教皇の講演
カトリック中央協議会のHPに問題となった教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演の全文を見つけたので読んでみた。
確かに教皇の講演の主旨は盲信の否定とロゴス(理性)を基礎とした対話の(キリスト教という枠からの)拡張であって、イスラムを否定したり攻撃したりするものではない。
「原理主義は(イスラム教預言者)ムハンマドの教えに反する」として、テロを行うイスラム原理主義者の宗教的根拠を否定した。
こういったニュース記事も確かに教皇の意図を誤解している。教皇は、そして元のビザンチン帝国皇帝も、暴力による宗教の押し付け(もっともここにもイスラムに対する基本的な誤解があるように思うが)が、キリスト教やイスラム教という枠を超えた理想的な神(神のイデア)に反することを言っているのであって、現在のイスラム原理主義のことを言っているわけではない。そして、イスラムの教えに関してはそれが矛盾を孕んでいると指摘しているのであって、その対立する命題のどちらがイスラムの教えとしては正しいのかという問題を議論しているのではない。暴力(より公正な言い方をすれば「信仰を剣によって広める」こと)よりも理性を求めるという皇帝の結論は、ギリシャ哲学に基づいてなされたものであって、「神は自分自身のことばにさえしばられることがない。」というイスラム教にとってはむしろ逆かもしれないということを教皇は示唆しているが、それはギリシャ哲学的な理性の尊重の普遍性についてのこの講義の主題への導入である。
先日、ジハードという言葉を使ったことを私は問題視したが、もとのビザンチン帝国皇帝の言葉がコンスタンティノープル包囲の最中に発せられたことを考慮すれば、ジハードを暴力と同義とするような議論も理解は出来る。しかし、教皇がここで引用した括弧つきの「ジハード」の特殊性について注釈を加えなかったのは不用意と言われても仕方がない。現在の世界の状況と自分の影響力を考えれば、このような話題を扱う時には慎重にするべきであった。もしこれがイスラム側から皇帝(および皇帝が体現するイスラム外の価値観)からの理性についての問いかけに応答する形でなされた議論であったら問題にされることもなかったのではないかと思う。
理性と信仰の問題を議論するなら他の例を挙げたほうがよりよかったともいえそうだが、ギリシア精神とキリスト教精神の統合を断ち切ろうとする試みを歴史的にたどるこの講義にとって、皇帝の言葉は単なる前振りではなくそのロジックを支える重要な柱であるから、これを外すわけにもいかないだろうと思う。逆に言えば、自分の考えを述べたものではないという釈明はこの点でも正しくないわけだが、それは同時にかつての学者皇帝の問いをもとにした、哲学的で内向きな、そして真剣な意図に基づく議論であるから、イスラム世界にもある程度理解されうるのではないかと思う。
 西洋世界は長い間、自らの理性の基礎にある問いを嫌うことによって、危険にさらされてきました。また、このことによって大きな損失をこうむるおそれがあります。理性を広げる勇気をもつこと。理性の偉大さを拒絶しないこと。これが、聖書の信仰に基づく神学が、現代の議論に加わるための計画なのです。

 マヌエル二世は、自らのキリスト教的な神像に従って、ペルシア人の対話者に対して、「理性に従わない、すなわちロゴスに従わない行動は、神の本性に反する」といいました。わたしたちも、諸文化との対話において、この偉大なロゴスへと、この理性の広がりへと、対話の相手を招きます。理性を常に新たに発見すること。それが、大学の偉大な課題なのです。
個人的な感想だが、こういった問題提起は、むしろイスラム(や他の宗教)との関係という文脈で考えるより、中絶などカトリック教会が批判を受けているいくつかの現代的な問題を考えるときに非常に興味深いものとなるように思う。こういった問題について教皇がかなり保守的な立場をとっていることは有名であって、これが実際に大きな方針転換をもたらす前触れであるとは思えないが、少なくともこの講義の論理的な結末は教会の権威主義的な態度と対立するように思う。
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by tyogonou | 2006-09-20 22:34 | 国際 | Trackback | Comments(0)
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