以って群すべく、以って怨むべし
子曰わく、小子、何ぞ夫(か)の詩を学ぶこと莫(な)きや。詩は以って興(お)こすべく、以って観るべく、以って群すべく、以って怨むべし。邇(ちか)くは父に事(つか)え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識(し)る。
お前たち、なぜ詩を学ばないのだ。詩は教養の出発点としてふさわしいし、ものを見るときに役に立つし、人と仲良くなるにも役に立つし、怨み言をいう時にも関係を損ねないような言い方ができるようになる。近いところでは父親に、遠いところでは君主にお仕えするにも役立つ。そのうえ鳥獣草木の名前をたくさん覚えることができるのだよ。
「以って興すべく」のニュアンス、特に何を「興す」のかという点については良く分からないところがある。しかしこの句の直後に、「周南、召南の詩を知らなければ、塀に向かって立つようなものだ」というような句があり、その心は「何も見えないし、進むこともできない」ということであるというから、教養の出発点と解釈してもいいだろう。
論語を読んでいると、詩を学ぶことを勧めるのに「動植物の名前を多く知ることができる」という理由を挙げるのはいかにも孔子らしいところだと思う。一般に儒者のイメージとはもっと堅苦しく偉ぶったことを言いそうだが。
面白いのは「以って群すべく、以って怨むべし」というところだ。「以って群すべし」は「香炉峰の雪は」というやり取りを思い出させて納得がいくのだが、「詩を以って怨むべし」というのは気のつかないところだ。誰かに何かネガティブなことを言う時、あるいは感情的になった時、それをどう言うか、どう表現するか、というところまではなかなか気が回らない。しかしそういうときにこそ教養が必要だということを当たり前のこととして言えるあたりが孔子の行き届いたところだと思う。
(後漢の有名な学者)鄭玄の家では下女にいたるまで、みな毛詩(詩経)に通ぜぬものはなく、ある下女が、かれの言いつけにそむいたことがあって、かれは庭先でひざまずいているように命じた。これを見たほかの下女が、「なんすれぞ泥中においてする」と『詩経』の文句でからかった。すると、かの女は言下に「いささか言(われ)、往きて愬(うった)えしが、かれの怒に逢えり」と同じく『詩経』の文句でやり返した。かくのごとく、風流たぐいなかったのである。(『三国演義』第22回)

[PR]
by tyogonou | 2005-01-11 01:00 | | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://fukureki.exblog.jp/tb/1684484
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 振り込め詐欺の手口 イランがフセイン政権の残党を援助? >>