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普段あまり夢を見ないし、見ても何かに追いかけられるようなものばかりなのだが、ここのところ続けて妙な夢を見た。
一つが人を殺す夢。といっても実際に手を下す場面ではなく、杉下右京になら見破られる程度の些細なへまをやって捕まり、下手に言い逃れようとするより証拠は弱いのだから黙秘の一点張りだ・・と、伊丹巡査部長ばりの強圧的な取調べに耐える場面。
もう1つは、家族の一人の引越しを手伝ったら、最後に改まって別れの挨拶をされたという夢。確実に声も聞いたし、嫌にリアルだったのを覚えている。
人を殺す夢とは穏やかでないし、調べてみたら「目前の問題点が解決し、自分の世界が広がり飛躍する兆候」という解釈があるようで、もう1つの夢も同様に解釈すればこれから何か大きな変化を遂げることになるのだろうか。
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by tyogonou | 2009-12-18 00:17 | Trackback | Comments(0)
へうげもの

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))

山田 芳裕 / 講談社


画に少々クセがあるのと時におふざけがすぎるきらいがあるので、それほど好きではなかったが、まとめて読んでみたらなかなか面白かった。
堅苦しい茶の世界が、身近でくだけたものとして描かれているよさもある。主人公古田織部の感情と表情の多彩さもいい。
だが私が面白いと思ったのは、千利休や徳川家康といった登場人物が、古田織部を補助線としてみると、今までと異なる個性として浮かび上がってくるところだ。この漫画が何か普通と異なるキャラクターとして彼らを描いているわけではない。わびさびの美をストイックに求めつつ、それを世に広めるために非情なまでの実行力を発揮する利休、質実剛健で民百姓を思い遣る家康、私たちが通常抱く「偉人」としてのイメージからは遠くない。対する古田織部は軽薄な「へうげもの(ひょうきんもの)」で、現代の(ひょとしたら一昔前の)オタクにも通じた心性をもつ親しみやすいキャラクターで、どう見ても尊敬の対象ではない。利休も織部もともに茶の湯の美に強い執着心を持つが、利休のそれは「業」というにふさわしい重みを持つが、織部のは「煩悩」といったほうがいい俗な雰囲気を持っている。
そうなると、私たちの抱く印象は利休、家康>織部という図式になるはずなのだが、そうはならないのが面白いところだ。
もうひとつ面白いのは両者は時に対立もするが断絶はせず互いに理解しようとし続けるところだが、その交流を通じて明らかになってくるのは、私たちのありがたがる利休や家康の偉大さが必ずしも絶対ではないということである。それは単に反権威主義的な価値観ではない。利休や家康の価値が下がるというのとは違う。利休など、死ぬまで織部の一枚上をいっているのは間違いない。
だが一方で、優劣は別にして織部の軽さ「面白さ」は、彼らの偉大さにひけをとらない輝きを放っている。利休が家康を招き豊臣後を語った茶席の重暗さと比べて、禁教令を受けて棄教を勧めにいった織部と高山右近の茶席のなんとさわやかなことか。信長に仕えた黒人弥助を招き、理想の「黒」のわび茶が完成したと喜ぶ利休の厳かな世界も確かにすばらしいが、童子に下手な絵を描かせた茶碗を本阿弥光悦に見せて喜ぶ織部の拈華微笑の境地もまたすばらしい。
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by tyogonou | 2009-12-17 21:17 | Trackback | Comments(0)
【音楽の政治学】ヒトラーの偽善 「劣等」と呼んだ人種のレコードを隠し持つ
【音楽の政治学】ヒトラーの偽善 「劣等」と呼んだ人種のレコードを隠し持つ (1/2ページ) - MSN産経ニュース
このタイトル、ヒトラーの「偽善」というのはおかしい。
ヒトラーが個人的にユダヤ人を憎み、それが理由で彼らの演奏したレコードも所持せず、それでいながら公式には人種差別主義を非難するようなことを言っていたなら、「偽善」という非難も分からないではないが、これは話が反対だ。
一方で憎み、もう一方で(周囲に隠してまでも)愛する、それはヒトラーという屈折した複雑な心情を示すものだ。事実のもつ意味を探ろうともしないで、ヒトラー=悪人=偽善者というような短絡的な図式で語るのはどうかと思う。
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by tyogonou | 2009-11-25 23:37 | Trackback | Comments(0)
ムラヴィンスキー そしてショスタコーヴィッチ


私が始めてムラヴィンスキーに接したのはNHKで「ムラヴィンスキー幻の記録」と題されて放送されたまさにこの映像だった。
あれから様々な音源を聴き、様々な映像を見た今になっても、この4楽章冒頭の映像を見ると胸を締め付けられるような気持ちになる。
聴き手をのけぞらせるフルトヴェングラーや心地よいドライブ感に浸らせてくれるカラヤンなどと違って、ムラヴィンスキーの加速感は聴く者を音楽の核へと引き込んでいくような力を持っている。透明感のあるサウンド、速度、強弱の爆発的な変化とその完全なコントロールなどムラヴィンスキーの凄さはいくつもあげられるだろうが、この晩年の崩した指揮ぶりを映像で見ていると、全体の構成というものを強く意識した音楽家だと改めて思う。草書になっても、楷書のポイントから決して離れることがない。

ムラヴィンスキーといえばショスタコーヴィチである。『ショスタコーヴィチの証言』でこき下ろされてからムラヴィンスキーはショスタコーヴィチを理解していないのではないかというような疑いの目で見られたり、『証言』の方の真偽が怪しくなったりしてなかなかこの二人の関係を語るのは難しい。
ただ、交響曲第13番第一楽章の金管の爆発や、第9番のめまぐるしく変わる曲想と癖の強いリズムは、ムラヴィンスキーの指揮でこそ活きる感じがして、彼のこういった曲の演奏を聴くことが出来ないのはまことに残念でならない。互いになくてはならない存在だったというのはリヒテルあたりの言葉だったと思うが、そのとおりだと思う。

ショスタコーヴィッチとムラヴィンスキーの関係は、常にスターリン、あるいは社会主義との距離で語られることが多いが、これには注意が必要だ。
若くしてソ連を代表する作曲家となったショスタコーヴィチはどうしてもイデオロギー的なメッセージの発信者として受け取られがちだ。これはもちろん当初の御用作曲家というイメージだけでなく、後年のアンチ社会主義の作曲家というイメージも同じことだ。しかし、ショスタコーヴィッチは何よりもまず純粋な音の美しさを追求する「音楽家」であったと思う。(逆説的な意味で、そんな彼を「芸術家」にしたのは紛れもなくスターリンとその政府である。)芸術家というより音楽家というのはあまりよいイメージではないかもしれないが、そうではない。芥川也寸志氏がショスタコーヴィッチにインタビューしたとき、作曲するときにピアノを使うか訊かれて、前は使っていたが今は使っていない、その方が音楽を深く考えられる気がする、そんなことを言っていた。彼のシンプルかつ豊かな室内楽の数々を聴くと、彼が頭の中で深く追求した「音楽」というもの、思想や感情の表現などではない純粋な音の世界というものの価値は明らかである。

それから、スターリン=社会主義というのも必ずしも正しくはない。
ショスタコーヴィッチは、子供のころレーニンが亡命先から帰国するのをサンクトペテルブルクの駅で迎えた群衆の中にいたという。レーニンの到着は夜だったため、権威付けの嘘ではないかという話もあったようだが、彼の学校の同級生の親たちにはヴォルシェヴィキのメンバーが少なからずいたから(ショスタコーヴィッチ自身の祖父の兄弟もヴォルシェヴィキだったはずだ)、友達皆で連れ立って見に行ったのは本当だという。そういった世代に属するショスタコーヴィッチが、仲のよかったトハチェフスキーらを粛清したスターリンを、レーニンの社会主義を裏切ったというニュアンスで憎んだ可能性はあると思う。彼が反スターリンであった可能性は少なくないが、それが即反社会主義と一致するとは限らない。
そういう目で見ると、旧ソ連系の指揮者の遅いテンポで演奏される5番のフィナーレは、「強制された歓喜」というよりも、歓喜あふれる革命の未来を信じて死んでいった人々の慟哭のようにも聞こえる。

ムラヴィンスキーについてはひとつの客観的事実を指摘しておきたい。それは彼が熱心なロシア正教徒であったということだ。(『証言』のなかでも「狂信者」と表現されているのは興味深い。)
これは、実は結構重い意味を持っている。旧ソ連では信教の自由は認められも否定されもしなかったが、「宗教破壊活動の自由」がスターリンの制定した憲法に明記されていた。また、レニングラード近郊の大きな教会も破壊され、エリツィン政権になるまで再建されなかったが、これもスターリンのしたことだ。そんなスターリンを熱心なロシア正教徒がどう見ていたかは想像に難くない。もともと慎重で政治とは(俗世とも?)距離を置いていた人だから、アンチ・スターリンの感情をもって指揮台に立ったという訳でもないと思うが。

最後にムラヴィンスキーの名盤について
私にとってのベストは、おそらく今入手は不可能だろうから挙げるのは気が引けるが、83年のショスタコーヴィッチの6番だ。これはムラヴィンスキーらしさを100%備えた完璧な演奏だ。ほかのディスクに物足りなさや欠点があるというわけではないが、たとえば有名な「ルスランとリュドミラ」などラストがムラヴィンスキーにしてはちょっとゆったりめだったりする。意図して設定したテンポだからだれているような印象はないが、ここを突進したらどんな演奏になったのかと少し想像してしまうこともある。この6番はそういったところがまったくない。よく使われる表現で、オーケストラをピアノのように弾きこなしているというのがあるが、まさにそれが当てはまる名演だ。
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by tyogonou | 2009-11-23 17:08 | Trackback | Comments(0)
市橋容疑者東京への「怒号移送」 マスコミ「狂騒曲」の一部始終
市橋容疑者東京への「怒号移送」 マスコミ「狂騒曲」の一部始終 (J-CASTニュース) | エキサイトニュース
市橋容疑者「逮捕」で書き込み殺到 2ちゃんねる、繋がりにくい状況
確かにマスコミ「狂想曲」はひどかったようだ。
しかし、マスコミだけでなく、野次馬も、警察も、そして多分視聴者も、お互いを意識しつつそれを言い訳にしながら祭りを楽しんだということではないのだろうか。

気になったのは、身柄確保される際の警官の発言だ。
「自分のしたことは分かってるな」
これは(一昔前の)親や教師が悪いことをした子どもにお仕置きをするときの台詞だ。自分の悪事の報いが自分に返ってくる。すべてお前の責任だ、そういうニュアンスがある。
しかし、警察などの公権力には相手の容疑を立証する責任がある。それにもかかわらず、こういった台詞を吐くということは、その責任を自覚しておらず、それを相手に投げてしまっているようにも思われる。その警官が事件の捜査に直接関わっていない大阪府警の警官であったりしたならなおさらだ。
これをもって即、冤罪の温床だなどと騒ぐほどのことでもないのだろう。重大事件ゆえに高揚感もあったかもしれない。しかし、こういう台詞が発せられ、そこに誰も疑問を持たないとしたら健全ではないと思う。
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by tyogonou | 2009-11-12 00:01 | Trackback | Comments(0)
俳優の森繁久弥さんが死去 映画、舞台などで活躍
俳優の森繁久弥さんが死去 映画、舞台などで活躍 (共同通信) | エキサイトニュース
近年は先に逝った後輩達の訃報に接して涙する姿ばかりが印象に残っているし、100歳以上のご長寿さんも珍しくない今、96というのは意外に早かったという感じもする。
市橋容疑者逮捕のニュースと重なってしまったのは残念だが、騒がしいこの世をそっと抜け出し、親しい友の待つあの世へ旅立っていくのもまた味のある最期と言えるかもしれない。
森繁さんの幅広い活躍は、俳優といったカテゴリには納まりきれない、だからその死を一言で表現するのも難しい、そう指摘した人がいた。しかし、実は簡潔に言い表すことが出来る、と思う。

昭和の終焉。
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by tyogonou | 2009-11-10 23:49 | Trackback | Comments(0)
東京五輪招致失敗 巨額の税金をせしめたテレビ局
東京五輪招致失敗 巨額の税金をせしめたテレビ局
私も東京での開催には反対だったし、多額の税金は他に使ったほうがよかったという意見にも賛成だが、この記事の論点はちょっとおかしい。
 しかし、招致失敗で税金はすべてパーに。
これでは重要なのは招致が失敗したという一点になってしまう。見通しが甘くなかったかという問題はあるが、たとえ結果として失敗したとしても挑戦する価値のあることはあるものだ。かつて1960年大会の招致に失敗したのは非難されるようなことではなかっただろう。
他にいろいろ税金を使ってしなければならないことがある中、都民国民の関心の薄いことに、その関心を引くだけの意義も示せず、(定かではないが)不純な動機をもって臨んだことは確かに怪しからんことだが、それはたとえ招致に成功していたとしても問われなければならないことだ。
テレビ局が五輪招致を盛り上げ(ようとし)たことも、そこに税金が使われたことも、決しておかしな話ではない。北方領土問題などに関して政府もCMを打っていたはずだし、人びとの意識を高めるためにTVCMなどによって啓蒙活動をすることも、TV局が金をもらってそういったCMを放映することも、別に問題はないはずだ。
「異様なまでに」盛り上げていたというけれども、そしてある種の奇怪さは私も感じたが、総会の数日前までそういった動きがなかったこととの対比がそう感じさせたのではないか。それまでの報道などでは、反対運動についても伝えていたし、それほど積極的な姿勢を見せていたわけでもないように思う。
私の個人的な印象に過ぎないが、招致本部などは、黙っていてもマスコミは盛り上げてくれると思っていたのが、なかなかそういう雰囲気にならず慌てて最後に梃入れをしたとかいうことではなかったかと思う。それほど唐突な盛り上がり方だった。
重要なのは、大金が費やされたことよりも、それが「どのように」使われたのかということだが、記事はそこへの意識が薄い。

パンダのレンタル料
どうせどちらも写真やTVでもみることができ、現地に行って実物を見ることも可能なら、雄雌二頭で一年一億のパンダをレンタルするほうが余程有意義な金の使い道ではなかったかと思う。
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by tyogonou | 2009-10-09 21:26 | Trackback | Comments(0)
ぎっくり腰
数日前腰をやってしまった。
重い荷物、ではなくゴミ袋を捨てに行こうとひょいともちあげたとたんにコキッと背骨がズレた。
何度かそうして腰を痛めたことはあるから、別段慌てもしなかったが、半日たつととてつもなく痛い。足を持ち上げただけで背骨に激痛が走る。しかも、普通と違い、前後ではなく左右にずれたので立とうとするとどうしても体が傾く。鏡を見ると腰のところで見事に「く」の字型に曲がっている。ちょっと慌ててヨガのポーズのように体をひねって背骨を鳴らしてみようとしたが痛くてとてもできない。
一日ちょっと苦しんだが、椅子の座面に背中を横たえ椅子のへりで背骨を一つづつ矯正するようなことをしていたら、コキッと小さな音がして、ほとんど変化の実感もなかったのだが、起き上がってみたらウソのように直っていた。
まっすぐ立てるって本当に素晴らしいと実感した。
痛めたときも直ったときも、大した音もしなかったが、小さなことでもポイントを抑えると大きな結果に結びつくものである。
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by tyogonou | 2009-09-27 23:48 | Trackback | Comments(0)
鳩山さんよ、劉邦たれ 政権交代の「先輩」細川護熙さん
特集ワイド:’09天下の秋 鳩山さんよ、劉邦たれ 政権交代の「先輩」細川護熙さん - 毎日jp(毎日新聞)
 「連想したのは秦漢の交代劇です。この選挙、そして小沢さんを見ていて、あ、項羽だ、と感じました。<力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う>。その力量は抜群で、秦を倒すことには有効でしたが、秦滅亡後の世の中をどうするかの展望と構想が欠けていた。なるほど小沢さんは項羽に比すべき腕力はある。でも、民主党の青写真はまだ十分に説得力のあるものではない。むしろ劉邦のように人材を集め、よく力を発揮させることができるかどうかがカギですよ」
今必要なのは、劉邦のような首相ではなく、僻地に押し込められた劉邦に中国全土を制覇するための道筋を示した韓信、本拠地をしっかりと固め、項羽に追われてあちこち逃げまわる劉邦に補給を絶やさなかったショウカのような人物ではないかと思う。各大臣が好き勝手なことをばらばらに言っている現状では、儒の礼式をもって内側から乱世の終焉をもたらした叔孫通のような人物も必要かもしれない。



Gyao!で最初の三話が無料で見られるが、若き劉邦のダメっぷりが楽しい。劉邦というのは不思議な人で、本人に特別な才覚があるわけでもなければそれほど強烈な野心家だったわけでもないのに、強大な権力の座につき、長く続く王朝を開いた例というのは世界史上にもほかに例がないのではないだろうか。
漫画『蒼天航路』は曹操を「破格の人」(もとの正史三国志では「非常の人」)と表現しているが、劉邦はさだめし「無格の人」ということになるのだろうか。才はないが、むしろないからこそ比較を絶するようなところのある人だと思う。部下の言うことをよく聞くといっても、秦が中国を統一する前、合従連衡が盛んだった時代の王たちは、他国からの説客の言うことでもよく聞いたものだし、独裁的な印象の強い始皇帝でさえ、大臣らの意見をきちんと聞いて行動しているわけで、その点で劉邦がそれほど優れていたということでもないだろう。もっとも、嫌いな儒者だからと無礼な仕打ちをしたものの、一喝されると、相手が特別名声のある人でもないのに畏れ入ってしまう素直さというのはなかなかないかもしれないが。
任侠の徒でありながら優しいところもあって、項羽に限らずいざとなれば非情な決断があたりまえだった時代に非情になりきれないのも、美点といえば美点だが弱点であったとも言える。そこは、重要なところで非情に徹した策を強く勧めることのできる重臣や、夫に代わって裏切り者を粛清できる妻などが補っていたためにたいした弱点とはならなかったのだろうし、対抗する項羽が非情さの点で傑出していたために好ましいものと見られただろうが、それでも天下統一という大事とはなかなか結びつかない。
何かわからないが皆が彼を助けたくなるようななにかがあったようでもあるが、それはなんとも説明しようがない。

結局なにが劉邦を皇帝にさせたのか、よくわからないままなのだが、それでもひとつ重要なことがあると思う。
三十六計逃げるにしかず、という。あの項羽を相手に何度も窮地に立たされながら生き延びたこと、たとえ大敗となっても、優秀な部下のおかげもあって次の反撃が不可能になるようなところまではいかなかったことが(そうはいっても逃げる時に車が遅くなるからといって自分の子どもを振り落とすぐらい切羽詰ったりしたわけだが)、最終的な勝利に結びついたのは間違いない。戦争をする、あるいは権力を握ろうとする人々はたいていプライドが高いもので、逃げろという策は、なかなかほかの国では聞かれない考え方だ。中国でそれが肯定的に捉えられるのは劉邦の例があったればこそなのだろう。鳩山首相には参考にならないだろうが、今の世に生きるには重要な考え方であるかもしれない。

余談だが、上の動画『大漢風』で項羽を演じているのは、映画『レッドクリフ』の趙雲を演じたのと同じ人だ。劉邦は雰囲気はいいが演技はいまひとつという感じもするが、総じてキャストはいい。こち亀実写版なんてやるくらいならこれを放映してほしいところだ。
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by tyogonou | 2009-09-25 20:40 | Trackback | Comments(0)
「ドSゴリラ」浜田に寄せられる「可愛い」の声って?
「ドSゴリラ」浜田に寄せられる「可愛い」の声って?
浜田雅功は本当にS(サディスト)なのだろうか?
そう思ったのは昔、ジャンクSPORTSで、スキーのジャンプ競技で途中バランスを崩して落下した事故の映像を紹介したとき、転がり落ちていく選手を見ながらずっと「あいたたたたたた・・・」とつぶやき続けていたのを聞いたときだった。その後、靴が脱げているように見える場面で、アシスタントがそれが靴が脱げているのではなく足首が折れているのだと説明すると、「なんでそんなこと言うねん」と怒っていた。
チャップリンの映画にも、他人が殴られているのを見て自分まで殴られているかのように反応してしまう場面があったと思うが、他人の痛みを我がことの様に感じるのはさまざまな倫理の基礎でもあり、また倫理的な問題を理屈で説明しようとして行き詰った時の最後の砦でもある。
だから、浜ちゃんのその姿を見て、この人は一線は越えない、越えられない人だと見直した。

逆に、江東区バラバラ殺人事件の犯人には、そういったものが非人間的なまでに欠落している。殺人者ならたいていそうだろうと思うかもしれないが、あの事件はそういうレベルではない。すぐ隣に被害者の部屋があり、警察が自宅にも聞き込みに来ている、そういった状況で、きわめて遺体の処理という難題を片付け、それを警察官たちに気取られることがなかったということは並大抵ではない。そういうことが出来る殺人者には、たいてい相手の痛みに対する興奮や、それで警察などを欺く喜びなどがあるものだが、この事件の犯人にはそういったものさえなく、単に必要な措置として事務的に行ったようだというのが恐ろしい。

もちろん、あの犯人は例外的な存在ではあるが、程度の差こそあれ、他者の痛みに無感覚になる傾向があるような今の世の中、浜ちゃんの半世紀遅れのあのリアクションは好ましく思い出される。
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by tyogonou | 2009-09-13 23:21 | Trackback | Comments(0)