「感動を与える」
私は実は星野仙一氏があまり好きではない。

いつのことかは定かではないが、中日か阪神の監督に就任したころのテレビのインタビューで「感動を与えられるような試合をしたい」というようなことを言うのを聞いて、長島さんや若い選手ならともかく、星野さんまでこんなことを言うのか・・・と暗い気持ちになったのを覚えている。
「与える」とは目下の人間に向かって言う言葉だ。もちろん、星野氏がファンを見下しているわけではないだろうが、この言葉の持つ押し付けがましさまではぬぐえない。そしてその押し付けがましさに注意が払われないまま、「感動を与える」という表現が氾濫していくような状況を想像して憂鬱になってしまったのだ。
もうひとつ。感動とはサルの餌のように簡単に与えたり与えられたりするようなものではない。すばらしいプレーを見て感動するとき、その感動は私自身の力さえ超えている。人間は、自分の意志によって感動したりしなかったりはできないものだ。大げさに言えば感動はいわば野球の神様がくれるものであって、選手もファンもその前では等しく微々たる存在でしかない。
鈴木健二氏が何かの雑誌で、アテネ五輪中継のアナウンサーや選手たちの言葉の貧困さについて苦言を呈していたが、それは現役の若い人たちだけでの問題ではない。
一応、私自身、言葉の「誤用」についてあまりうるさく言うつもりはない。自分自身がそういった「誤用」をしていないとも限らないし、言葉は変化し続けるものだと考えているから。それでも、「感動を与える」という表現をはじめとして、スポーツやマスメディアの世界で常套句として使われるようになった「誤用」には苛立ちを抑えることができない。それが自覚されにくい傲慢さ、たとえば「フリーダム」を口にするアメリカ人のようなナイーブな傲慢さを生むからだ。
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by tyogonou | 2004-09-18 23:39 | スポーツ | Comments(0)
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