして個としての存在は記号の組み合わせと計算の中で消滅する……消費的人間は自分自身の欲求と自分の労働の生産物を直視することもなければ、自分自身の像と向かい合うこともない。彼は自分で並べた記号の内部に存在するのである。(303)
生産性向上のために合理的に搾取されるには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。労働力が賃金にもとづく支払可能な需要と交換価値に変えられるためには、労働者の個人的自由の形式的原則である自由な意思決定と個人的利益が保証されなければならないのと同じように、欲望の力が合理的操作の可能な記号としてのモノの需要に変えられるためには、個人は自分の肉体を再発見し、自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要がある(形式的快感原則)。つまり、解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的過程が確立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ。(197)
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(一)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置きかえることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪い取る(これは本質的なことだ)。こうした事態は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。(中略)
結局ここではただひとつのことが問題になっているのがわかる。それは、象徴的交換としての性、つまり機能的分割を超越した全体的過程としての(いわば壊乱的な)性の否定である。
性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
 一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表される使用価値―――なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)。
 二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、または今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に関する生活態度」)。(223-224ページ)
消費社会は個人の特異性を奪い去るばかりではない。それはひとりの個人としての同一性までも奪い去る。
全体性を失い、機能的に分割され、分割された諸要素を使用価値と交換価値の図式の中に吸い取られる、そんな消費社会における個人のありようを理解するには、良い例がある。子ども向けの絵本でアニメとしても有名な「アンパンマン」である。
アンパンマンの顔は、パン職人のジャムおじさんが作ったあんパンで、取り外し可能である。その顔がばいきんまんの悪さによって汚されたり、おなかを空かせた人に食べさせたりすればアンパンマンの力は弱ってしまうが、新しい特製あんパンと交換すれば元気100倍になる。顔は他の食べ物や普通のあんパンでも代用可能(交換可能)だが、得られる「元気」は3倍であったりと、本来の自分の顔よりは劣ってしまう。食べられて顔の一部が欠けてしまっても、他の食べ物で代用しても、アンパンマンの人格は変わらないし、ロボトミー(前頭葉切除手術)のように何らかの機能が損なわれるわけでもない。アンパンマンの頭と胴は機能的に分割されている。
言うまでもないことだが、生きている人間の顔にしろ体のどんな部分にしろ取り外し不可能である。それは単に物理的に切り離したら死んでしまうというだけでなく、自己認識の上でも「わたし」の切り離すことの出来ない一部である。ところが、資本主義の下で人間が「労働者」になるためには、本来自分の一部であった「労働力」を自分から切り離し(「解放」し)、自分の「労働力商品」として全能の所有権を宣言しなければならない。それは、アンパンマンが「『ぼくの顔』を食べて』というのに似ている。
顔のあんパンは、アンパンマンの一部というよりアンパンマンの所有物である。それは「顔」として胴体にくっついている間は他者との差異を示す記号に過ぎないが、「あんパン」として、子どもたちに食べられるときには、それは生物的な欲求を満たすモノとして使用価値をもつことになる。顔を食べられることは、アンパンマンに機能的な変化をもたらさないが、一方で食べる子供たちにも空腹を満たし舌を喜ばせるという普通のあんパン以上の変化をもたらしはしない。それはストーリーの中の子どもたちにとっても、絵本を読む子どもたちにとっても、聖体拝領のような象徴的な儀式ではない。「元気」が何倍になるかというのも交換比率にすぎない。
こうして、分子と化した人間たちはさまざまな原子価をもつ原子で構成されているようなものなので、時には分解して組成を変えたり、構造の複雑な大きい分子になったりする……。(260)
アンパンマンが顔を外して交換することができるのは、いうまでもなくその顔と胴体とが「バラバラ」だからである。両者を結びつけ、ひとつの体、ひとつの自己へと統合する統辞法がそこにはない。そこにあるのはただ頭と胴体という対立である。それゆえ頭が胴体から切り離されるという状況は惨劇とはならない。そこが人間とは違う、といいたいところだが、消費社会における人間はアンパンマンの頭のように、自分の労働力や性器を自在に切り離してそれを他者と交換している。それらを自己へと統合する統辞法が欠けているからだ。

11.人間らしさ
興味深いのは敵役のばいきんまんが奇妙に(消費社会成立以前の)人間臭いところで、アンパンマンとばいきんまんの関係も示唆に富んでいる。ばいきんまんは悪さをするのが大好きで、誰かを陥れておいしい食べ物を横取りしたりするため、そしてアンパンマンを出し抜くために想像力と知恵を働かせ、時に変装までする。成功すればよく笑うし、邪魔されればよく怒る。時に悪さが「誤解」を受け「いい子」だと誉められてしまうようなこともあるが、そんなときの悔しさの中にちょっとした嬉しさが混じって葛藤する姿はほほえましくもある。
対するアンパンマンは泰然としていて、ばいきんまんの悪さを許さないけれども、ばいきんまん個人に対しては特別何の感情も抱いていないようである。「美味しいものをみんなに食べさせたい」という気持ちはあるが、基本的に喜怒哀楽を欠いている。それこそばいきんまんによって自分の顔(=面子)が傷つけられても怒りはしない。それは新しいものと代えてしまえば済む話なのだから。(消費社会の話に戻ればここでもシステムへの反乱の芽は摘まれるということだ。)バイキンマンにとってアンパンマンは、永遠のライバルであり、「いい子」なサブキャラクター全員の象徴でもあるが、アンパンマンにとってのばいきんまんは、自分の汚れた顔同様、取り除けばすむものでしかない。しかも元気な状態ならアンパンチ一発で簡単にけりがつくため、わざわざ悪巧みを逃れるために相手の思惑を深く読む必要もない、基本的に無関心であるといえる。正義の味方には一般的なことだが、悪をやっつけるために暴力(悪しき行い)を振るうことへの葛藤ももちろんない。
葛藤の無さは消費的心性のひとつの特徴といえる。葛藤とは愛と憎しみのような矛盾した感情をどちらも排除することが出来ないような情況に起きる。ところが、消費社会では、愛は憎しみや恋や友情や性欲などから注意深く切り離され、差異化させられ、外延を確定され、純粋な「愛」という記号になり、消費の対象、交換されるモノとなる。
古い人間の内では、愛や憎しみは事毎にその範囲を拡張し、互いに接し、混じりあい、複雑な「気持ち」へと統合(integrate)される。それはどちらかひとつに統一(unite)されるのではない。矛盾するにも関わらず、両方とも真であって、どちらかを捨てるすることが出来ない、それが葛藤となる。
そういった緩やかに統合された複雑な自己をもつ人間同士のコミュニケーションは象徴の交換となる。メッセージの送り手は言葉、品物、あるいは行為の中に多くの意味を圧縮し、受け手はそれを自分自身の人生経験によって築き上げた独自の統辞法によって解凍し、読み解く。その交換は間接的なものであるがゆえに誤解も生じる(ばいきんまんがよく苦しめられるのもこの誤解だ)が、行間を読んで相手の表に出せない気持ちを汲むなどの人間らしいコミュニケーションを可能にするだけでなく、この象徴交換によって互いの統辞法を推測しあうことで、自己と他者という認識が生まれるのだ。
個人の特有の統辞法を欠いた消費的人間のコミュニケーションは、より直接的な交換、愛と憎しみはそれぞれ純粋なモノとして抽象化され(互いに捨象しあい)、それ以外のなにものでもないモノの交換になる。そしてアンパンマンの頭が、アンパンマンの肉体的な条件ではなく、ジャムおじさんのレシピによって規定されていたように、私たち人間もモノの体系によって規定されたメッセージやモノを、送り出し受け取り、流通させる中継点に過ぎず、そのモノを変えることもそれによって変えられることもない。人間は他者とも自分自身とも対話しない。そこに弁証法はなく、テーゼはアンチテーゼを生むことなく人間を素通りする。あるのはせいぜい論理計算(Aというモノを受け取ったとき、Bという条件が満足されるならAを、満足されないならCというモノを返す)にすぎない。
消費という特殊な様式の中では、超越性(商品のもつ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。意味するものと意味されるものの間には存在論的分裂ではなく論理計算があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。(303)


12。結び
われわれの時代は、食料品のための日常的支出も、「威信を示すための」支出も、ともに消費と呼ばれる時代、それも万人の合意にもとづいてそう呼ばれる最初の時代である。(307)
今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系(エコロジー)に根本的な変化が生じている。すなわち、豊かになった人間たちは、これまでのどの時代にもそうであったように他の人間に取り囲まれているのではもややなく、モノによって取り巻かれている。人間たちの日常的な交渉は、今ではこれまでと違って、むしろ統計的に増加曲線を描く財とメッセージの受け取りと操作となっている。(11)
生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである。
したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される。つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味を持つ事実なのである。
ボードリヤールの消費社会論とは、単に商品がその使用価値を越えて社会的意味を持つことを言うのではないし、商品が消費者を隷属させる(新製品が出ると「買わされてしまう」人びとのように)ことを言うのでもない。
商品は(あるいはきれいな空気のように商品になりうるもの全てが)差異表示記号、すなわち使用価値ではなく他の商品との対立を指し示す記号となり、その記号によって分節化される仮想世界(=モノの体系)を作り上げる。モノによって秩序付けられる仮想世界は、現実世界のさまざまなモノを抽象的な記号として、もっと重要なことには消費にいざなう魅力あふれるものとして浮かび上がらせ、そのショーウィンドウに並べてみせる。ショーウィンドウのモノたちは、消費者を更なるモノの消費へと誘導する(ハンバーガーにはポテト、お弁当にはお茶をいかがですか?)。私たちの周囲には、数の上でも種類においても膨大な数のモノが追加されていくが、それらが私たちの現実生活を豊かにしてくれるわけではない。記号化されたモノは、現実の使用価値指し示しはしないし、どれだけ数が増えたとしても「相乗効果」で何か新しいものを生むこともない。それはただ足され、対立させられ、交換されるのみである。男女の結婚も今や「男+女(+子ども)」のまま、ひとつの「家族」へと変換されない。現代日本の食卓で、家族がそれぞれ自分の好きなものを食べる個食が進んだのは当たり前の流れといえるかもしれない。
現実世界のさまざまな財やサービスやモノとなりうる諸々が、抽象的な記号と足し算的な秩序を特徴とするモノの体系に吸い上げられる過程は、さまざまなモノ同士の結びつきや、それぞれにまとわりついていた意味などを切断し排除する過程でもある。人間、一人の個人という全体も例外ではなく、というより、消費社会を動かす最も重要な部分として、その全体性を破壊され、解体され、モノの体系の要素として組み込まれていく。だから消費社会における人間は素朴な意味では疎外されるのではない。個人は追い出されるのではなく、ばらばらに切り刻まれて売られるのだから。
私たちはこの社会を消費社会として認識し、そこに問題意識さえ抱くが、人間から主体性を奪い、批判のために発せられた言葉さえ消費の原動力へと転化してしまう消費の論理に抗うことはとてつもなく難しい。残念ながらボードリヤールもそのための有効な手立てを提案はしていない。
しかし、われわれはモノが無であることを知っている。モノの背後には、うつろな人間関係があり、膨大な規模で動員された生産力と社会的力が物象化されて浮き彫りにされる。ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、一九六八年五月と同じように予測は出来ないが確実なやり方で、黒ミサならぬこの白いミサをぶち壊すのを待つとしよう。(310)

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by tyogonou | 2010-02-11 00:49 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
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