愛国心を教え込むこと
「君はどうあっても”偉大な兄弟”を愛さなければならぬ。屈従するだけでは充分じゃない。彼を愛さなくちゃいかんのだ」
(『1984年』 ジョージ・オーウェル 早川書房)
「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」
兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁じられていたが、このときは見逃してくれた。
「よし、元気で行け。何事も御国のためだ。最後まで帝国軍人らしく行動しろ」
(『野火』 大岡昇平 新潮社)

かつて教育と言うものはお国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出すようなものであるべきだと発言した議員先生がいた。
愛国心は結構だ。しかし、愛国心を教え込むことによってそのような日本人が生み出されるかどうかは大いに疑問だ。愛国心が叫ばれていた時代の状況を考え、あるいは現代の自分の周囲を眺めるに、愛国的な教育が生み出すものはお国のためにお前の命を投げ出せと他人に強いる卑怯な人間なのではないかと私には想像される。



より直裁に言えば、教育基本法に愛国心を持ち込もうという試み自体がそういった卑劣な意図に基づいているのではないかと疑っている。リーダーがフォロワーに対してもつ責任を負いたくない人間にとって愛国心(ときに愛社精神のようなものも)は、体裁もよく、正面切った反対もされにくいすばらしい理由である。愛国心というものがなければ、いざ戦争という時にはその戦争が正義に適うものであるのか、その倫理性についてあらゆる精査に耐えられるだけの根拠を挙げて人々を納得させなければならない。その戦争で失われる命に対する自らの道義的な責任についても常に検討を加え、良心の呵責と戦い続けなければならない。シンディ・シーハンのように「なぜ息子は死んだのか?」としつこく訪ねる母親にもきちんと応えてやらねばならない。愛国心は、そういった面倒くさい責任から自由になれる魔法の合言葉なのだ。
話はそれるが、さらに日本には靖国神社という便利な装置があった(かつてのように機能していないかもしれないが、もちろん現在でもある)。靖国神社があるおかげで、戦死者の命は神として祀られることによって贖われることになり、死者が命を捧げたその戦争によって実現されるはずのものが正義に適うものであるのかという問題は問われずに済むことになる。同胞を死に追いやったことに対して罪悪感に苛まれることもない。むしろつまらぬ平凡な人間に過ぎない存在を「神」としてあがめられるステージへ引き上げる手助けをしたことで感謝されていいくらいだと考えることさえできる。
 これまで「愛国心」の表記について「国を愛する心をしっかり書き込むべきだ」と主張する自民党と、「国を大切にする」との文言にするように求める公明党の意見が対立していた。公明党は「『愛国心』は戦前の国家主義、全体主義を想起させる」と強調したのに対し、自民党は「国」と「愛する」の表現は譲れないと抵抗し、調整が難航。今回、自民党は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんだ」と加えることで、「『国』には統治機構を含まないこと」を公明党と確認し、折り合った。
自民党が「愛する」という表現に固執する理由も容易に理解できる。
愛は無条件だ。政策が正しいと思えば支持するが、正しくないと思えば異論を唱えるような国民であっては困る。どんな悪しき政策であっても無条件に国に従い、その命であろうと何であろうと惜しみなく与うような国民でなければならない。逆に言えば、政策の中身を検討しようなどは思いもよらないような国民でなければならない。「尊重」などの表現ではこの無条件性が充分ではなく、そこに理性に基づいた価値判断の入り込む余地ができてしまう。
では、「国」でなければならない理由はなんだろうか? 「国」とは何か、即時的ではなく否定的に考えてみれば、それもすぐに見えてくる。自民党は「個人」ではなく「国」を愛せと要求しているのだ。「個人」と対になって、「個人」を差し置いて尊重されるべきものを示すという目的のためには「国」がもっとも適切だ。伝統や文化、風土といった表現では、個人との鋭い対立がぼやけてしまう。「私」と対立する「公」も良い表現であるが、その場合、人々はお互いを見てしまうかもしれない。一段上にある権威を仰ぎ見る習慣を身につけさせるためにはやはり「国」が最上だ。

・・・私は穿った見方をしているだろうか?
好意的に考えれば、自分の利益を実現するために他者を犠牲にするような身勝手な行き過ぎた個人主義や公共心の欠落というような問題状況に対するひとつの処方箋としての「愛国心」なのだろう。だが、その処方箋が効果的だとはとても思えない。
それは個人を尊重する人権文化に対して正面から立ち向かっていない。基本的人権の尊重という原則が何らかの問題を引き起こすなら、なぜそういった問題が起こるのか詳しく分析し、その批判の上に解決策を提示しなければならない。だがそれに対して「愛国心」をもちだすことは、根拠がないばかりか、かつてそれがもたらした害毒にたいして無批判であるという意味で有害であり、例えて言うなら抗生物質が効かない耐性菌が出てきたから呪術による治療を復活させようと言うようなものだ。
一方で公共心については憲法第12条の後半で充分だという見解もあるが、それも私には疑問だ。権利の適切な行使と濫用とを分ける根拠についてそこに充分な理論があるようには思えないし、程度問題ということになれば、その境界は容易に動かされかねない。
日本にとって必要なのは(日本だけの問題ではないが)、生命、自由及び幸福追求に対する権利を神聖不可侵とするかそこに制限を加えるかという問題構成ではなく、自己のそれを時に対立する他者のそれと影響しあうなかで、どのように表現していくかというものであるべきだと思う。もっともそれはまだ大人たちの間で議論され、理解され、実現されることを目指さねばならない状況であると思う。既に価値の定まったものとして教育基本法などに盛り込まれるようなものではない。
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
強いて言えば、現行の教育基本法の教育の目的を示した第一条に基本的なことは押さえられている。これでは不十分で公共心を荒廃させてしまうと考える人間は、国家および社会の形成者としてあるべきということの意味を理解していないだけだと思う。ひょっとしたらこれでも不十分な状況というのもあるかもしれない。真理と正義をはじめとしてここで上げられているような諸価値を希求しながらもそれが国益と衝突するというような状況が。しかし、それは高度な倫理的判断を必要とし、教育基本法の範疇を越えている。
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by tyogonou | 2006-04-17 02:57 | 国内政治 | Trackback | Comments(0)
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