光市母子殺害事件 検察側に問題は?
この事件、弁護側は騒ぎを引き起こしている「儀式」説を提示しただけでなく、検死の結果と検察側の主張の矛盾も指摘したはずだが、前者があまりにセンセーショナルだったためか後者が問題にされていないのは困ったものだ。

「儀式」説については・・・、確かに疑問はある。被告自身の言葉とされるもののなかにどうしても被告の生の声というものを聞き取ることが出来ない。「甘えたかった」というような表現を被告と同年代の若者が自らの実感として発するところを、私は想像できない。これは普段の被告の言語生活を知らなければ判断できないことではあるが。かつての宅間守には、内容はともかくとしてそういった強烈な肉声があったし、神戸連続児童殺害事件の少年の言葉は、「自分」のない「透明さ」というものはあっても、日常の言語生活というか言語環境といったものをうかがいしることはできた。だが、この事件の被告は、どうしても精神科医の口からでた(これは必ずしも「こう言え」という指示を意味するのではなく、「こういうことなのか?」という質問も含んでいる)言葉をそのままくりかえしているだけに過ぎないように思えてならない。
もっとも、母親の自殺という事実は子どもの精神に暗い影を落とすのが当たり前で、その影響は慎重に調べる必要はあると思う。

検察側の主張と検死結果の矛盾については、あるいは大きな問題を孕んでいるのではないかと思う。
指摘されたのは、母親の首を絞めた手が順手ではなく逆手だったことや、床に叩きつけられたとされている赤ん坊の脳に損傷がなく、首にも手で絞められた跡はなく、ひもで絞められた傷も検察の主張と整合しないなどということなどだった。問題はこの二つが熟練した監察医でなければ見抜けないほど些細なものでも、些細な、あるいは特殊な条件を考慮に入れなければならないようなものでもない(ように思われる)ことだ。これは、検察側の主張が、死体に残され、検死の結果明らかになった痕跡から犯行の事実を再構成したものではないことを示唆しているのではないか。弁護側はまさに「捏造」と非難しているが、手の跡がないことなど知識のある警察官でさえ気づきそうな証拠でさえ反映されていない検察の主張は、推理ではなく創作だったのではないかと疑わざるを得ない。
検察がこういった主張を形成するまでに至った経緯と、そこにあった思惑は現在のところ明らかではないが、今回の懲戒請求騒ぎをみていると、殺人事件を担当する警察、検察は被告の「残虐性」を強調することで市民の強い感情を掻き立てさえすれば、弁護側の動きに相当な影響を与え、訴訟を有利に運ぶことができることになりそうで、深刻に受け止めるべき状況だと思う。
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by tyogonou | 2007-09-09 01:01 | 社会 | Trackback | Comments(0)
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