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相撲道
<露鵬処分>3日間の出場停止、親方3カ月10%減俸

1943年以来となればそれなりに重い処分といっていいだろう。しかし、何が問題なのかという点について協会側もマスメディアの側も充分に説明も検討もしていないように思われる。

もっとも直接的な問題は一般人に対して手を上げたことであるが、これを礼儀作法の問題として扱っているのはまず疑問だ。
それから、これを審判部で注意を受けた直後に起こしているのも、審判部の権威を損なう重大な問題だと思われるが、そこにも触れられていない。
力士でなくとも、叱責を受ければ頭に血が上ってしまうのはやむをえないことではあるが、そこをきちんと落ち着かせて部屋から送り出すのが親方衆の呼吸であってもよさそうだが、(それで露鵬の罪が軽くなるわけではないにせよ)反省の声が全く聞こえてこないのも疑問だ。
通路での立ち止まり取材の禁止も少々変で、過失は一方的に相撲界の側にあるのだから自粛要請程度であるべきだと思う。
大嶽親方の話の全体をきちんと読めばそういうニュアンスで言っているわけではないから些細なことだと言えるけれども、親方が軽い処分という言葉を使ったのも軽率だったと思う。


露鵬個人に関して言えば、彼が「一枚違えば家来同然、一段違えば虫けら同然」という番付の意味合いを理解していないということが今回の問題の原因であると言える。
流血!露鵬、カメラマン殴り風呂場のガラス破壊
 露鵬の“素行”には、「品格に欠ける」などと批判されたあの横綱朝青龍さえも、あきれたことがある。昨年夏場所前、東京・両国国技館で行われた横綱審議委員会によるけいこ総見。胸を出した横綱が、あいさつをしなかった露鵬に「ごっちゃんです、と言わなければダメだ。横綱が相手をしているんだから、基本を忘れてはいけない」と声を荒げた。ところが、叱責された露鵬は「横綱でも大関でも土俵に上がれば、オレの相手。強いとか弱いとかは関係ない」と吐き捨てたのだ。
下位の者が上位の者に対して「家来」とも言われるほど服従的でなければならない一方で、上位の者には下位の者を強い力士に育てる重い責任がある。胸を出すということは相手に自分の技を盗まれる危険をおかすことでもあるが、それにもかかわらず自分が強くなるために惜しみなく時間とエネルギーを割いてもらうことへの感謝が「ごっちゃん」であるということを露鵬は全く分かっていない。
 一連の大騒動の発端は、取組直後から始まっていた。千代大海に敗れた悔しさで、土俵下で思わず相手をにらみつけた。露鵬によると、そのとき大関から「何だ、こら」と言われたという。カッときて口論となった。
 東西共同の風呂場では再び千代大海と鉢合わせ。「これからも頑張りましょう」と話し掛けたが、大関は無言だったという。そこで、我慢の限界点を超えてしまった。
ここは千代大海も千代大海で、虫けらが睨もうが何しようが黙殺するのが強者として当然の振る舞いだ。それはともかく、まっとうな相撲の勝負で負けて相手を睨むこと事態が筋違いであるし、これからも頑張りましょうなどというのも前頭3枚目が大関に向かっていっていいことでもない。相手が朝青龍だったら横綱の方の暴力事件になっていたところだ。

▽北の湖理事長 正々堂々とやっている中、見苦しい。マナーが悪い。相手を敬う気持ちを重視しないといけない。
 そもそも土俵の所作が乱れている。今場所は稀勢の里や把瑠都が土俵で相手をにらみつけた。過去にも朝青龍と旭鷲山がトラブルを起こし、悔し紛れにロッカーを壊したり、壁を力任せに殴る力士がいた。「土俵に上がったら相手を殺すつもりで取っている」などと話す場面さえあった。
しばらく前から土俵の所作の乱れは言われていて、これも勝負のついた後だったか相手の尻をこぶしで殴った力士もいた。そういった乱れはもちろん憂慮すべきことではあるが、マナーや相手を敬う気持ちを持ち出すのにも違和感がある。野見宿禰が当麻蹴速を蹴殺して始まった相撲はもともと荒々しいものであったし、引退を口にしたものは真剣勝負の場である土俵に上げず、そのために千秋楽までとり続けるつもりだった小錦が場所半ばで引退を余儀なくされた例など、この世界の非情な厳しさ激しさは他の所謂スポーツとは一線を画している。
思うに、相手を睨んだり(もっともこれは立会いの際ににらみ合うのを喜ぶ観客にも責任がある)、暴力的破壊的な行動に及んだりする相撲取りたちに欠けているのは、相手へ敬意ではなく、強さの希求である。個人的にはあまり好きではなかったが、若貴兄弟は土俵際もつれたときには絶対に手をつかず頭から落ちたものだった。それほどまでに力を尽くしたならたとえ負けたとしても、相手や第三者に当り散らすようなまねをするだろうか?
もっとも若貴兄弟にも問題があって、二人は勝った後で土俵下に落ちた相手を助け上げるのが私は見ていて嫌だった。これは相手を敬う気持ちの現れといったニュアンスで世間的にはむしろ好意的に捉えられていたようだったが、禅者なら卑下慢と喝破するであろうある種の傲慢さを感じずにはいられなかった。勝者は敗者に対して「なんだオラ」などと挑発してもいけないし、弱者としていたわってもいけない。超然として勝ち名乗りを受けるのが真剣勝負における礼儀である。
今はあんなことになってしまっているのは残念でたまらないのだが、曙もまた精神性という方向から強さを極めようとした力士だった。双葉山が連勝を止められたとき荘子の例をひいて「我未だ木鶏たりえず」と言ったエピソードを愛好するなど相撲の精神性を誠実に学ぼうとした力士は他に例がない。長い手足はおよそ相撲には不似合いな印象であったが、すり足で脇を締めて突き押しという相撲の基本をこれほど忠実に守った力士もいなかったのではないか。そして最も重要なのは、酷評されてもキレることなく、あるいは貴乃花のように相手を見下すこともなく、ひたすら自分自身の内なる徳の充実をこころがけていたことだ。余談だが逆にK-1などに出るようになってからは、そういった闘志を表現することに慣れていないことが仇となってしまったように見える。

露鵬らにかけているのは彼らのような強さへの執念だと思う。勝敗へのこだわりはあるが、それをささえる理想もなく相撲内容の充実へと消化させるわけでもない。そんななか、朝青龍は、曙のような精神性への関心は薄く、北の海理事長のいうマナーなどにも問題はあるが、強さをもとめる動機の深さは確かにあって、横綱という地位を守るだけのことはあるように思える。
by tyogonou | 2006-07-17 04:00 | スポーツ
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