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消費社会の神話と構造 まとめ その2
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9.生産されたモデルへの登録としての「個性化」
個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることなく、ある無限定な階梯の上に秩序化していくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。特異性とは、他者や世界との具体的対立関係においてしか生まれないからだ。これこそ差異化の奇蹟でもあり悲劇でもある。こうして消費過程全体は(洗剤の商標のように)人為的に数を減らされたモデルの生産によって支配される。そこでは他の生産部門の場合と同じように独占化の傾向が見られる。差異の生産の独占的蓄積が存在するわけだ。(113ページ)
消費というものは、まず最初に個人的欲求をもった個人を中心に秩序付けられ、ついでこの欲求が権威ないし順応の要請に応じて集団の文脈の上に指数化される、といったものではないことを知るべきだ。実際には、まず最初に差異化の構造的論理が存在し、この論理が個人を『個性化』されたものとして、つまり互いに異なるものとして生産される。だがこのことは、自分を個性的なものとする行為においてさえも個々人が自分を順応させる一般的モデルと一つのコードにしたがって行われる。個人という項目についての独自性/順応主義の図式は本質的なものではなく、体験レベルの問題なのである。コードに支配された差異化/個性化の図式の論理、これこそ根本的な論理である。(119-120)
いいかえれば、コミュニオン(聖体拝領)はもはや象徴的媒体によってではなく、技術的媒体によって行われるのであって、この意味でコミュニオンはコミュニケーションとなる。(141)
モノが単に使用価値を越えた意味を持つのではなく、記号の体系の一要素となってしまうこと、モノが様々な意味を包含し統合しながらひとつの全体として象徴となるのではなく、モノがすべての意味を追放して差異を表示するだけの記号へと抽象されること、これこそが消費社会の特徴である。
象徴と抽象については象徴的記号としてナイフを例に考えてみよう。ナイフを男性の象徴としてみる場合、そこには男性器ばかりでなく、攻撃性であったり、ゴルディオスの結び目を断ち切ったアレクサンダー大王のような決断力なども男性的なものとして絡み付いている。それだけでなく、男性とは関係のないイメージ、たとえば日本の守り刀のように魔を祓うというような意味までも周辺にまとわりついている。しかし、広告がナイフを男性器をあらわす記号として用いるとき、それは「男性器の象徴」という抽象になっている。抽象とは余計なものをそぎ落とすことであって、ここでは攻撃性や決断力などといったものは排除されてしまう。もはや象徴作用の解明、精神分析は成り立たない。
そして、その中で生きる人間、モノを生産する労働力として、あるいはモノの記号的意味を生産する消費者として生きる人間もまた記号化の洗礼を受けてはじめて消費社会へと「現れる」ことができる。道具が他の道具との相性によって形作られるのではなく、ひとつのコンセプトにしたがってワンセットの道具が形作られるように、私たち人間の人格も他者との交流の中から自律的に立ち現れるのではなく、消費社会のコンセプトにしたがって用意されたいくつかのモデルのなかから好きなものを選びそれに自分を同一化することで形作られる。諸個人の特異性とその対立が生み出す不協和音は既成の社会への反乱の契機となりうるが、消費社会はとりどりに異なる消費者たちに魅力的なモデル、いわばプレタポルテの個性を選ぶ楽しさを共有させることによってその芽をあらかじめ摘んでしまう。
また、相対性の不安もここで押さえ込まれてしまう。すなわち、自分が選ぶモデルのよさを認識するためにはそれより劣ったモデルとの上下差が必要なのだが、「みんな違ってみんないい」のだということにすれば、自分の選んだモデルが他者のモデルの優位性を示すより劣ったモデルではないのかといった懸念を封じることができる。
かつては、生まれ・血統・宗教上の差異は交換されあうものではなかった。それは流行上の差異などではなく、本質的なものに触れていたのであった。それらは「消費」されるものではなかったのだ。ところが、現代における差異は、服装やイデオロギーや性の差異さえも、消費の巨大な連合体のなかで互いに交換される。それは諸記号の社会化された交換である。あらゆるものが記号の形式をとって交換されるのは習俗の少しばかりの「自由化」のおかげではなくて、すべての差異を承認の記号として統合する秩序によって差異が系統的に生産されるからである。またもろもろの差異は互いに取替え可能であるから、階級の上下、右翼と左翼の違い以外には、相互の間に緊張も矛盾も存在しないからである。(121)


10。機能的分割 個人の消滅
そして個としての存在は記号の組み合わせと計算の中で消滅する……消費的人間は自分自身の欲求と自分の労働の生産物を直視することもなければ、自分自身の像と向かい合うこともない。彼は自分で並べた記号の内部に存在するのである。(303)
生産性向上のために合理的に搾取されるには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。労働力が賃金にもとづく支払可能な需要と交換価値に変えられるためには、労働者の個人的自由の形式的原則である自由な意思決定と個人的利益が保証されなければならないのと同じように、欲望の力が合理的操作の可能な記号としてのモノの需要に変えられるためには、個人は自分の肉体を再発見し、自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要がある(形式的快感原則)。つまり、解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的過程が確立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ。(197)
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(一)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置きかえることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪い取る(これは本質的なことだ)。こうした事態は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。(中略)
結局ここではただひとつのことが問題になっているのがわかる。それは、象徴的交換としての性、つまり機能的分割を超越した全体的過程としての(いわば壊乱的な)性の否定である。
性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
 一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表される使用価値―――なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)。
 二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、または今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に関する生活態度」)。(223-224ページ)
消費社会は個人の特異性を奪い去るばかりではない。それはひとりの個人としての同一性までも奪い去る。
全体性を失い、機能的に分割され、分割された諸要素を使用価値と交換価値の図式の中に吸い取られる、そんな消費社会における個人のありようを理解するには、良い例がある。子ども向けの絵本でアニメとしても有名な「アンパンマン」である。
アンパンマンの顔は、パン職人のジャムおじさんが作ったあんパンで、取り外し可能である。その顔がばいきんまんの悪さによって汚されたり、おなかを空かせた人に食べさせたりすればアンパンマンの力は弱ってしまうが、新しい特製あんパンと交換すれば元気100倍になる。顔は他の食べ物や普通のあんパンでも代用可能(交換可能)だが、得られる「元気」は3倍であったりと、本来の自分の顔よりは劣ってしまう。食べられて顔の一部が欠けてしまっても、他の食べ物で代用しても、アンパンマンの人格は変わらないし、ロボトミー(前頭葉切除手術)のように何らかの機能が損なわれるわけでもない。アンパンマンの頭と胴は機能的に分割されている。
言うまでもないことだが、生きている人間の顔にしろ体のどんな部分にしろ取り外し不可能である。それは単に物理的に切り離したら死んでしまうというだけでなく、自己認識の上でも「わたし」の切り離すことの出来ない一部である。ところが、資本主義の下で人間が「労働者」になるためには、本来自分の一部であった「労働力」を自分から切り離し(「解放」し)、自分の「労働力商品」として全能の所有権を宣言しなければならない。それは、アンパンマンが「『ぼくの顔』を食べて』というのに似ている。
顔のあんパンは、アンパンマンの一部というよりアンパンマンの所有物である。それは「顔」として胴体にくっついている間は他者との差異を示す記号に過ぎないが、「あんパン」として、子どもたちに食べられるときには、それは生物的な欲求を満たすモノとして使用価値をもつことになる。顔を食べられることは、アンパンマンに機能的な変化をもたらさないが、一方で食べる子供たちにも空腹を満たし舌を喜ばせるという普通のあんパン以上の変化をもたらしはしない。それはストーリーの中の子どもたちにとっても、絵本を読む子どもたちにとっても、聖体拝領のような象徴的な儀式ではない。「元気」が何倍になるかというのも交換比率にすぎない。
こうして、分子と化した人間たちはさまざまな原子価をもつ原子で構成されているようなものなので、時には分解して組成を変えたり、構造の複雑な大きい分子になったりする……。(260)
アンパンマンが顔を外して交換することができるのは、いうまでもなくその顔と胴体とが「バラバラ」だからである。両者を結びつけ、ひとつの体、ひとつの自己へと統合する統辞法がそこにはない。そこにあるのはただ頭と胴体という対立である。それゆえ頭が胴体から切り離されるという状況は惨劇とはならない。そこが人間とは違う、といいたいところだが、消費社会における人間はアンパンマンの頭のように、自分の労働力や性器を自在に切り離してそれを他者と交換している。それらを自己へと統合する統辞法が欠けているからだ。

11.人間らしさ
興味深いのは敵役のばいきんまんが奇妙に(消費社会成立以前の)人間臭いところで、アンパンマンとばいきんまんの関係も示唆に富んでいる。ばいきんまんは悪さをするのが大好きで、誰かを陥れておいしい食べ物を横取りしたりするため、そしてアンパンマンを出し抜くために想像力と知恵を働かせ、時に変装までする。成功すればよく笑うし、邪魔されればよく怒る。時に悪さが「誤解」を受け「いい子」だと誉められてしまうようなこともあるが、そんなときの悔しさの中にちょっとした嬉しさが混じって葛藤する姿はほほえましくもある。
対するアンパンマンは泰然としていて、ばいきんまんの悪さを許さないけれども、ばいきんまん個人に対しては特別何の感情も抱いていないようである。「美味しいものをみんなに食べさせたい」という気持ちはあるが、基本的に喜怒哀楽を欠いている。それこそばいきんまんによって自分の顔(=面子)が傷つけられても怒りはしない。それは新しいものと代えてしまえば済む話なのだから。(消費社会の話に戻ればここでもシステムへの反乱の芽は摘まれるということだ。)バイキンマンにとってアンパンマンは、永遠のライバルであり、「いい子」なサブキャラクター全員の象徴でもあるが、アンパンマンにとってのばいきんまんは、自分の汚れた顔同様、取り除けばすむものでしかない。しかも元気な状態ならアンパンチ一発で簡単にけりがつくため、わざわざ悪巧みを逃れるために相手の思惑を深く読む必要もない、基本的に無関心であるといえる。正義の味方には一般的なことだが、悪をやっつけるために暴力(悪しき行い)を振るうことへの葛藤ももちろんない。
葛藤の無さは消費的心性のひとつの特徴といえる。葛藤とは愛と憎しみのような矛盾した感情をどちらも排除することが出来ないような情況に起きる。ところが、消費社会では、愛は憎しみや恋や友情や性欲などから注意深く切り離され、差異化させられ、外延を確定され、純粋な「愛」という記号になり、消費の対象、交換されるモノとなる。
古い人間の内では、愛や憎しみは事毎にその範囲を拡張し、互いに接し、混じりあい、複雑な「気持ち」へと統合(integrate)される。それはどちらかひとつに統一(unite)されるのではない。矛盾するにも関わらず、両方とも真であって、どちらかを捨てるすることが出来ない、それが葛藤となる。
そういった緩やかに統合された複雑な自己をもつ人間同士のコミュニケーションは象徴の交換となる。メッセージの送り手は言葉、品物、あるいは行為の中に多くの意味を圧縮し、受け手はそれを自分自身の人生経験によって築き上げた独自の統辞法によって解凍し、読み解く。その交換は間接的なものであるがゆえに誤解も生じる(ばいきんまんがよく苦しめられるのもこの誤解だ)が、行間を読んで相手の表に出せない気持ちを汲むなどの人間らしいコミュニケーションを可能にするだけでなく、この象徴交換によって互いの統辞法を推測しあうことで、自己と他者という認識が生まれるのだ。
個人の特有の統辞法を欠いた消費的人間のコミュニケーションは、より直接的な交換、愛と憎しみはそれぞれ純粋なモノとして抽象化され(互いに捨象しあい)、それ以外のなにものでもないモノの交換になる。そしてアンパンマンの頭が、アンパンマンの肉体的な条件ではなく、ジャムおじさんのレシピによって規定されていたように、私たち人間もモノの体系によって規定されたメッセージやモノを、送り出し受け取り、流通させる中継点に過ぎず、そのモノを変えることもそれによって変えられることもない。人間は他者とも自分自身とも対話しない。そこに弁証法はなく、テーゼはアンチテーゼを生むことなく人間を素通りする。あるのはせいぜい論理計算(Aというモノを受け取ったとき、Bという条件が満足されるならAを、満足されないならCというモノを返す)にすぎない。
消費という特殊な様式の中では、超越性(商品のもつ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。意味するものと意味されるものの間には存在論的分裂ではなく論理計算があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。(303)


12。結び
われわれの時代は、食料品のための日常的支出も、「威信を示すための」支出も、ともに消費と呼ばれる時代、それも万人の合意にもとづいてそう呼ばれる最初の時代である。(307)
今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系(エコロジー)に根本的な変化が生じている。すなわち、豊かになった人間たちは、これまでのどの時代にもそうであったように他の人間に取り囲まれているのではもややなく、モノによって取り巻かれている。人間たちの日常的な交渉は、今ではこれまでと違って、むしろ統計的に増加曲線を描く財とメッセージの受け取りと操作となっている。(11)
生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである。
したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される。つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味を持つ事実なのである。
ボードリヤールの消費社会論とは、単に商品がその使用価値を越えて社会的意味を持つことを言うのではないし、商品が消費者を隷属させる(新製品が出ると「買わされてしまう」人びとのように)ことを言うのでもない。
商品は(あるいはきれいな空気のように商品になりうるもの全てが)差異表示記号、すなわち使用価値ではなく他の商品との対立を指し示す記号となり、その記号によって分節化される仮想世界(=モノの体系)を作り上げる。モノによって秩序付けられる仮想世界は、現実世界のさまざまなモノを抽象的な記号として、もっと重要なことには消費にいざなう魅力あふれるものとして浮かび上がらせ、そのショーウィンドウに並べてみせる。ショーウィンドウのモノたちは、消費者を更なるモノの消費へと誘導する(ハンバーガーにはポテト、お弁当にはお茶をいかがですか?)。私たちの周囲には、数の上でも種類においても膨大な数のモノが追加されていくが、それらが私たちの現実生活を豊かにしてくれるわけではない。記号化されたモノは、現実の使用価値指し示しはしないし、どれだけ数が増えたとしても「相乗効果」で何か新しいものを生むこともない。それはただ足され、対立させられ、交換されるのみである。男女の結婚も今や「男+女(+子ども)」のまま、ひとつの「家族」へと変換されない。現代日本の食卓で、家族がそれぞれ自分の好きなものを食べる個食が進んだのは当たり前の流れといえるかもしれない。
現実世界のさまざまな財やサービスやモノとなりうる諸々が、抽象的な記号と足し算的な秩序を特徴とするモノの体系に吸い上げられる過程は、さまざまなモノ同士の結びつきや、それぞれにまとわりついていた意味などを切断し排除する過程でもある。人間、一人の個人という全体も例外ではなく、というより、消費社会を動かす最も重要な部分として、その全体性を破壊され、解体され、モノの体系の要素として組み込まれていく。だから消費社会における人間は素朴な意味では疎外されるのではない。個人は追い出されるのではなく、ばらばらに切り刻まれて売られるのだから。
私たちはこの社会を消費社会として認識し、そこに問題意識さえ抱くが、人間から主体性を奪い、批判のために発せられた言葉さえ消費の原動力へと転化してしまう消費の論理に抗うことはとてつもなく難しい。残念ながらボードリヤールもそのための有効な手立てを提案はしていない。
しかし、われわれはモノが無であることを知っている。モノの背後には、うつろな人間関係があり、膨大な規模で動員された生産力と社会的力が物象化されて浮き彫りにされる。ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、一九六八年五月と同じように予測は出来ないが確実なやり方で、黒ミサならぬこの白いミサをぶち壊すのを待つとしよう。(310)

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by tyogonou | 2010-02-11 00:49 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会の神話と構造 まとめ その1
1.『消費社会の神話と構造』の難しさ
『消費社会の神話と構造』が難解だといわれる理由のひとつは、それが消費社会の全体像を提示するのでも、論理を順繰りに積み重ねていくのでもなく、その中の部分部分を(他の経済学者らを批判する形で)詳細に記述したものを列挙するという形をとっているところにある。部分と部分をつなぐ脈略、議論全体の理路が不明確なため、それぞれの部分の適否や意味などが判断しにくい。もっともそれはボードリヤールばかりの責任ではなく、分析の対象である消費社会にそういった捉え難さがあるということなのかもしれないが。
消費システムの安定化が不可能だという事実、つまり消費の熱狂と限りない前進を前にした経済学者や理想主義福祉論者たちの狼狽は、いつ見ても教訓的である。(69)
ボードリヤールの議論(そして彼が見た消費社会)を理解するにはここから出発するといいだろう。
経済学者らの「狼狽」とは次のようなものである。経済が発展すれば、市民は皆豊かになり、快適で安全ですばらしい生活を送ることができるようになるはずである。欲求にも収穫逓減の法則が働き、貧困にあえいでいたころの渇望は薄れ、すべての市民が平等に満ち足りることになるはずだ。それにもかかわらず、消費への「欲」は尽きるどころか無限の熱狂と前進を続けるように見える。
ボードリヤールはここに発想の転換の必要性を見る。

2.成長
楽観論者と共に「成長は豊かさを、それゆえ平等を生み出す」とはもういえないし、「成長は不平等をもたらす」という逆の極端な見解も採用できない。(55)
成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。(56)
ボードリヤールは、民主主義と資本主義の発達が、生まれによって固定されていた社会階層を、行い(経済活動)によって移動可能な(流動性のある)ものに変えたところに、消費社会を特徴付ける「消費の限りない前進」の原動力を見る。
市民はもはや、道具などとして使用するために商品を買うのではない。経済活動とは、流動的で相対的な社会階層の中で自分の地位を上昇させるための活動であり、商品はそうして上昇した地位を他者に知らしめるための記号として購入される。市民の平等を求める(上の階層に追いつこうとする)エネルギーと、不平等を維持しようとする(下の階層に追いつかれないようにしようとする)エネルギーとは、常に「より上位の」社会記号としての商品を要求し、それが消費者の無限の欲求と経済の永遠の発展とを生み出す原動力となっている。消費者が求めるのは「持てる者」になることではなく、「他者より、そして今の自分より持てる者」になることである。

3.流行の強制 計画的廃用
そのような説明にはひとつの難点がある。。経済活動を人間の物理的生物的欲求を充足させるための営みとして規定してしまうと、それはいずれ限界にあたってしまう、すなわち、無限に成長し続けることはできない。かつて、太っていることは、たらふく食べるだけの財力があることを示していたが、いくら裕福さを誇示したくても胃袋の大きさには限界がある。
この難点を回避するために消費社会が用いた戦略は二つあって、そのひとつはかつてのローマ人のように、食べたものを消化しないで満腹になったら吐いて胃袋を空けてさらに食べ続けるような方法である。計画的廃用によってモノの回転は早くなり消費の絶対量も増加可能になる。
ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(45)
女性の服飾品の毎年の移り変わりを見れば、それが暑さ寒さを凌ぐという使用価値ではなく、流行という記号的価値によって規定され、そしてそのために前者が奪い取られるという構造は容易に見て取れる。これは、単に数多く生産できかつ廃棄も容易な商品に限った問題ではなく、消費社会における商品には多かれ少なかれ共通する特性である。優れた作品が「不朽の名作」と呼ばれるような文学や芸術の分野でさえ、年ごとの文学賞という形で流行り廃りを強制されている。また、急テンポで移り変わる商品のラインナップの中から選び購入しなければならない消費者にも、その変化に遅れないよう「ルシクラージュ」が求められる。職業上の新しい知識を学びなおすことを意味するこのフランス語は、流行の「サイクル」について行かなければならないという要請を連想させるという意味では優れているが、21世紀に生きる私たちには「アップデート」というコンピュータ用語の方が分かりやすいだろう。ネットワークにつながりたければ、あるいはウィルスなどの被害を受けたくなければ、コンピュータソフトは常に最新のバージョンにアップデートしなければならないし、今や自動的(強制的)な手続きとなっていることも多い。

4.生物的欲求から記号的欲望へ
社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(73)
人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団を抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(67)
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。(121)
生物的制約を乗り越えるもうひとつの方法は、消費を欲求の充足の問題から切り離すことだ。つまりモノは、単に胃袋を満たすだけでなく、それを消費する人間の社会的な価値を高める特別な意味をもつことになる。
かつて多くの日本人にとって「米の飯」はそういう特別な意味を持っていたし、米食が一般の人々にとっても当たり前になると、「コシヒカリ」のようなブランドが同様な社会的権威づけの記号となった。高級外車、高級ブランドの服飾品など、誇示型商品の例は豊富に思い浮かぶ。
しかし、何にも意味ももたない雑器のなかにぽつんぽつんと特別な意味を持つ誇示型商品が浮かんでいるだけでは、経済発展は永遠に続く運動となりえない。そのためにはすべてのモノに意味を付与して、モノを使用価値の地面から浮かび上がらせ、それを階段状に配置しなければならない。あるいは、社会階層は無限に高くなるわけではないし、麦を食っていた貧乏人と米の飯を食していた上流階級の差は、ノンブランドの米を食う貧乏人とコシヒカリを食す上流階級の差となんら変わるところがないから、それほど多くない数のステップが次々と上から下へと流れてくるエスカレーターのような仕組みを作ればいい。さながら下りのエスカレーターを登っていこうとする子どものように、私たちはより上位の階級を追ってついさっきまで彼らが立っていたステップへと登っていくが、その実決して現在の位置から上昇することはないし、上下の階級との差も変わらぬままである。しかしそれでもなお、自分より上の者に置いて行かれないよう、そして自分より下のものに追い抜かれぬよう、私たちは登ろうとする努力をやめることも出来ない。

5。記号の「体系」
ここで注意しなければならないのは、モノはただその機能的な使用を越えただけでなく、所謂誇示型商品として個人や集団の単なる権威付けの機能も超えたということだ。それは、ただ機能を超えた社会的な意味を持つ商品が増えたということを意味するのではない。誇示型商品が権威など社会的な意味を持ちうるのは、ほかの商品がそういった意味をもたないという状況の中で始めて可能になることだ。すべてのモノが社会的な意味を持つようになると、そしてそれらがひとつの体系を構築すると、その意味は失われていき、モノはソシュールの言語論的な意味での差異表示記号となっていく。
ソシュールによれば、たとえば「水」という言葉とそれが指し示している液体とには何の必然性もない。言葉についての素朴な見方では、言葉の「正しさ」はそれが指し示している事物現象に根拠を持つが、ソシュールはそれを否定する。その液体を「水」と呼ぼうが "water" と呼ぼうがかまわないし、そのうちの温度の高いものを「湯」という別のカテゴリに分離するのも、単に "hot" な "water" として元のカテゴリに残すのもどちらでも問題ない。どちらが真実の水をより正しく捉えているかという議論は全く意味がなく、言葉の正しさはその言葉が属する言語体系によって規定される。そこで重要になるのは「水」という言葉が指し示す事物ではなく、それが対立しうる他の言葉(湯、油、火などなど)である。消費社会におけるモノにも同様のことが言える。ヴァージンコーラという商品名は、その飲み物の味わいなどを指し示すというよりも、コカコーラ、ペプシコーラといった他の商品名を引っ張りだし互いの差異を指し示す。そうして差異を表示するだけになったモノは、それが属する体系の中のひとつの要素にすぎなくなる。
生身の兵士は、様々な感情、様々な思考様式、様々な背景を持ち、それぞれが特異な行動をとるものだが、それが将棋というゲームの中に抽象化されると、個別の兵卒が持っていた属性は捨象され、唯一動き方の違いによって他の駒と区別され、あるいは同一視されることになる。いわゆる「差異の消費」とは、私たちが駒を動かして将棋を指すがごとく、記号としてのモノを操作して消費活動を営んでいるということを意味している。違うのが将棋がごく少数の例外を除いては私たちの日常生活に影響を及ぼさない特殊なコミュニケーションであるのに対し、消費社会においてモノが作り上げる差異の体系はマスメディアの力を借りて、私たちの社会生活そのものといえるまでに拡大しているところだ。

6.モノ分けされる世界
消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに超えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96)
マス・メディア的消費を規定するのは実在系をコードで置き換えるこの手続きの一般化なのである。(181)
もっとも取るに足りない技術的製品やガジェットでさえ技術がいたるところで勝利する見込みの現れであるのと同様に、イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、つまり現実の世界を全面的にイメージ化すること(イメージはいわば世界の記憶―普遍的読解の細胞―のようなものだ)の傲慢さの現れである。(177-178)
イメージは出来事の(歴史的・社会的・政治的)独自性を認めようとも理解しようともしないで、イデオロギー的構造であると同時に技術的構造でもある同一のコードに従ってすべての出来事を無差別に再解釈して人びとに引き渡すという意味でも、出来事とはまったく別のものである。ここでいうコードとは、テレビの場合なら、大衆文化のイデオロギー・コード(道徳的・社会的・政治的価値体系)およびメディア自身の切り取り、分節化の様式のことで、メッセージの多面的で流動的な内容を中和し、メッセージが持っている意味の命令的強制で置きかえるある種の言説性を押しつける。(179)

マス・メディアは、さまざまな出来事を「イベント」や「イメージ」として抽象化し、記号化し、消費の対象として、さまざまな商品などと交換可能な存在にする。商品と出来事という全く別の次元に属する概念がマス・メディアによってモノの体系というひとつの枠組みの中に組み込まれ、私たち人間を囲い込む。言語学者の丸山圭三郎は、ソシュールの記号論による言語とは人間が世界を分節化する枠組みであることを指摘し、動物とヒトがそれぞれ世界を分節化する仕方について、身分け構造とコト分け構造という概念によって説明している。マス・メディアの発達した消費社会に生きる消費者はもはやヒトを超えた生き物、すなわち「モノ分け」によって世界を分節化する別種の生き物であると言えるのかもしれない。

7.同語反復 真偽の彼岸へ
現実の世界をモノの体系という虚構の(ヴァーチャルな)世界で置き換えること、それは永遠に続く経済発展という資本主義の至上命令にどのような影響を及ぼすのか。
もっとも重要な効果は、コンピュータの仮想化と同様に、それによってシステムへの攻撃を防ぐことができることだ。逆に言えば、その中に生きる人間が資本主義システムを変えることを不可能にするということだ。
ボードリヤールに影響を受けたといわれる映画『マトリクス』の世界は奇妙なことにマトリックスのなかの自己同一性は生身の肉体に戻っても不変のまま保たれ、マトリックスと生身の体が存在する現実の世界とを行き来することが可能だった。それゆえにネオやモーフィアスたちは現実の世界で交流することができ、そこで自分たちが暮らしていた世界がコンピューターの作り上げた仮想世界であると認識し、それと戦うことが可能になった。しかし、生身の肉体に戻ることができなければ、あるいは戻ってもそこでもとの自己認識を保てなければマトリックスの世界はネオらの攻撃を受けることはなかっただろう。
「あなたが夢見る肉体、それはあなた自身のからだです」(123)
記号を、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子供やスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。このとき、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。つなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒体として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179)

もはや本ものも現実という準拠枠も存在せず、あらゆる神話や呪文と同様広告が別のタイプの検証つまり自己実現的予言(ある言葉を発することによって実現されたことになる予言)を拠りどころにしているからといってもよい。
(中略)
広告は、何かを理解したり学んだりするのではなくて期待することをわからせるという点で、予言的な言葉となる。広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果を上げるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者の同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。
(中略)
[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。(185)
実際には、広告(他のマス・メディアもそうだが)はわれわれを欺いたりしない。モードが美醜を越えたところにあり、記号としての機能を持つ現代的なものが有用無用を越えたところにあるように、広告は真と偽のかなたに存在している。(184)

「マクドナルドのハンバーガーパテはビーフ100%である」という言明を考えてみよう。自分で料理をし、牛肉100%のハンバーグも、合挽き肉のハンバーグも作りそれらの肉の味をよく知っている人間にとって、この言明は現実を指し示す意味のあるものとなる。しかし、ファーストフードのハンバーグしか食べたことのない人間にとって、「牛肉100%のハンバーグの味とは」「マクドナルドのハンバーガーの味」ということになり、その味がどんなものかをまったく説明しない。さらに、肉の味をよく知っている人間でさえ、それを他人(特に不特定多数の人間)に伝えようとすれば、こういった意味を失った言明に頼らざるを得なくなるのが消費社会である。
皿の上に正体不明のハンバーガーが載っていれば、人はバンズの味、パテの味、そのた調味料や野菜類の味とそれらが調和してかもし出す味覚を味わうだろうが、よく知った包み紙によく知った外観のハンバーガーが包まれていれば、いちいちそういった味わい方をしないだろう。それは良くて味の確認に過ぎず、違和感さえ感じさせなければほとんど味わわれないまま飲み込まれるかもしれない。広告業者の仕事は、広告によってハンバーガーの味わいを説明することではなく、むしろその経験を先取りし、奪い、自らの作り出すイメージをそこに植えつけておき、そこに消費者を誘導することである。消費者はそこで広告によって予言されていたとおりのものを見つけることになる。そうして預言者たる広告業者と創造主たる広告主の正しさは証明される。啓示による「正しさ」は理性による「正しさ」の判断を越えるがゆえに異議申し立ての不可能なものである。

8.生物的欲求の復活 成長を導くものとして
そもそもシステムの破壊の予防という問題が出てくるのはなぜだろうか。それは消費社会が異議や暴力のようなネガティブなものを必然的に生み出すシステムだからだ。そしてそれを遮断し丸め込み拡散する巧妙な仕組みを発展させたことが消費社会の成功の秘密でもある。
アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則と効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間に常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって、無視され、検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とはならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しか持たないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。
豊かな社会における暴力という重要な問題(間接的にはアノマリーやうつ状態や逃避などのあらゆる徴候の問題も含めて)は、こうして解明される。貧困と窮乏化と搾取が生み出す暴力とは本質的に異なるこの暴力は、欲望のまったく肯定的側面によって排除され、隠蔽され、検閲された欲望の否定性の顕在的出現としての行為である。欲求(ブズワン)が満たされることによって人間とその環境がめでたく等価性をもつようになる過程の真っ只中に出現した両義性の否定的側面といってもいい。(271)

価値において他者に対して相対的である存在としての人間の欲求には限度がないが、一方で相対的な満足は相対的な不満と表裏一体であるという側面もある。優越感のあるところ必ず劣等感がありということだ。
一方で、相対的な欲望(記号化された)欲求が作る差異の体系は、「上下」のような基準座標軸を欠いている。その要素たるモノは互いに対立しあって体系をなすが、それはそれぞれが逆方向のベクトルによって相対的に位置づけられるということでもあり、なんらかの絶対的なベクトル上に並べられるものではない。しかし永遠の経済成長という消費社会の絶対的な目標のためには、そこに上下という座標軸を通し、消費者にそこでの上昇を志向させなければならない。それゆえ、消費社会は一度捨てた生物的な欲求を再び枠内に呼び戻す。差異の体系の中に多様な価値を持つモノたちは、素朴な生物的必要、あるいは即物的な快楽といったものの増大というスケールに投影され消費者たちの行動の行き先を決定する。
生物的欲求はまた、相対的な欲望の生み出すネガティブな感情を丸め込むためにも利用される。たとえブリオッシュを食べることができなくても、パンをたらふく食べられてるなら文句を言うな、ということだ。相対的な欲望の階層の中では、いくら上へとよじ登り、望んでいたものを手に入れたとしても、見上げるとそこにはまだ手に入れなければならないモノが私たちを呼んでいる。私たちはそんな永遠の渇望に苛まれながら、それを永遠に新しくもたらされる満足であると思い込まなければならない。なぜなら、永遠の渇望は私たちの上昇への意志を摘んでしまうからだ。満足に満足を積み重ね、さらに新たな満足が加わる可能性があるからこそ、私たちは経済活動を続けるのだ。

(その2へ)
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by tyogonou | 2010-02-11 00:48 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会の神話と構造 まとめ
書きかけ

楽観論者と共に「成長は豊かさを、それゆえ平等を生み出す」とはもういえないし、「成長は不平等をもたらす」という逆の極端な見解も採用できない。(p55)
成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。(p56)
単純に表現すれば、「不平等が成長を生み出す」ということだ。
かつて、生まれによって固定されていた不平等な社会階層は、民主主義の平等の原則と資本主義の発達によって、経済活動という「行動」によって移動可能な流動的なものへと変わった。その中で、不平等を埋めよう、上の階層に追いつこうとするエネルギーと、不平等を維持しよう、下の階層に追いつかれないようにしようとするエネルギーとが、いつまでも上昇し続ける(成長し続ける)経済を要求するのだ。
そこにはひとつの難点があって、経済活動を人間の物理的生物的欲求を充足させるための営みとして規定してしまうと、それはいずれ限界にあたってしまう、すなわち、無限に成長し続けることはできない。かつて、太っていることは、たらふく食べるだけの財力があることを示していたが、いくら裕福さを誇示したくても胃袋の大きさには限界がある。
この難点を回避するために消費社会が用いた戦略は二つあって、そのひとつはかつてのローマ人のように、食べたものを消化しないで満腹になったら吐いて胃袋を空けてさらに食べ続けるような方法、計画的佩用によってモノの回転は早くなり消費の絶対量も増加可能になる。
ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(p45)
消費社会において消費されるモノは鋳型のようにそれを消費する人間を規定する。使い切られる前に廃棄されるため、あっという間に入れ替わるモノのラインナップに遅れないよう、消費者にも「ルシクラージュ」が求めれる。職業上の新しい知識を学びなおすことを意味するこのフランス語は、流行の「サイクル」について行かなければならないという要請を連想させるという意味では優れているが、21世紀に生きる私たちには「アップデート」というコンピュータ用語の方がより相応しいだろう。自動的に更新されることも多いが、アップデートしなければネットワークにつながることができなかったり、ウイルスなどによって深刻な被害を受けかねないほど重要で不可欠な行為である。
社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(p73)
人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団を抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(p67)
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。
生物的制約を乗り越えるもうひとつの方法は、消費を欲求の充足の問題から切り離すことだ。つまりモノは、単に胃袋を満たすだけでなく、それを消費する人間の社会的な価値を高める特別な意味をもつことになる。
かつて多くの日本人にとって「米の飯」はそういう特別な意味を持っていたし、米食が一般の人々にとっても当たり前になると、「コシヒカリ」のようなブランドが同様な社会的権威づけの記号となった。高級外車、高級ブランドの服飾品など、誇示型商品の例は豊富に思い浮かぶ。
しかし、何にも意味ももたない雑器のなかにぽつんぽつんと特別な意味を持つ誇示型商品が浮かんでいるだけでは、経済発展は永遠に続く運動となりえない。そのためにはすべてのモノに意味を付与して、モノを使用価値の地面から浮かび上がらせ、それを階段状に配置しなければならない。あるいは、社会階層は無限に高くなるわけではないし、麦を食っていた貧乏人と米の飯を食していた上流階級の差は、ノンブランドの米を食う貧乏人とコシヒカリを食す上流階級の差となんら変わるところがないから、それほど多くない数のステップが次々と上から下へと流れてくるエスカレーターのような仕組みを作ればいい。さながら下りのエスカレーターを登っていこうとする子どものように、私たちはより上位の階級を追ってついさっきまで彼らが立っていたステップへと登っていくが、その実決して現在の位置から上昇することはないし、上下の階級との差も変わらぬままである。しかしそれでもなお、自分より上の者に置いて行かれないよう、そして自分より下のものに追い抜かれぬよう、私たちは登ろうとする努力をやめることも出来ない。

ここで注意しなければならないのは、モノはただその機能的な使用を越えただけでなく、所謂誇示型商品として個人や集団の単なる権威付けの機能も超えたということだ。それは、ただ機能を超えた社会的な意味を持つ商品が増えたということを意味するのではない。誇示型商品が権威など社会的な意味を持ちうるのは、ほかの商品がそういった意味をもたないという状況の中で始めて可能になることだ。すべてのモノが社会的な意味を持つようになると、そしてそれらがひとつの体系を構築すると、その意味は失われていき、モノはソシュールの言語論的な意味での差異表示記号となっていく。
ソシュールによれば、たとえば「水」という言葉とそれが指し示している液体とには何の必然性もない。言葉についての素朴な見方では、言葉の「正しさ」はそれが指し示している事物現象に根拠を持つが、ソシュールはそれを否定する。その液体を「水」と呼ぼうが "water" と呼ぼうがかまわないし、そのうちの温度の高いものを「湯」という別のカテゴリに分離するのも、単に "hot" な "water" として元のカテゴリに残すのもどちらでも問題ない。どちらが真実の水をより正しく捉えているかという議論は全く意味がなく、言葉の正しさはその言葉が属する言語体系によって規定される。そこで重要になるのは「水」という言葉が指し示す事物ではなく、それが対立しうる他の言葉(湯、油、火などなど)である。消費社会におけるモノにも同様のことが言える。ヴァージンコーラという商品名は、その飲み物の味わいなどを指し示すというよりも、コカコーラ、ペプシコーラといった他の商品名を引っ張りだし互いの差異を指し示す。そうして差異を表示するだけになったモノは、それが属する体系の中のひとつの要素にすぎなくなる。
生身の兵士は、様々な感情、様々な思考様式、様々な背景を持ち、それぞれが特異な行動をとるものだが、それが将棋というゲームの中に抽象化されると、個別の兵卒が持っていた属性は捨象され、唯一動き方の違いによって他の駒と区別され、あるいは同一視されることになる。いわゆる「差異の消費」とは、私たちが駒を動かして将棋を指すがごとく、記号としてのモノを操作して消費活動を営んでいるということを意味している。違うのが将棋がごく少数の例外を除いては私たちの日常生活に影響を及ぼさない特殊なコミュニケーションであるのに対し、消費生活はもはや私たちの社会生活そのものといえるまでに拡大しているところだ。
消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに超えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96)
マス・メディアの機能は、世界が持っている現実に生きられた-一回限りの-出来事としての性格を中和し、互いに意味を保管しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界をおきかえてしまうことだ。(177)

マス・メディア的消費を規定するのは実在系をコードで置き換えるこの手続きの一般化なのである。(181)
もっとも取るに足りない技術的製品やガジェットでさえ技術がいたるところで勝利する見込みの現れであるのと同様に、イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、つまり現実の世界を全面的にイメージ化すること(イメージはいわば世界の記憶―普遍的読解の細胞―のようなものだ)の傲慢さの現れである。(177-178)
イメージは出来事の(歴史的・社会的・政治的)独自性を認めようとも理解しようともしないで、イデオロギー的構造であると同時に技術的構造でもある同一のコードに従ってすべての出来事を無差別に再解釈して人びとに引き渡すという意味でも、出来事とはまったく別のものである。ここでいうコードとは、テレビの場合なら、大衆文化のイデオロギー・コード(道徳的・社会的・政治的価値体系)およびメディア自身の切り取り、分節化の様式のことで、メッセージの多面的で流動的な内容を中和し、メッセージが持っている意味の命令的強制で置きかえるある種の言説性を押しつける。(179)

マス・メディアは、さまざまな出来事を「イベント」や「イメージ」として抽象化し、記号化し、消費の対象として、さまざまな商品などと交換可能な存在にする。商品と出来事という全く別の次元に属する概念がマス・メディアによってモノの体系というひとつの枠組みの中に組み込まれ、私たち人間を囲い込む。言語学者の丸山圭三郎は『ソシュールを読む』の中で、ソシュールの記号論によれば、言語は人間が世界を分節化する枠組みであることを指摘し、動物とヒトがそれぞれ世界を分節化する仕方について、身分け構造とコト分け構造という概念によって説明している。マス・メディアの発達した消費社会に生きる消費者はもはやヒトを超えた生き物、すなわち「モノ分け」によって世界を分節化する別種の生き物であると言えるのかもしれない。

現実の世界をモノの体系という虚構の(ヴァーチャルな)世界で置き換えること、それは永遠に続く経済発展という資本主義の至上命令にどのような影響を及ぼすのか。
もっとも重要な効果は、コンピュータの仮想化と同様に、それによってシステムへの攻撃を防ぐことができることだ。逆に言えば、その中に生きる人間が資本主義システムを変えることを不可能にするということだ。
記号を、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子供やスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。このとき、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。つなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒体として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179)

「あなたが夢見る肉体、それはあなた自身のからだです」(307)

もはや本ものも現実という準拠枠も存在せず、あらゆる神話や呪文と同様広告が別のタイプの検証つまり自己実現的予言(ある言葉を発することによって実現されたことになる予言)を拠りどころにしているからといってもよい。
(中略)
広告は、何かを理解したり学んだりするのではなくて期待することをわからせるという点で、予言的な言葉となる。広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果を上げるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者の同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。
(中略)
[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。

「マクドナルドのハンバーガーパテはビーフ100%である」という言明を考えてみよう。自分で料理をし、牛肉100%のハンバーグも、合挽き肉のハンバーグも作りそれらの肉の味をよく知っている人間にとって、この言明は現実を指し示す意味のあるものとなる。しかし、ファーストフードのハンバーグしか食べたことのない人間にとって、「牛肉100%のハンバーグの味とは」「マクドナルドのハンバーガーの味」ということになり、その味がどんなものかをまったく説明しない。さらに、肉の味をよく知っている人間でさえ、それを他人(特に不特定多数の人間)に伝えようとすれば、こういった意味を失った言明に頼らざるを得なくなるのが消費社会である。
皿の上に正体不明のハンバーガーが載っていれば、人はバンズの味、パテの味、そのた調味料や野菜類の味とそれらが調和してかもし出す味覚を味わうだろうが、よく知った包み紙によく知った外観のハンバーガーが包まれていれば、いちいちそういった味わい方をしないだろう。それは良くて味の確認に過ぎず、違和感さえ感じさせなければほとんど味わわれないまま飲み込まれるかもしれない。広告業者の仕事は、広告によってハンバーガーの味わいを説明することではなく、むしろその経験を先取りし、奪い、自らの作り出すイメージをそこに植えつけておき、そこに消費者を誘導することである。消費者はそこで広告によって予言されていたとおりのものを見つけることになる。そうして預言者たる広告業者と創造主たる広告主の正しさは証明される。異論を唱えたければ、創造主の創り給うたこの世界自体を否定するよりほかない。

消費社会は個別の問題領域についての理性に基づく異議申し立てがもはや不可能な社会であり、それに代わるものがあるとすれば、テロリズムのような暴力によって全てを破壊する企てしかない。消費社会は異議や暴力のようなネガティブなものを必然的に生み出すが、それを遮断し丸め込み拡散する巧妙な仕組みをもっているのだ。

アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則と効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間に常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって、無視され、検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とはならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しか持たないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。
豊かな社会における暴力という重要な問題(間接的にはアノマリーやうつ状態や逃避などのあらゆる徴候の問題も含めて)は、こうして解明される。貧困と窮乏化と搾取が生み出す暴力とは本質的に異なるこの暴力は、欲望のまったく肯定的側面によって排除され、隠蔽され、検閲された欲望の否定性の顕在的出現としての行為である。欲求(ブズワン)が満たされることによって人間とその環境がめでたく等価性をもつようになる過程の真っ只中に出現した両義性の否定的側面といってもいい。(271)

価値において他者に対して相対的である存在としての人間の欲求には限度がないが、一方で相対的な満足は不満と表裏一体であるという側面もある。優越感のあるところ必ず劣等感があるのだ。
また、相対的な欲望(記号化された欲求)にはもうひとつ欠点があって、無限の経済成長のために消費者たちを動員するためには彼らに上昇志向を持たせなければならないが、そのためには上下という基準座標軸が不可欠なのだ。消費社会は素朴な生物的欲求、あるいは快楽といったものをその軸としている。そして、相対的な欲望の生み出すネガティブな感情を生物的な欲求を満足させることで抑えつける。ブリオッシュを食べることができなくても、パンをたらふく食べられてるなら文句を言うな、ということだ。相対的な欲望の階層の中では、いくら上へとよじ登り、望んでいたものを手に入れたとしても、見上げるとそこにはまだ手に入れなければならないモノが私たちを呼んでいる。私たちはそんな永遠の渇望に苛まれながら、それを永遠に新しくもたらされる満足であると思い込まなければならない。なぜなら、永遠の渇望は私たちの上昇への意志を摘んでしまうからだ。満足に満足を積み重ね、さらに新たな満足が加わる可能性があるからこそ、私たちは経済活動を続けるのだ。
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by tyogonou | 2010-01-20 00:27 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会の神話と構造より その8
消費に社会的事実としての性格を与えるのは、消費が見かけの上で自然から受けつぎ保存しているかにみえるもの(充足と享受)ではなくて、消費が自然から訣別する本質的な手続きである(この手続きが消費をコード・制度・組織のシステムとして規定する)。親族体系が最終的には血縁関係や家系つまり自然的条件ではなく、任意の分類規則にもとづくのと同様に、消費の体系は最終的には欲求と享受にもとづくのではなくて、記号(記号としてのモノ)と差異のコードに基づいている。(97ページ)

システムがシステムとして成り立つのは、それが各個人の必然的に相違する固有の内容と存在を取り除き、差異表示記号として産業化と商業化が可能な示差的形態を対置するからに他ならない。システムは一切の独特な性質を除去して、差別的図式とこの図式の体系的生産だけを残しておく。この段階で差異はもはや排除的ではない。もろもろの差異は、違う色が互いに「戯れる」ように流行(モード)の組み合わせの中で論理的に互いに包摂しあうだけではない。社会学的には、ここにあるのは集団の統合を固めるもろもろの差異の交換なのである。このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか、反対に交換用具になる。(120)

この精神分析はもちろん、真の分析的実践ではなく、教養化、マス・メディア化された精神分析の機能=記号なのだ。(220)

性器つき人形(性器が玩具化され、子供が操作できるようになっている)の場合、全体的(トータル)交換という象徴的機能を持つ全体性(トータリテ)としての性がまず解体され、性的記号(生殖器、ヌード、第二次性徴、そしてすべてのものに一般化されたエロティックな意味作用)のなかに閉じこめられた上で、私有物あるいは属性として個人に割り当てられている。
「伝統的なタイプの」人形でさえ、それなりに象徴機能(つまり性的機能でもある)を十分果たしていたわけだが、この新種の人形のように人形に特定の性的記号を付与することは、この象徴機能を阻害し、人形に見世物としての機能だけを担わせることにほかならない。もっとも、性器つき人形は特殊な例ではない。二次的属性、性的寓意、象徴機能の検閲として人形に付け加えられたこの性器は、子どものレベルでの裸体主義とエロティシズムの寓話化であり、いたるところでわれわれを取り巻いている肉体の記号の礼賛でもある。
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(1)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置き換えることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪いとる(これは本質的なことだ)。こうした事態は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。先に述べた無意識の場合と同じことだ。
結局ここではただひとつのことが問題になっていることがわかる。それは、象徴的交換としての性、つまり機能的分割を超越した全体的過程としての(いわば壊乱的な)性の否定である。
性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表れる使用価値―なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)
二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、またわ今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に対する生活態度」)(223-224)

要するに存在の本質とその外観のむきだしの倫理的弁証法から完全に開放され、関係のシステムの機能性だけを担わされた人間関係が出現しているのである。(248)
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by tyogonou | 2009-12-22 21:52 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
クローズアップ現代 “食”がいのちを救う
クローズアップ現代 “食”がいのちを救う 10月29日(木)放送
いつ、どこでも食べたいものが手に入る「飽食ニッポン」。しかし今、生きていく上で欠かせない営みであり、日々の喜びであるはずの"食べる"という行為が軽んじられる時代になっている。若者たちにとって、今や主食はスナック菓子やアイスクリーム。その結果、栄養不足に陥り、血液に異常を抱えるケースも増えている。さらに食べることに関心がなく、サプリメントで最低限の栄養さえ取ればいいと考える人も増え続けている。その一方で、医療や介護の現場では「食べる」という行為を治療の一環として再評価する動きが出始めている。寝たきりで話すこともできなかった患者に食事ができるよう訓練を施した結果、言葉を取り戻し、散歩できるまでに機能が回復した例もある。様変わりする食の現実を見つめ、私たちは食とどう向き合っていけばよいのかを考える。
特別忙しい時だけというわけではなく日常的に菓子やサプリメントを食事にしている光景というのはショッキングなものだった。だが、それは食べるという行為が軽んじられているとか関心がないとかいうレベルの話なのだろうか。
初期のセブンイレブンで、新しい商品として「弁当」を売ろうとしたとき、社内からは反対の声が挙がったという。弁当なんて作って持っていくもので、金を出して買う人などいないというのがその理由だった。それから4半世紀、弁当を買って食べるのなどごく普通の事となった今に至るまでの間に、私たちの食というものの捉え方の根っこにある変化が生じたのではないかと思う。
それは、食べ物がボードリヤールのいう「モノ(消費の対象)」のひとつとして確立されたということだ。それは即ち、食べ物が他のモノと交換可能になり、比較され、選択されるものになったということだ。
栄養は錠剤で補給し食事はとらない、そういう未来社会は手塚治虫あたりの年代の漫画家たちも描いてはいたが、トキワ荘で鍋を囲んでいた彼らは、食事とサプリメントとを同格で秤にかける思考をどれだけリアルに想像できていただろうかと思う。技術的に可能で、論理的にも理解できても、食事の楽しみや喜びを人間が放棄できるのか、できるとしたらどのようにしてそれがなされるのか、彼らにはそのあたりの想像力が不足していたかもしれない。
食べ物がモノになったということを理解するには次のようなことを考えてみると良い。「昨日何を食べたか」という質問に対して、主婦など料理をする人には二通りの答え方がありうる。一つはたとえば「ほうれん草をおひたしにした」というもので、もう1つは「ほうれん草のおひたしを作った(食べた)」という答え方である。昔は前者のような答え方をすることもあったが、そういえば今そういう言い方をしないなと思い当たる人もいるのではないだろうか。些細な表現の違いのようでもあるが、私たちの食についての考え方の根っこにある構造に変化がおきたことを示しているのかもしれない。
昔の人たちにとって食とはおそらく、田の稲、畑の野菜、海の魚、家畜たち、そのほかもろもろの食べ物が栽培され採取されあるいは殺され、さまざまに手を加えられ、料理され、私たちの口に入り、そして私たちの体をつくっていく、そういうものだった。しかし、今の私たちにとって食とはまず「料理」を食べること(=消費すること)でであり、稲やら野菜やらはその原材料として料理から遡ってトレースされるものであり、それを調理することは「料理」という完成された製品に至る製造工程である。
「完成された」というのはひとつの鍵である。たとえば鮨職人は膨大な数の鮨を握るが、そのどのひとつととっても欠陥があってはならない。たまたま体調が悪かったであるとか、予期せぬアクシデントが起こってしまったどか、そんなことは客にとっては一切関係のないことだ。商品として客の前に出された以上、どのひとつをとってもパーフェクトでなければならない。職人の手を離れた瞬間、それはそれまでの時を奪われる。完成されるということは、それまでのプロセスから切断され、外部に対して閉ざされることを意味する。完成されたものに残されているのは同様に完成されたものとの差異のみである。
食べ物であれなんであれ、商品として販売されるものであればこれは当然のことであるといえるが、食べ物が消費の対象=モノとして確立されると、商品として提供されるものではないものまで同じ枠組みの中に取り込まれてしまう。それこそ自分で釣ってきた魚を食べるのでさえ、モノの消費であるという意味において、ファーストフード店でハンバーガーを食べるのと全く違いはない。どちらも、もはや私たちの舌を楽しませ、空腹を満たす実体的存在というより、モノの体系の中の関係的存在なのだ。
相手として組み合わされるモノとはまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。このために、モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。(『消費社会の神話と構造』 14ページ)
食べ物がモノと化したということはまた、それがモノの体系の中の他のモノとの互換性を獲得したということを意味する。食事がモノの消費となる前は、食事とおやつと薬(サプリメント、薬用酒など)とは私たちの生活の中にそれぞれ独自の地位(ニッチ)を占めていて、それぞれを互いの代りにするということなど想像もされなかった。しばらく前なら、子どもがおやつを食べ過ぎて晩御飯が入らないなんてことになったら母親に叱られたものだ。甘みを楽しみ、あるいは軽いエネルギーの補給に過ぎないおやつが、体を作り命をつなぐ食事の領域を侵してはならないからだ。今では、両者の違いは単にスーパーやコンビニの棚の位置の違いを意味するに過ぎない。
食の問題をボードリヤール的な枠組みで見ることは、そこに解決の糸口が示されないだけにあまり愉快なことではない。だが必要なことだと思う。
「食べる」という行為を治療の一環として再評価する動きがあるという。それは好ましいことのようにも思われるが、食事(手のかかった「料理」)を薬の代りにするのと、薬(サプリメント)を食事の代りにするのとでは、両者を交換可能なものと見ているという点において違いはない。食事がモノの消費と化しているという認識がなければ、どのような取り組みも、モノとしての食べ物に新しい交換価値を付与するだけのことになるだろう。それでは、生き物として、実体的存在としての私たちの肉体と、関係的存在となった食べ物との間の断絶を乗り越えることは不可能ではないかと思う。
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by tyogonou | 2009-11-08 23:34 | 消費社会 | Trackback | Comments(2)
ソシュール
心理的にいうと、われわれの思想は、語によるその表現を無視するときは、無定形の不分明なかたまりにすぎない。記号の助けがなくては、われわれは二つの観念を明瞭に、いつもおなじに区別できそうもないことは、哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた。思想は、それだけ取ってみると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない。予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない。

次のようなものは存在しない。
(a)他の諸観念に対して、あらかじめ出来上がっていて、まったく別物であるかのような観念
(b)このような観念に対する記号(シーニュ)。
そうではなくて、言語記号が登場する以前の志向には、何一つとして明瞭に識別されるものはない。これが重要な点である。

文字法においても、我々はラングと同じような記号の体系の中にいる。その主な性質は次の通りである。
(1) 記号の恣意的性格(記号とそれが指示する事物の間には関係がない)
(2) 記号の純粋に否定的(ネガティヴ)で示差的な価値。(記号はその価値を差異のみに求める。たとえばtは、同一人物が書く場合でもさまざまで、t T  のようになるが、必要なのは、それがlとかnと全く同一であってはならないということだけである。)
(3) 文字法の価値は、一定の体系内で対立関係におかれた大きさでしかない。その価値は対立的であり、対立によってしか価値とならない。
 これは(2)に述べたことと全く同じことではないにしても、結局は否定的(ネガティヴ)な価値という意味に帰着する。
 例えば、ロシア人にとってのPは、ギリシア人にとってはRである。等々。(2)も(3)も、(1)の必然的帰結なのである。
(4) 記号の生産手段は全く非関与的であること(これもまた(1)の帰結なのだ)。

人間が樹立する事物の絆は、事物に先立って存在し、事物を決定する働きをなす。他の場所においては事物すなわち、与えられた対象が存在し、ついでそれをさまざまな視点から観察することができる。此処においては、それが正しいにせよ誤っているにせよ、まず在るものは視点だけであって、人間はこの視点によって二次的に事物を創造する。(・・・・・・)いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。

価値という語をめぐって我々が述べたことは、次の原理を措定することによっても言い換えることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。差異というと、我々は差異がその間に樹立される実定的(ポジティヴ)な辞項を想起しがちである。しかし、言語の中には実定的な辞項をもたない差異しかないという逆説である。そこにこそ、逆説的真理があるのだ。
厳密に言うと、シーニュがあるのではなくて、シーニュ間の差異があるだけである。

ここに至って、記号学の地平がよりよく定義される。われわれは、社会的産物としての性格をもつ現象しか記号学的なものとしては認めない。そしてこの社会的産物をより厳密に定めなければならない。いかなる記号学的産物を考察するときも、これが多くの単位から構成されることが見てとられるが、これらの単位の性質、つまり他の事物との間に一線を画すその本質は、それらが価値であるということである。記号体系であるところのこれらの単位の体系は、価値体系なのである。(・・・・・・)そして、この価値はそれが相互性を無視しては語ることができないという意味で複合性を有する。いかなる価値といえど単独には存在しない。またこの価値は、これを容認する集団の力によってのみ与えられる。
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by tyogonou | 2009-10-17 20:07 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
近ごろ、老人が凶暴化してないか?
「路上で将棋指すな」と男性刺され死亡 82歳を逮捕(産経新聞) - Yahoo!ニュース
近ごろ、老人が凶暴化してないか? [Webマガジン 月刊チャージャー] - Yahoo! JAPAN PR企画
今の日本を救う“キーワード” (新刊JP) | エキサイトニュース
ボードリヤールを読んでいて嫌なのは、彼の話の前提や論理には詳しく再検討したほうがいいような胡散臭さすらあるのに、そこから導き出された結論が、その執筆からはかなり経った現在の状況を鋭く指摘していることだ。
夢の国の幻覚に取り囲まれ繰り返される広告に説得されて、自分たちには豊かさへの正当な、譲渡できない権利があるのだと思いこんでいるのにもかかわらず、消費者大衆は豊かさを自然の結果として受けとっているのではないだろうか。消費への素朴な信仰は新しい要素であり、今後は新しい世代がその相続人である。彼らは財産だけでなく、豊かさへの自然権をも相続する。こうして、メラネシアでは衰えつつある貨物船(カーゴ)の神話が、西欧では再び蘇えろうとしている。なぜなら、たとえ日常的で月並みになったとはいえ、豊かさは歴史的社会的努力によって生み出され、もぎとられ、獲得されたものとしてではなく、われわれ自身がその正当な相続人である好意的な神話的審級、つまり技術、進歩、経済成長等によって分配されたものとして現れ、この限りにおいては、やはり日常生活の奇蹟となっているのだから。『消費社会の神話と構造』(23ページ)
ところが、豊かさそのもの(豊かさそのものさえも、というべきだ)が新しい型の強制のシステムに過ぎないという仮説を少しでも認めるなら、この新しい社会的強制(多かれ少なかれ無意識的な強制)には新しい型の解放の要求しか対応できないことがすぐにわかるはずである。今のところ、この要求は、無差別的暴力の形態(物質的・文化的財の「盲目的」破壊)または非暴力的で逃避的な形態(生産や消費への投資の拒否)をとった消費社会に対する拒否となっている。(270ページ)

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by tyogonou | 2009-09-18 00:20 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その7
ところが、豊かさそのもの(豊かさそのものさえも、というべきだ)が新しい型の強制のシステムに過ぎないという仮説を少しでも認めるなら、この新しい社会的強制(多かれ少なかれ無意識的な強制)には新しい型の解放の要求しか対応できないことがすぐにわかるはずである。今のところ、この要求は、無差別的暴力の形態(物質的・文化的財の「盲目的」破壊)または非暴力的で逃避的な形態(生産や消費への投資の拒否)をとった消費社会に対する拒否となっている。(270ページ)

アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間の常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方的で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって無視され検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しかもたないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。(270ページ)

われわれの社会に存在するあらゆる過程は、欲望(デジール)の両義性を解体し分裂させる方向にむかう。享受と象徴機能において統一されていた欲望の両義性は、同じ論理に従って二方向に分裂する。欲望の肯定性はすべて欲求〔必要〕とその充足の連鎖のなかに移行し、そのなかで一定の目的へと導かれつつ姿を消す。欲望の否定性はすべて統御不能な身体化、あるいは暴力行為の中に移行する。(284ページ)

したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される、つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味を持つ事実なのである。(302ページ)

消費という特殊な様式のなかでは、超越性(商品のもつ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。意味するものと意味されるものの間には存在論的分裂ではなく論理的関係があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。幸福な時にも不幸な時にも人間が自分の像と向かい合う場所であった鏡は、現代的秩序から姿を消し、その代りにショーウィンドウが出現した。そこでは個人が自分自身を映してみることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中へ吸い込まれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものの描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。(303ページ)

子どもは自分自身と他者の中間に位置する鏡の中の像と「戯れる」。消費者にしても同じことで、項目や記号を次々と変えて自分を個性化する過程を「演じている」。子どもとその像の間には共謀と秩序だった関わり合いの関係があって、絶対的対立関係がないように、記号同士の間には何の矛盾も生まれない。消費者は自分がもっているモデルのセットとその選び方によって、つまりこのセットと自分とを組み合わせることによって自己規定を行う。この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明(アイデンティティ)の悲劇性に徐々に取ってかわったということができる。(304ページ)

消費社会が以前の社会とは違ってもはや神話を生み出さなくなったのはなぜだろうか。消費社会そのものが消費社会についての神話となっているからである。(305ページ)

その名に恥じないあらゆる偉大な神話と同じように、「神話」は独自の言説と反言説をもっている。すなわち、豊かさを礼賛する言説はいたるところで、消費社会の弊害とこの社会が文明全体に必ずもたらすであろう悲劇的結末を批判する陰気で道徳的な反言説をあわせもつことになる。(309ページ)

中世社会が神と悪魔の上で均衡を保っていたように、われわれの社会は消費とその告発の上で均衡を保っている。悪魔のまわりにはさまざまな異端とさまざまな黒魔術の流派が組織されえたが、われわれの魔術は白く、豊かさのなかには異端はもはや存在しえない。それは飽和状態に達した社会、眩暈も歴史もない社会、自ら以外に神話を持たない社会の予防衛生的な白さなのである。(310ページ)
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by tyogonou | 2009-09-17 20:40 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その6
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(一)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置きかえることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪い取る(これは本質的なことだ)。こうした自体は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。(223ページ)

性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
 一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表される使用価値―――なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)。
 二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、または今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に関する生活態度」)。(224ページ)

いずれにしても大部分のモノは理論的には交換価値と切り離すことのできる一定の使用価値をもつわけだが、時間はどうだろうか。(227ページ)

貨幣と時間は交換価値のシステムの表現そのものだからである。(232ページ)

象徴的意味では金貨も銀貨も、客体化された時間も排泄物だが、貨幣と時間に排泄物としての古風で供犠的な機能を与えることはほとんどないし、現在のシステムの下では論理的に不可能である。そんなことが可能なら、われわれは象徴的なかたちで貨幣と時間から真に解放されることになるだろう。ところがわれわれを支配する計算と資本の秩序においては、いわばその反対のことが起こっている。この秩序によって客体化され、交換価値として操作されているのはわれわれ自身であり、貨幣と時間の排泄物となったのもむしろわれわれのほうなのである。(232ページ)

余暇がふえ、自由時間がだれでも手に入れられるようになると、特権が逆になって、時間の義務的消費からできる限り逃れていることが至上の特権になるかもしれない。余暇が開発されるのに伴い、その理想的な意図とは裏腹に競争と厳格な倫理に組み込まれるようになれば(充分考えられることだ)、労働(ある種の労働というべきだろう)が余暇から解放されて一息つくための場所と時間になるかもしれない。いずれにしても、現代社会では労働はすでに差別と特権を表示する記号となることができる。(235ページ)

余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の不在によって規定される。余暇の本質的価値でもあるこの差異はいたるところで共示され、誇張され、見せびらかされている。余暇のすべての記号・態度・実践の中で、また余暇が話題とされるすべての言説において、余暇はそのような見せびらかしや絶えざる誇張を糧とし、自己宣伝によって成り立っている。(239ページ)

人間関係(自然発生的・相互的・象徴的人間関係)の喪失は、われわれの社会の基本的特徴である。この事実にもとづいて、人間関係が―――記号の形で―――社会的回路に再投入され、記号化された人間関係と人間的温かさが消費されるという現象が生じている。(243ページ)

広告のずるさ、それはいたるところで市場の論理を《カーゴ》〈貨物船〉の魔術(未開人が夢見る完璧で奇跡的な豊かさ)ですりかえることにほかならない。(251ページ)

われわれはショーウィンドウをのぞくことによって絶えず変化への適応性と社会への順応度をテストされ、誘導された自己投影能力を試されている。(253ページ)

消費と流行のサイクルに入りこむことは、自分の好みに合うモノやサーヴィスに取り囲まれるようになることばかりでなく、自分自身の存在の意味そのものを変えることである。それは、自我のもつ自律性・性格・固有の価値にもとづいた個人的原理から、個人の価値を合理的に減少させ、変動させるコードに従って行われる、ルシクラージュの原理への不断の移行を意味している。このコードが「個性化(ペルソナリザシオン)」のコードであって、これをはじめから身につけているものはいないが、他者との明示的関係においては誰もがこれに頼らざるをえない。ここでは決定の審級としての人格が消滅し、個性化原理が支配的になる。その結果、個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な関係の一項にすぎなくなる。(259ページ)

この自己への他者の内在化と他者への自己の内在化は、際限のない相互関係の過程に従って、社会的地位に関するあらゆる行動(つまり消費の全領域)を支配している。ここには、厳密にいえば、個人的「自由」を持った主体も、サルトル的な意味での「他者」も存在せず、人間関係の各項がその差異的可動性によってのみ意味をもつ「雰囲気」が一般的になっている。(260ページ)

われわれにとって問題なのは、むしろ最適社会性つまり他人や多様な社会的立場や職業とできるかぎり摩擦を起こさないこと(ルシクラージュ、なんにでも適応できる能力)、あらゆるレベルでの社会的移動に順応できることのほうである。どんな場所にも「移動でき」、信頼され、どんな状況にも適応できる能力こそは、ヒューマン・エンジニアリング(人間工学)時代の「教養」である。(260ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 23:46 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その5
文化が永続することを前提として創造される時代は終わった。なるほど、文化は普遍的審級や観念的準拠として維持されてはいるが、文化が実質的意味を失ったためにますますそういうことになるのだ(自然にしても、いたるところで破壊されるようになるまではあれほど礼賛されはしなかった)。(138ページ)

規則的な授賞というシステムは昔はばかばかしいと思われていたのだが、今では状況に応じたルシクラージュや文化の流行の現代性と両立するようになった。かつて、文学賞は一冊の本だけに後世の人びとの注目をひかせようとしたが、それは滑稽だった。今日の文学賞は一冊の本を現代人の前で目立たせればよいのであり、それは効果的である。こうして文学賞は息を吹きかえした。(139ページ)

モノを買うという行為はクイズ番組によく似ていて、今日ではある欲求を具体的な形で満足させるための個人の独特な行動というよりはむしろ、まず第一にある質問に対する解答―――個人を消費という集団的儀式に引きずりこむための解答―――なのである。したがって、購買行動は、モノが常に一連の似かよったモノと一緒に提供され、個人がコンピューターゲームで正解を選ぶのとまったく同じやり方でモノを選択する―――購買行為とは選択であり好みの決定である―――よう催促されるという意味では一種のゲームだということができる。こういう次第で、モノの効用や性能についての直接的な質問ではなく、ほんの少しだけ異なるさまざまなモノ同士の「戯れ」についての間接的な質問に答えながら、人びとは買いものというゲームを楽しんでいるわけだ。この「ゲーム」とそれを成り立たせている選択は、伝統的な利用者と対立する購買者としての消費者の概念を特徴づけるものである。(144ページ)

消費社会、それは地位移動の可能な流動的社会である。幅広い層の人びとが社会的階梯をよじのぼり、ひとつ上の地位に到達すると同時に文化的要求を抱きはじめるが、それはこの地位を記号によって表示したという欲求にほかならない。社会のどのレベルにおいても「上の階層によじのぼった」世代は自分にふさわしいモノのパノプリ[セット]を求める。(153ページ)

ガジェットもまたキッチュと同じテクノロジーのパロディ、無用な機能の徒花的ひけらかし、実際に役立つ内容をもたないでひたすら現実的機能を模擬することにほかならない。このようなシミュレーションの美学はキッチュの社会的機能と奥深いところで結びついている。というのもキッチュは、階級的願望、階級上昇への予感、上層階級分化―――その形式、習俗、差異表示記号―――への魔術的同化を表現するからである。(155ページ)

テレビやラジオという技術的媒体や手段の力を借りて、事実と世界をバラバラに切り離し、断続的に継起するが互いに矛盾しないメッセージ(放送という抽象的次元において他の記号と並んで組み合わせられる記号)とすることこそ、消費の効果である。したがって、われわれがここで消費するのは、あれこれのスペクタクルやイメージそのものではない。想像しうるありとあらゆるスペクタクルが次々と出てくる可能性をわれわれは消費するのだ。しかも番組の継続と切り取りの法則のおかげで、あらゆることが月並みなスペクタクルと記号としてだけ出現するのだという確信をも、われわれは消費している。(175ページ)

マス・メディアの機能は、世界が持っている現実に生きられた―一回限りの―出来事としての性格を中和し、互いに意味を補完しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界を置き換えてしまうことだ。結局、各種のマス・メディアは互いに同じ内容になってしまう。―――これこそは消費社会の全体主義的「メッセージ」にほかならない。(177ページ)

記号を、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子どもやスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。この時、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179ページ)

この意味で、広告はおそらく現代のもっとも注目すべきマス・メディアである。広告は個別的なモノについて語りながら、実質的にはあらゆるモノを礼賛し、個別的なモノや商標を通して総体としてのモノ、モノと商標の総和としての世界について語っているわけだが、同様に個別的消費者を通して全消費者に、また全消費者を通して個別的消費者に狙いをつける。こうして広告は、総体としての消費者なるものをでっちあげ、マクルーハン的な意味で、つまりメッセージの中に、とりわけメディアそのものとコードの中にはじめから伏在している共犯と共謀の関係を通じて、消費者を部族のメンバーのような存在にしてしまう。広告のイメージや文章はその都度すべての人びとの同意を強要する。彼らは潜在的にそれらを解読することを求められている。いいかえれば、彼らはメッセージを解読しつつ、メッセージが組み込まれているコードへの自動的同化を強制されているのである。(180ページ)

それは、矛盾に満ちてはいるが現実的で流動的な経験から生まれたのではなく、コードの諸要素とメディアの技術的操作にもとづいて人工物として生産された出来事や歴史や文化や観念の世界である。このような事態だけがすべての意味作用を消費可能なものとして定義する。(181ページ)

広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果をあげるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者への同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。(中略)[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。(185ページ)

生産性向上のために合理的に搾取されるためには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。労働力が賃金にもとづく支払可能な需要と交換価値に変えられるためには、労働者の個人的自由の形式的原則である自由な意思決定と個人的利益が保証されなければならないのと同じように、欲望の力が合理的操作の可能な記号としてのモノの需要に変えられるためには、個人は自分の肉体を再発見し、自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要がある(形式的快感原則)。つまり解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的過程が擁立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ。
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by tyogonou | 2009-09-16 20:24 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)