BPO意見より抜粋
 番組制作者にとって、「放送倫理基本綱領」(NHKと日本民間放送連盟)、「国内番組基準」と「新放送ガイドライン」(NHK)、「放送基準」と「報道指針」(民放連)等が掲げる公正性・正確性・公平性の原則がいかに大切かは、あらためて言うまでもない(詳細については、註1を参照)。これらは放送界が積み重ねてきた試行錯誤や経験から導き出された原則であり、個々の番組制作においてこそ、具体的に実現されるべきものとしてある。
 こうした原則が明言化されるに至った背景には、松本サリン事件(1994年)をはじめとする事件や裁判にかかわる報道で放送界が犯した数々の失敗があることを、いま放送の現場で働く制作者たちも知っておかねばならない。事件・犯罪・裁判を人間のドラマとして描く視点も大切だが、同時に、もう一方で、公正性・正確性・公平性の原則に立ち返る冷静さも忘れてはならない。
 こうした法廷外の対立構造がクローズアップされるなかで、各局は広島高裁前からの現場レポート、法廷スケッチ、記者会見やインタビューの映像、再現ドラマ、法律専門家のコメント、スタジオトーク等々を組み合わせた番組を多数、かつ長時間にわたって放送した。そのほとんどが被害者遺族の発言や心境に同調し、被告や弁護団に反発・批判するニュアンスの強い内容だった。なかには出演者が被告・弁護人の発言や姿勢に対して、明らかに罵詈雑言と思われる言葉を浴びせかけたり、激しいバッシングを加えるようなものもあった。
 この番組は、その「命乞いのシナリオ」がどのような文脈や根拠から出てきているのかを掘り下げていないため、被告の奇異な発言だけが浮き彫りにされ、法廷審理で何が争われているのか、視聴者にはわからない構成になっている。
 これも「弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描いた番組のひとつである。たしかに弁護団のなかには死刑制度廃止を訴えてきた弁護士も何人かいるようだが、それ自体は思想信条の自由に属す事柄である。しかも、死刑制度廃止論はこの差戻控訴審の争点にもなっていないし、彼らがその主張を法廷で述べた形跡もない。番組制作者がそれでも死刑制度廃止論者が弁護人になったこと自体が重要テーマだと考えるなら、きちんとした取材に基づいて、それが批判するに値する事柄であるという理由を示す必要がある。それがないままに、被害者遺族の意見を引用・紹介し、そこに同調するだけで終わっている。
 これも被告の奇異な主張やふるまいを批判的に紹介した番組だが、コメンテーターは勘違いしたのか、法廷での発言であることを前提として、自説を述べ、批判している。司会者は訂正したり、補ったりもしていない。精神鑑定の際の発言は、それを基に鑑定人がどう判断したかこそがポイントだが、鑑定結果に関する紹介はない。批判はむろん自由であるが、番組はコメンテーターの憤懣を見せるだけで、その奇異さをもたらしたものが何であるかについて、冷静に考察しようとする姿勢を見せないまま終わっている。

 委員会が憂慮するのは、この差戻控訴審の裁判中、同じような傾向の番組が、放送局も番組も制作スタッフもちがうのに、いっせいに放送されたという事実である。取材や言論表現の自由が、多様・多彩な放送に結びつくのではなく、同工異曲の内容に陥っていくのは、なぜなのか。
 そこにはかつての「集団的過熱取材」に見られたような、その場の勢いで、感情的に反応するだけの性急さがなかったかどうか。他局でやっているから自局でもやる、さらに輪をかけて大袈裟にやる、という「集団的過剰同調番組」ともいうべき傾向がなかっただろうか。こうした番組作りが何の検証や自省もされないまま、安易な「テレビ的表現」として定着してしまうことを、委員会は憂慮している。


  裁判制度に照らして見るとき、本件放送の際立った特徴は次の2点だった。
1.

被告・弁護団に対する反発・批判の激しさ
2.

裁判所・検察官の存在の極端な軽視
意見1 本件放送は、裁判を主宰する裁判所の役割を忘れていなかったか】
裁判所が認めなければ、法廷では検察官も被告・弁護人も勝手に活動するわけにいかないことは、自明の理である。
 その意味では、本件放送の多くが反発・批判の矛先を被告・弁護団にのみ向けたことは相当な的外れであり、もしそれを言うなら、そのような訴訟指揮を行った裁判所に対して、まず言わなければならなかったはずである。
【意見2 本件放送は、刑事裁判の「当事者主義」を理解していたか】
検察官の求めにもかかわらず犯行時の年齢と更生可能性を考慮して死刑を選択しなかった第1、2審とそれを破棄した最高裁の判決をふまえて、検察官は何を主張・立証しようとしたか、それに対して被告・弁護人はどう反論・反証したか。これらのポイントを整理し、事件と裁判の全体像を明らかにし、伝えることが、番組制作者の仕事だったはずである。

【意見3 本件放送は、弁護人の役割の認識に欠けるところがなかったか】
弁護人はそうした苦境にある被告とのあいだで信頼関係を築き、ときには被告に不利な事情にも踏み込んででも、可能なかぎりの事実と関係情報を集め、それを被告にもっとも有利な主張や立証として組み立てて法廷に提示することにより、全力を尽くして被告人を弁護しなければならない。それが、弁護人の誠実義務である。
 そこではまた、荒唐無稽、奇異に思われる被告のあらたな供述や殺意の否認についても、じつは「家庭裁判所の鑑別記録、捜査段階における供述、第1審の被告人質問等にすでに現われている」旨を言い、具体的な内容を例示している。
 しかし、これに対する記者・番組制作者からの質問は低調であり、各記録に記載された正確な文言、その文脈や意味するところについて問いただしてもいない。
本件放送では、こうした弁護団の記者会見の映像はときどき映し出されたが、その「内容」は触れられず、弁護人の一人が「司法の怠慢である」と述べた箇所が、脈絡なく、放送されるだけであった。これでは視聴者は、弁護団が何を主張しているのか、どこを争点にしようとしているのかについて、理解するためのヒントすら得られない。公平で正確な情報提供という観点からは、これは大きく外れた内容だったと言わざるを得ない。
殺人のような重大犯罪の場合、被告の内面の動きがどのようなものであり、それがどう動機を形成し、いかにして実行に移されたのかを一連の、全体をなすものとして解明しなければ、犯行の計画性も犯行態様の意味も量刑も判断できない。
 本件放送の基本的構成を見ると、こうした被告の供述の目立った部分だけを、イラストやナレーションによる再現で断片的に紹介したかと思うと、次の場面では記者会見やインタビューに応じた被害者遺族を登場させ、いまの被告の供述や、それをしゃべらせた弁護団を非難し、無念や怒りの気持ちを語らせて打ち消す、というものである。話しているのは被害者遺族である。番組制作者はその陰に隠れ、何も言っていない。
 そして、スタジオの司会者やコメンテーターが、被告・弁護団を強く非難し、被害者遺族に同情・共感を示す---その繰り返しが、基本になっている。
画面には、取材し、考察し、表現する者の存在感が恐ろしく希薄である。そのような番組しかなかったことに、委員会は強い危惧を覚えないわけにはいかない。
この安易な対比的手法は事件それ自体の理解にも、犯罪防止にも役立たないことは明らかであり、深刻に再考されるべきである。
【意見4 本件放送は、被告人の人間像を捉え損なっていないだろうか】

 委員会は前述のとおり、8放送局の20番組、33本、7時間半におよぶ放送を視聴した。そのなかにひとつとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はなかった。このこと自体が異様なことであると、まず言っておかなければならない。
 言うまでもないが、それは被告に同情することでも、弁護団の主張に同調することでもない。取材や調査によって、被告・弁護団の言い分を否定し、ひっくり返すこともありうるからだ。ひとえにそれは、メディアの力によって真実に近づくことである。
【意見5 本件放送は、裁判の全体を見ようとする意欲に欠けていなかったか】
番組制作者が差戻控訴審に関する番組を企画するに当たって、事件発生から今日までの流れ、事件・犯罪・裁判報道の基本的役割、少年事件における量刑基準のあり方についての議論、被告の内面や人間像を洞察することの重要性、刑事裁判の当事者主義や弁護士の誠実義務、真実義務等々にもう少し自覚的であれば、本件放送の内容はちがったものになったであろう。
 「巨大なる凡庸」---とは、7時間半におよぶ本件放送を見終わったあとの委員会の席上で、ある委員が口にした感想である。
 
法治とは何であるか、刑事裁判の構造的原理は何か、なぜ裁判では犯行事実がわかっているのに、被告の生育歴を調べたり、精神鑑定までするのか、法はどうして成人と少年を区別しているのか、被害者とその家族や遺族の無念の思いは、どうすれば軽減・救済できるだろうか---司法をめぐるひとつひとつの問いのうしろに、法律によって苦しみ、法律によって救われた人間たちの歴史がある。まだ答の見つからない問いの前で、いまも苦しんでいる人間がいる。

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by tyogonou | 2008-04-17 01:19 | 社会 | Trackback | Comments(0)
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