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「ドSゴリラ」浜田に寄せられる「可愛い」の声って?
「ドSゴリラ」浜田に寄せられる「可愛い」の声って?
浜田雅功は本当にS(サディスト)なのだろうか?
そう思ったのは昔、ジャンクSPORTSで、スキーのジャンプ競技で途中バランスを崩して落下した事故の映像を紹介したとき、転がり落ちていく選手を見ながらずっと「あいたたたたたた・・・」とつぶやき続けていたのを聞いたときだった。その後、靴が脱げているように見える場面で、アシスタントがそれが靴が脱げているのではなく足首が折れているのだと説明すると、「なんでそんなこと言うねん」と怒っていた。
チャップリンの映画にも、他人が殴られているのを見て自分まで殴られているかのように反応してしまう場面があったと思うが、他人の痛みを我がことの様に感じるのはさまざまな倫理の基礎でもあり、また倫理的な問題を理屈で説明しようとして行き詰った時の最後の砦でもある。
だから、浜ちゃんのその姿を見て、この人は一線は越えない、越えられない人だと見直した。

逆に、江東区バラバラ殺人事件の犯人には、そういったものが非人間的なまでに欠落している。殺人者ならたいていそうだろうと思うかもしれないが、あの事件はそういうレベルではない。すぐ隣に被害者の部屋があり、警察が自宅にも聞き込みに来ている、そういった状況で、きわめて遺体の処理という難題を片付け、それを警察官たちに気取られることがなかったということは並大抵ではない。そういうことが出来る殺人者には、たいてい相手の痛みに対する興奮や、それで警察などを欺く喜びなどがあるものだが、この事件の犯人にはそういったものさえなく、単に必要な措置として事務的に行ったようだというのが恐ろしい。

もちろん、あの犯人は例外的な存在ではあるが、程度の差こそあれ、他者の痛みに無感覚になる傾向があるような今の世の中、浜ちゃんの半世紀遅れのあのリアクションは好ましく思い出される。
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by tyogonou | 2009-09-13 23:21 | Trackback | Comments(0)
大昔に読んだ陳舜臣氏の著作だったか、阿片戦争で活躍した林則徐について、優秀な林が中央で出世できず地方官を歴任することになったのは、字が上手くなかったからだという。Wikipediaには画像も掲載されているが、いわれてみれば右下の画像では「養」の良の部分がちょっと窮屈だったり、「氣」の字もちょっとバランスが良くなかったり、左上の画像では「有容」の二字あたりがちょっとダメかな、とも思われる。全体に書道の基本としてやかましくいわれる長い横棒すなわち「一」の字があまりよくないような気もする。

福島みずほ社民党党首の署名が下手ということで話題になっているようだが(私も最初に見たとき「かわいい字を書くな」と笑ってしまった)、やはり字の巧拙は政治家にとって最重要ではない。所謂、習字をやったことはほとんど、あるいは全くないように見えるが、全体のバランスもいいし、新聞紙上の小さな写真でもはっきり読めた見易さを評価したい。むしろ、いかにも達筆な亀井静香国民新党代表の字のほうが大きすぎ詰まりすぎで良くないのかもしれない。
代々の政治家一族に生まれれば、家業に必要だからと早い時期から習字を習わされることもあるのだろうが、世襲が少なくなって様々なバックグラウンドをもつ人びとが政界で活躍するようになれば、こういった場で毛筆慣れしてない字たり、あるいは明らかな悪筆だったりというのを目にする機会も多くなるのかもしれない。それは、おそらくそんなに悪いことではないだろう。
むしろ字だけは立派だが・・・という方が問題だ。

売家と唐様で書く三代目
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by tyogonou | 2009-09-10 23:16 | Trackback | Comments(0)
複雑系
NHKで放送された『マネー資本主義』を見ててふと、『複雑系』を思い出した。
金融工学の威力の源泉は、それが人びとの欲望を刺激したとか、人間の行動をすべて数学に置き換えたことだとか、人びとの絆を断ち切っただとかいうところにあったのではない。それは、全く新しいニッチを拓いたところにある。
金融工学の前提は金融工学が存在していない固定環境としての経済であったが、経済を複雑系としてみるなら、ひとたびそれが確立されるとその存在自体が経済の姿を新しいものに変え、それが前提としてたものとは別の環境のなかで適用されることになる。そこに無自覚であったなら、「モンスター」を作り上げてしまいかねないのは金融工学に限った話ではない。
金融システムを規制する国連規模の組織を設立しようという提言についても、複雑系としての経済の中の相互適用と共振化のダイナミクスに太刀打ちできるだろうかと疑問に思う。
複雑系は、それなりに話題にはなったものの、いろいろ批判もあって、その具体的な成果が無視されているわけでもないが、今ではその枠組み自体が口にされることもなくなっているような感じだが、その基本的な枠組みは価値あるものだと私は思う。
下に引用するミッチェル ワールドロップの本の第五章、コンピュータ科学者ジョン・ホランドの講演(一部省略あり)などは、簡潔にまとまっていてそれでいて示唆に富んでいる。

複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち (新潮文庫)

M.ミッチェル ワールドロップ / 新潮社



 第一に、これらのシステムは並行的に作用する多くの「エージェント」のネットワークであるということ。たとえば、脳におけるエージェントはニューロン、エコロジーにおけるエージェントは種、細胞のそれは核やミトコンドリアのような細胞内小器官だ。
 しかしそれが何であれ、どのエージェントも、そのシステム中の他のすべてのエージェントとの相互作用をとおして生まれる環境の中に置かれている。そしてどのエージェントも、他のすべてのエージェントがしていることにたえず影響を与え、また反応している。そしてそれゆえに、その環境中にあるものはすべて、本質的に固定されていない。
 さらに複雑適応系の制御は極度に分散化される傾向がある、とホランドはいった。たとえば脳には主ニューロンというものはない。発生中の胚の中にも主細胞というものはない。もしシステムの中になにがしか一貫性のある振る舞いがあるとするなら、それはエージェント間の競合と協力から生まれている。
 第二に、複雑適応系には多くの組織化のレベルがあり、どのレベルのエージェントもそれより高いレベルのエージェントの構成要素になっている、とホランドはいった。たとえば、一群のタンパク質、脂質、核酸が細胞を形成し、一群の細胞が組織を、組織の集合体が器官を、器官の連関が一個の生物を、生物の集団がエコシステムを形成している。
 さらに、個人的にはひじょうに重要だと思っていることだが、複雑適応系は経験をつみながらたえずその構成要素を改めたり再構成したりしている、とホランドはいった。生物の後続世代は、進化というプロセスをとおしてその生体組織を修正し、再構成する。
 ある深い基本的な意味では、学習、進化、適応といったプロセスはすべて同じであり、いかなるシステムであれ、適応の基本的メカニズムの1つは、こうした構成要素の修正と再結合である、とホランドはいった。
 第三に、、すべての複雑適応系は未来を予感している、と彼はいった。それはエコノミストたちには少しも驚きではないだろう。たとえば不況の深化という予感によって、人びとは新車購入や贅沢なバケーションを控える―ちなみに、そのことが、不況は深化するという予感の裏付けに一役買うことになる。
が、じつは、この予感や予測といったことは、人間の予見とか意識という問題を超越している、とホランドはいった。バクテリアからはじまるすべての生物が、遺伝市中に暗号化された暗黙の予測を有している。「ABCという状況では、XYZという行動がうまくいく」
 ホランドはつづけた。もっと一般的にいえば、どの複雑適応系もさまざまな内なる世界モデル―ものごとのあり方に関する、ある場合は暗黙の、ある場合は明白な仮定―にもとづいて、たえず予測している。これらのモデルはけっして受動的な青写真ではない。それらは能動的である。コンピュータ・プログラムのサブルーチンのように、ある特定の情況で活気を帯び、「事を実行し」、システムの中に振る舞いをもたらす。したがって、内部モデルは行動の構成要素であるとみることができる。他の構成要素同様、それらはシステムが経験を積むにしたがい、検証され、洗練され、再構成される。
 最後に、複雑適応系は一般的に多くの〈ニッチ〉を有しており、ニッチ一つひとつは、そのニッチを満たすように適応したエージェントによって利用される、とホランドはいった。たとえば、経済の世界にはコンピュータ・プログラマー、配管工、製鋼所、ペット・ショップなどのための場があるが、それはちょうど、熱帯林にナマケモノやチョウなどのための場があるのと同じである。さらに、一つのニッチを満たすという行為そのものが、新しい寄生者、新しい捕食者と獲物、新しい強制相手のためのさらなるニッチを開く。つまり、システムによって新しい機会がつねにつくられている。そしてこのことは、複雑適応系の均衡状態を論じても本質的に無意味ということである。それはけっしてそこに留まってはいない。複雑適応系はつねに進展し、つねに変化している。もしそのシステムが均衡状態に達してしまったら、それは安定でなく死んでいるのだ。そしてそのことでいえば、システム内のエージェントはその適応や有用性といったものを「最適化」できる、などと考えるのは無駄だ、とホランドはいった。可能性の空間は莫大であるから、最適を見出す方法は事実上存在しない。エージェントが出来る最善の策は、他のエージェントがやっていることと関連させながら、みずからを変え、改善していくことである。要するに、複雑適応系を特徴づけているのは、この不断の斬新さである。
 多種多様なエージェント、構成要素、内部モデル、不断の斬新さ―これらすべてを考えに入れれば、複雑適応系を標準的な数学で解析することが困難なのは当然だ、とホランドはいった。なるほど、微積分や線形解析のような伝統的手法は固定環境の中を動く不変の粒子を記述するには最適である。しかし経済を、あるいは一般的な複雑適応系を深く理解する上で必要なものは、内部モデルを、新しい構成要素の創発を、そして多数のエージェントの相互作用の豊穣な網を強調するような数学と、コンピュータ・シミュレーションである。
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by tyogonou | 2009-08-03 23:35 | Trackback | Comments(0)
中島知子に寄せられる 「ちとマニアックな応援」とは
中島知子に寄せられる 「ちとマニアックな応援」とは
私もダイエットはしないほうがいいと思う。
もちろんそういった女性が好みとかそういった「マニアック」な理由ではない。
しばらく彼女の姿を見ていなかったのが、久しぶりに何かの番組で見て驚いたのは「太った」というよりも「老けた」ということだった。首や頬のたるみ方がなんというか「昭和のおばさん顔」の雰囲気を出していた。そういった雰囲気を醸し出せる人は同世代にはまずほかにいないし、演技も上手い人だったから、彼女にしか出来ない役柄を持つ女優として貴重な存在になりうるのではないかと思った。
まぁ、本人がそれを望むかどうか、自分の体型をどうしたいかはまた別の話だが。
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by tyogonou | 2009-08-03 21:17 | Trackback | Comments(0)
【衝撃事件の核心】墜ちたスポーツマンシップ AV出演する体育会系学生たち
【衝撃事件の核心】墜ちたスポーツマンシップ AV出演する体育会系学生たち
インターネットなどで出演者を募集するケースもあり、出演内容にもよるが、数時間で数万円の報酬をうたっている。保護者や教育者の知らぬところで、学生たちは金欲しさのあまり「軽い気持ち」で“危ないバイト”に出てしまったのだろうか。
 「アスリート精神の自覚、高揚とそれに向けての相互研鑽(けんさん)が不徹底」 
 大経大は、AV出演を含めたラグビー部の処分理由について、こう断じた。
重要なのは体育会系の学生には、所謂学生らしいバイトをする時間がなかなかとれないということではないか。実際の体育会系の学生の懐事情がどんなものか知っているわけではないが、遠征に行ったり怪我をしたり、必要な道具を維持したり、贅沢をしないでもかかる生活費は普通の学生より多いのではないか。本人が好きでやっていることだからといってしまえばそれまでだが、大学側がそういった態度をとるなら、「アスリート精神」云々を要求する資格もないようなものだ。
確かにこういった話が明るみに出たら大学や部のイメージに傷がつくというのも分からないではない。しかし、法律上全く問題はない行為を理由に部の活動の無期限停止という重たい処分を課すというのは、公平性という点でいかがなものか。
仮に高校時代優秀なスポーツ選手が卒業後AV男優になり、その後一念発起し大学を受験し合格、その競技の部活動を希望した場合を考えてみよう。それは一種の美談になるはずだが、大学にそれを拒否する正当な理由はあるのだろうか。

これをモラルやスポーツマンシップの欠如の問題とするのは安易過ぎると思う。
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by tyogonou | 2009-07-26 22:08 | Trackback | Comments(0)
由を考える―9・11以降の現代思想

自由を考える―9・11以降の現代思想

東 浩紀 大澤 真幸NHK出版

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久しぶりに読み返してみた。
たとえば、マクドナルドでイスが硬いから10分で食事を終える。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか。(55頁)
私は、、イスが硬いと早く食事を済ませるという前提に疑問を抱く。
それは私がふかふかのイスで歓待などされないのが当たり前な人生を送ってきたということもあるが、それだけではない。岡本太郎に「座ることを拒否する椅子」という有名な作品がある。「椅子」の座面にごつごつとした顔のような模様があって、物理的にも心理的にも座り難いという。(もっとも実際のすわり心地はそんなに悪くはないともいうが)岡本はもちろん、人間のプリミティブな野生を再生させる仕掛けとしてこの椅子を作ったわけだが、環境管理型権力に如何に対抗するかを考えるヒントにもなるのではないか。
自動改札が導入されたとき、我々は管理されてるのか自由になったのか、ということを考えた場合にどうなるのか。もしこれが管理されており、何かが抑圧されている状態だと記述しようとすると、その排除されたり抑圧されたりしている行為を特定しないとならない。それは強いて言うと「キセルする自由」なんですよね。
排除されているのは「キセルしないことを選択する自由」ではないか。ほかに選択肢がなく正しい手段で鉄道を利用するのと、キセルすることが可能であるにもかかわらずそれをしないことを選択し、自らの意思で正しい方法を実行するのとでは、たとえ結果が同じでも中身が異なる。どれほど選ぶ価値のないあるいは選んではいけないものであっても、その選択肢を吟味した上で廃棄することによって、私たちが自分の選んだ選択肢に責任を負うことがはじめて可能となるのだ。
私たちが日々の選択によって自分の行為の責任を負うことを学習せず、ただ管理型権力にしたがって行動するだけなら、倫理的に悪しき行為であっても、それが「できる」状態にあればそれは「してもよいこと」になってしまいかねない。それなら、そういった漏れがないように管理を徹底すればいいという反論が帰ってくるだろうが、いかなる権力といえども未来を管理することはできない。技術の進歩によって今までできなかったことが可能になったとき、それが管理可能になるまでは、最先端にいる人間の倫理や責任感に頼らざるを得ない。環境を管理されることで、市民がそういった自己訓練の機会を奪われてしまえば、彼らの責任感はあてにできなくなってしまう。
自動改札のような場合には、それほど多くの選択肢の可能性はないかもしれないが、時に難問にぶつかった人間は誰も想像もしていなかったような新しい選択肢を見出すことがある。管理された環境の中では、そういった創造性が発揮される機会も奪われるだろう。
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by tyogonou | 2009-07-26 03:31 | Trackback | Comments(0)
映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」 
映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」 芸術家であり母親 現代に通じる物語
ヨハネスには子どもがいなかったわけだから「ブラームス」の末裔というのは正しくない。顔も大作曲家にはあまり似ていないが、鼻と頬骨のあたりはヨハネスの母親に似た雰囲気だから、ヨハネスの姉か弟の子孫にあたるのだろう。
監督が語っているクララやブラームス像もブラームス好きなら特に驚くようなものでもない。(ただ逆立ちをして歩き回るというのは、性格的にも体格的にもどうかと思うが。)
ただ、ブラームス役をフランス人が演じると聴いたら、大のフランス嫌いだった本人は墓の中でひっくり返っているかもしれない。そう思うとちょっと可笑しかった。
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by tyogonou | 2009-07-25 23:57 | Trackback | Comments(0)
鬼平
中村吉右衛門も大分老けた。頬はたるみ、鼻の下も伸び、肩も落ちてしまった。加えて、TVよりも舞台で「鬼平」をやることが多いためか、芝居や台詞がちょっと大げさで人情味を強調しすぎでもある。
ただ、取調べ中の落針の彦蔵に脇差を渡してにらみ合うシーン、特別恐ろしげな表情を作っているわけでもないのにそのちょっと老けた顔で圧倒的な迫力をかもし出すあたりなど、さすがの芸の力と言わずばなるまい。
伊東四郎も病んで死の近い年寄りを見事に演じていて、「長屋へ帰してくれ」と頼む舟形の宗平とそれを許す鬼平とのやり取りは(カメラワークも良い)、凄みのある名場面だった。
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by tyogonou | 2009-07-23 22:57 | Trackback | Comments(0)
「人には親切」「ウソはつかない」 京大が子供のモラル向上で提言
「人には親切」「ウソはつかない」 京大が子供のモラル向上で提言

①人に親切にする②ウソをつかない③法を犯さない④勉強をする
④は今の時代、むしろ「外でみんなと遊ぶ」としたほうがいいような気がする。危なくてなかなか道で缶蹴りなどもできないだろうが、屋外で遊ぶことによって得られるものは多く、勉強にしろ、社会生活にしろその土台をしっかりとするのに大いに役立つはずだ。

今は作家の安倍譲二氏が、かつて「男を磨く渡世」に身をおきながらドロップアウトした友人達と飲みながら、なぜその道を進み続けることが出来なかったのか話し合ったという。その友人達に共通していたのは、幼い頃「他人様に迷惑をかけてはいけない」と母親に厳しく言われていたことだという。結局塀の中まで行ってしまったわけだから、それさえ教えれば大丈夫という訳にもいかないが、4つをさらに1つに絞ればこれになるのだろう。
かつて、ひとことだけで一生行っていけるということがあるかと弟子に問われた孔子は次のような有名な言葉で応えている。「其(そ)れ恕(じょ、思いやり)か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ」
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by tyogonou | 2009-07-22 20:56 | Trackback | Comments(0)
<鶏卵生産者大会>農水省が中止要請 民主議員招待を問題視
<鶏卵生産者大会>農水省が中止要請 民主議員招待を問題視
これが原因で鶏卵関連予算の執行に支障をきたして生産者が困るのを恐れ、やむを得ず中止要請した
助成金カットを持ち出しての圧力を中止「要請」だとか、それが「生産者が困るのを恐れ」てやったのだとか、ありがちな話だがこういう言い訳は本当に醜くて嫌だ。
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by tyogonou | 2009-07-15 23:29 | Trackback | Comments(0)