落書きの告発
伊大聖堂の落書きハートマークも 日本語は全体の1割 | エキサイトニュース
伊の大聖堂落書き 高校野球部監督も? 茨城県高野連が調査
落書きに擁護の必要は全く無いが、大聖堂側が「謝罪してもらえば責任は問わない。費用負担は不要」といっているのであれば、落書きのような愚かなことをするなという注意喚起に留めて新たな犯人探しなどしなくてもいいのではないか。
落書きをした学生の通う大学には、修復の手伝いやら費用負担などの形で謝罪の気持ちを具体的な行動として示さなとまずいというようなプレッシャーもかかっているようだが、相手の言葉に甘えてもいいのではないかと思う。
そもそも、具体的な行動は謝罪の気持ちの深さを現すものであるとは限らない。「直せばいいんだろ」というような心でも表面的には反省しているかのような行動は取れるが、そういった行動が許されない方が、謝罪の気持ちの内実を問われるずっと厳しい処置と考えることもできる。もちろんそれで本当に悔いているかは他人には分からないので、罪の意識の無い人間にとってはなおさら好都合であるともいえるが、真に後悔しているか否かは神の御前で証明しなければならないわけで、そこに一切のごまかしは通用しない。
もっとも、大聖堂側はそういった深い意味でいっているのではないのだろう。どうやら落書きは相当数あるようで、それぞれについて謝罪だ修復の手伝いだなどと来られても余計な仕事が増えて迷惑だということもあるのかもしれない。また、ひとつの落書きであればその場でそれだけを消去すればいいが、多数あるようならきちんとプランを立てて全てをきちんと修復しなければならないが、今はるか遠くの国で騒動になったからといって大聖堂側のプランを乱されても困るということもあるだろう。
もし、問題となった大聖堂に落書きした大学生に限らず、同様の愚かな行為をしたことのある人間がこの件で本当に「目から鱗が落ちた」ならそれは大変に価値の有ることであるし、またそういった人が、日伊友好やら世界の文化遺産の保存やらに貢献する形でその罪滅ぼしをする機会は他にいくらでもあるだろう。
今、相手側が「いい」といっているなら、そこを敢えてなにかさせろとごり押しするのはかえって失礼でもあるし、それが本当に謝罪の気持ちによるのか、あるいは日本のメディアに対するポーズではないのか当事者は省みるべきである。

それともうひとつ。
こういったニュースの後で、メディアが周辺を取材するのも当然だし、ネットなどで一面に落書きが写った写真をみればその中に日本人の名前などを探すのは自然なことでもあるが、それをひとつひとつあげつらっていくのは、私にとって見ていてあまり気持ちのいいものではない。私はそこに秋葉原の通り魔事件の際に写メを転送しあった人々に似た匂いを感じる。そこに正義感が全く無いということもないのだろうが、お宝ゲットだぜ!といったような軽い気持ちは無いだろうか。
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by tyogonou | 2008-06-29 23:55 | 社会 | Trackback(1) | Comments(0)
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