沈黙
Yahoo!ニュース - 時事通信 - 河合隼雄氏が死去=元文化庁長官、教育にも尽力-ユング派心理学の第一人者

以前、河合氏は新聞のインタビューに応えて、メールなどを通じたカウンセリングについて語っていた。河合氏は自分の若い同僚達がそういったメディアを通じてのカウンセリングで効果を上げていることを評価しつつ、「メールでは沈黙を共有できないという不自由さがある」という彼らの声を紹介していた。
河合氏が亡くなった今、そしてメールが私たちの人間関係に大きなウエイトを占めるようになった今、思うことは、私たちのコミュニケーションから沈黙の持つポジティブな意味が失われてしまったのではないかということだ。
沈黙とは言葉の代わりに想像力が媒介となるコミュニケーションである。そして大切なのは、それは自分が能動的に想像力を働かせることによってはじめてメッセージが現れるということだ。そこでは受け手はメッセージが送られてくるのをただ待っているわけにはいかない。自ら動かないかぎり、沈黙は何も語らない、何の意味もなさない。
沈黙のもつ雄弁さを知るには、優れて想像力の産物である「笑い」を考えてみると良い。
三代目三遊亭金馬が枕で「世の中は澄むと濁るで大違い刷毛に毛が有り禿に毛が無し、などと申します。」と言い、澄ました顔をして黙ってしまう。当然目の前に金馬がいれば、そこにおかしさを見出すのにたいした想像力は必要ない。ただ、それが海原はるか・かなたの漫才などと異なるのは、その沈黙の間に客は薄毛というデリケートで人によっては大変気にする問題を口にするときにすべき配慮について想像をめぐらさなければならないことだ。
人を笑わせることを商売にする人々が沈黙に「気まずさ」以上の価値を見出さなくなったのはそれほど新しいことでもなく、三代目三遊亭圓歌などもちょっとひねったことを言っておいて、生じた沈黙を自ら打ち消して分かりやすく笑いを起こすということをする。若い人にもわかるところでは酒井くにお・とおるの「ここで笑っとかないとあと笑うところなくなりますんで」というのが同様の打ち消しかたである。
今時の所謂「お笑い」芸人にいたると、沈黙とは不手際でしかなく、それを笑われるのが芸ということになっているようだ。

私は圓歌の沈黙の打ち消し方に寂しさを感じる。なぜならそれは観客を信用していないことを表しているからだ。
相手に理解する能力があることを信頼しているからこそ敢えて何も言わない。笑いだろうが哀しみだろうが怒りだろうが関係なく、沈黙によるコミュニケーションは根底に相互の信頼がなければなりたたない。

沈黙の消滅は信頼の消滅を意味するのではないか。
河合氏の投げかけたものを私はこう受け止めている。

Yahoo!ニュース - RBB TODAY - 「ケータイ」はもはや「電話」ではない? 1日ほとんど通話しないが約4割――MMD研究所調べ
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by tyogonou | 2007-07-20 02:01 | 社会 | Trackback | Comments(0)
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