君が代
「君が代」替え歌ネットで広まる 斉唱義務への抗議として
件の反対運動のサイトも覗いてみたが、ジョン・レノンにかぶれた高校生の英作文のような出来の悪さと、新橋の酔っ払いの駄洒落にも劣るセンスの悪さに辟易した。
記事の中でもアメリカの"The Star-Spangled Banner"のスペイン語ヴァージョンをめぐる騒動について触れられているが、日米ともに国歌にふたつの似た問題点を持っているのはちょっとおもしろい。
ひとつは歌詞が難しいということ。君が代の歌詞が覚えにくいということはないが、歌っていてもとの歌詞の意味内容を想起することは難しい。もうひとつの問題はメロディーが難しくて歌いにくいということで、君が代は「八千代に」の部分、The Star-Spangled Banner では"And the Rokets' Red glare" の部分の頭が急に高い音を要求されるので、ここをきちんと歌うにはかなりの技術がいる。
余談だが、君が代のメロディーはかなり特殊で、ハ長調の曲でありながらハ(ド)の音で始まりハの音で終わるという決まりごとから外れている(二ではじまりニで終わる)。君が代が演奏される時に注意して聴くとすぐ分かるが、「千代に」から「苔のむー」の間だけ重厚な伴奏がついていて、最初と最後はなんとなくさびしいままだ。これは編曲を担当した当時のお抱え外国人音楽教師には扱いかねるメロディーだったため、扱える部分だけに編曲を施し、前後はあえていじらなかったからだという。(『私の音楽談義』 芥川也寸志 ちくま文庫)個人的には魅力を感じるこの完成度の低さは国歌としてどうかという議論は起きても不思議ではないが、もちろん聞いたことがない。

それはともかく、処罰を含んだ君が代の強制という問題に、このセンスの悪い替え歌がどれほどの役割を果たしうるものだろうか? 権力者に屈しないガッツとユーモアを誇ろうとするような自意識以外、私には伝わってこない。特にそこにあるべきはずの怒りが伝わってこないのは私には腹立たしい。それなら、これよりも辰野隆の「君が代~」と「民が代~」を繰り返せばよいという意見の方が万倍もよい。簡潔できちんと理想を持った代替案だと思う。もっともこういった歴史のあるものを無闇に変更してしまうことは、それが背負った歴史自体を闇に葬ってしまうことにもなりかねないということに充分な注意を払うべきだと思うし、その点でも「民が代」のみに変更するのではなく「君が代」と並列する辰野案は良い。
一番重要なのは「君が代」であれ"star-spangled banner"であれ、"Deutchland uber alles"であれ、それを強制するところに問題があるということだ。その点でもこの替え歌はなんの意味もない。昔読んだアメリカの童話では、主人公の少年達は相手の見えないところで人差し指と中指をクロスさせていればウソをついても許されるというルールをもっていて、そんなルールが通じない大人にどうしても嘘をつかなければならないときにも靴の中で必死に足指をクロスさせようとしたりしていたものだが、あまりそれと次元の違わないような振る舞いだ。

強制という問題自体に対する私自身の考えとしては、それが非民主的な国家によってのみ行われるものではないし、またスポーツの国際大会など各国の国歌が演奏される機会においてとるべき態度との整合性も考慮すればそこまで批判されるべきことだとも思えない。ただし、こういった論争的な問題の解決は処罰によらず説得によってはかられるのが民主的な社会の作法であるのはいうまでもない。もしそれが自由な討論によっては相手に受け入れられえないのだとすれば、その意見にはなにか間違ったところがあるということだ。
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by tyogonou | 2006-06-03 02:57 | 社会 | Trackback | Comments(0)
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