姉歯秀次、宮崎勤、そしてスミス・ウィンストン その1
はじめて姉歯氏を見たときから似ていると思った。顔立ちそのものが似ているということもあるのだが、二人の表情や自分の侵した罪に対する態度といったものが深いところで共通しているように見える。一言で言えばそれは「諦観」だ。
姉歯氏の一連の発言は非常に率直である。特筆すべきは自分自身について語る部分であって、客観的になんの感情も滲ませることなく淡々と語る様は、他のいささかあくの強い登場人物たちが自己を正当化しようと怒りや嘆きを噴出させて見せるのとは対照的だ。そういった言い訳がましい態度は、見ていて見苦しいし、また正しいものであるはずもないが、人間の感情としてはごく自然なものであるはずだ。ところが姉歯氏が、この事件は自分ひとりではできないことだと言う時、関係のない第三者がごく当たり前の事実を指摘しているかのような口調で、あのような状況におかれた人間として当然あるはずの葛藤が全く伺われない。彼は自分の行為の善悪について全く考えることができないと言うわけでもないし、悪を実行することに価値を置くようなエキセントリックな価値観によって動かされているわけでもない。少なくともメディアを通じて伝わってくる人間像は、どこにでもいる小市民―特に堅固な倫理観を持っているわけでもないが敢えて悪事を行おうという欲求を持っているわけでもないーである。それにも関わらず彼の態度を際立たせているものは、自分の行動の犯罪性についての認識と、それにもかかわらずそれをなせという圧力との対立を、強い倫理観によって乗り越えることもできず、かといって世間ずれした「大人」な折り合いのつけ方に安んずることもできず、ただ戦うことに絶望し、考えることをあきらめた者が見せる静けさであるように思われる。
(続く)
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by tyogonou | 2006-01-18 02:57 | 社会 | Trackback | Comments(0)
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