カテゴリ:消費社会( 26 )
『消費社会の神話と構造』より その4
モノは、かわりのきかないその客観的機能の領域外やその明示的意味の領域外では、つまりモノが記号価値を受けとる暗示的意味の領域においては、多かれ少なかれ無制限に取りかえ可能なのである。こうして洗濯機は道具として用いられるとともに、幸福や威信等の要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機に取ってかわることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定された機能や欲求にはまったく結びついていない。(93ページ)

すなわち、一方には、欲望が充足させられると緊張が和らいだり消えたりするという合理主義的理論とは到底両立しがたい事実、すなわち欲求の遁走、欲求の際限のない更新という事実を前にして絶えず素朴に狼狽ばかりしている立場があるが、これに反して、欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望であることを認めるなら、完全な満足などというものは存在しないし、したがって欲求の定義もけっして存在しないということが理解できるだろう、と。(95ページ)

消費は享受の機能ではなくて生産の機能であって、それゆえモノの生産とまったく同じように個人的ではなくて直接的かつ全面的に集団的な機能だと考えるのが消費についての正しい見解である。(96ページ)

消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに越えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96ページ)

しかし分配の段階では、財とモノはコトバやかつての女性と同様、人為的で首尾一貫した記号の包括的なシステムを形成する。それは欲求と享受の偶然的世界に取ってかわる文化的システムであり、自然的で生物学的秩序にかわる価値と序列の社会的秩序なのである。(98ページ)

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性を持つ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。(101ページ)

生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである。(102ページ)

消費者の「猛烈なエゴイズム」は、豊かさと安楽な生活についてのあらゆる大げさな賛辞にもかかわらず、やはり彼が現代社会の新しい被搾取者であることについての漠たる潜在意識なのである。このような抵抗や「エゴイズム」がシステムを解決できない矛盾へと導き、システム自身はそれに対して共生を強めることしかできないという事実―――これはひたすら消費が膨大な政治的領域であることを証明している。(107ページ)

消費についてのあらゆる言説は消費者を普遍的人間とすること、すなわち人類の一般的・理想的・究極的な体現者とすることを目指し、さらに消費を政治的・社会的解放の挫折のかわりにすること、またこの挫折にもかかわらずなしとげられるであろう「人間解放」の前提にすることをめざしている。だが、消費者はけっして普遍的存在ではない。彼は政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であって、そのような存在として根本的な歴史的問題を再び提起するのである―――すなわち、消費手段(生産手段ではない)の所有、経済的責任(生産の内容についての責任)などの諸問題である。ここには深刻な危機と新たな矛盾が潜んでいる。(107ページ)

労働力の剥奪による搾取は、社会的労働という集団的セクターにかかわっているのである一定の段階からは人びとを連帯させる。搾取は相対的意味での階級意識をもたらす。消費対象や消費財の管理された所有は個人主義的傾向をもち、没連帯的で没歴史的傾向をもつ。生産者たるかぎりでまた分業という事実によって、労働者は集団の一部である。したがって搾取は万人の搾取なのである。消費者たるかぎりでは、人は再び孤立し、ばらばらに細胞化し、せいぜいお互いに無関心な群集となるだけである(家庭でテレビを見ている人々、スタジアムや映画館の観衆など)。(108ページ)

個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることなく、ある無限定な階梯の上に秩序化していくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。特異性とは、他者や世界との具体的対立関係においてしか生まれないからだ。これこそ差異化の奇蹟でもあり悲劇でもある。こうして消費過程全体は(洗剤の商標のように)人為的に数を減らされたモデルの生産によって支配される。そこでは他の生産部門の場合と同じように独占化の傾向が見られる。差異の生産の独占的集積が存在するわけだ。(113ページ)

ここで問題にしている場合でも、差異の崇拝はもろもろの差異の喪失の上に成り立つのである(114ページ)

このような差異の社会的論理を分析の根本的基軸として決定的に把握し、差別的なものとしての、記号としてのモノの開発(この水準だけが消費を独自的に定義する)がそれらの使用価値(およびそれと結びついた「欲求」)の追放の上に成り立っていることを理解しなければならない。(118ページ)

システムがシステムとして成り立つのは、それが各個人の必然的に相違する固有の内容と存在を取り除き、差異表示記号として産業化と商業化が可能な示唆的形態を代置するからにほかならない。システムは一切の独特な性質を除去して、差別的図式とこの図式の体系的生産だけを残しておく。この段階では差異はもはや排除的ではない。もろもろの差異は違う色が互いに「戯れる」ように流行(モード)の組み合わせの中で論理的に互いに包摂しあうだけではない。社会学的には、ここにあるのは集団の統合を固めるもろもろの差異の交換なのである。このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか、反対に交換用具になる。このことこそ基本的な事実であって消費はこの事実にもとづいて次のように定義される。
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。(121ページ)

ルシクラージュは(精密科学、販売技術、教育方法などにおける)知識の耐えざる進歩にもとづく科学的概念とされている。社会から「脱落しない」ためには誰でもこの進歩に順応するよう努めるのがあたりまえだといわんばかりだ。(135ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 20:23 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その3
しかしながら、消費の領域は、財のみならず欲求や文化の多様な特徴が、モデルとされている集団や指導的エリート層からその他の社会階層へと(これらの階層の「昇進」に従って)移行する、構造を持った社会的領域である。(70ページ)

モノや財と同様、欲求の順序はなによりもまず社会的選択に従う。欲求とその充足とは、記号による距離と差異化の維持という絶対的原則、一種の社会的至上命令によって、下の方へ浸透していく(tricking down)。(70ページ)

ところで、経済成長によって「解放された」(つまり産業システム自身によって、そこに内在する論理的制約に従って生産された)さまざまな欲望が上のほうへ不可逆的に登ってゆくという現象のうちには、それらの欲求を充足させるよう定められた物質的文化的財の生産の力学とは別の固有の力学が存在している。都市における社会化や地位獲得競争や心理的離陸(テイク・オフ)が一定の段階に達すると、人びとの渇望は後戻りできない際限のないものとなり、加速度的に拡大される社会的差異や一般化された相互相対性のリズムに従って増大することになる。(71ページ)

所有するものが少ければ少いほど、望みも減少する(少なくともまったく非現実的な夢想が欠乏状態の埋め合わせをするような段階に達するまでは)。このように渇望の生産過程さえもが不平等なのである。(72ページ)

ところで、生産の増加には限界があるが、欲求の増加には限界がない。社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(73ページ)

流行の完全な独裁に裏付けられたこのエスカレーション、この差異的連鎖反応の描く軌跡が都市である(この過程は逆に田園や都市周辺地域での急速な文化変容によって都市への人口集中を強めるのであって、不可避的な現象である。この現象を阻止できると思うのは単純素朴な見解だ)。人口密度の高さはそれ自体としては魅惑的だが、都市の言説とはまさしく競争そのものである。動機、欲望、出会い、刺激、耐えず耳に入ってくる他人の意見、いつも興奮させられている性欲、情報、宣伝の誘惑、これらはすべて普遍化された競争という現実の基盤の上で、集団的参加という一種の抽象的運命となる。(74ページ)

財を生産する社会である前に、この社会は特権を生産する社会なのである。そして特権貧困との間には、社会学的に規定しうる必然的な関係が存在する。どんな社会においても貧困を伴わない特権は存在しない。両者は構造的に結びついている。したがって、成長はその社会的論理からして、逆説的にではあるが、構造的貧困の再生産によって定義されるわけである。この貧困は第一次的貧困(の希少性)とはもはや同じ意味をもたない。後者のような貧困は一時的なものと見なされるし、現代社会では部分的には吸収されている。しかし、この種の貧困に取ってかわる構造的貧困の方は決定的なものとなる。なぜなら、それは成長の秩序の論理自身のうちに成長へと駆り立てる機能として、権力の戦略として体系化されているからである。(76ページ)

未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。それは、自然や土地や道具や「労働」の生産物のいかなる独占も、交換を封じ込めたり希少性を生み出したりはしないという事実である。常に権力の源泉となる蓄積は、ここには存在しない。贈与と象徴的交換の経済においては、ほんのわずかの、常に有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人びとから他の人びとへと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人びとの間の具体的交換のなかに生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人の間でも、交換の度ごとに価値が付与されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。未開社会の交換の場合には、それぞれの関係が社会の富を増加させるのだが、原題の「差別」社会では逆に、それぞれの社会関係が個人の欠乏感を増大させている。というのは、所有されたモノはすべて、他のモノとの関係において相対化されるからである。(未開社会の交換の場合には、モノは他のモノと関係をとり結ぶことによってこそ価値あらしめられるのだ)。(78ページ)

消費者の行動をわれわれが社会現象と見なすようにあるのは、選択という行為がある社会と他の社会では異なっていて同じ社会の内部では類似しているという事実が存在するからである。これが経済学者の考え方と異なる点である。経済学者のいう「合理的」選択は、ここでは一様な選択、順応性の選択となった。欲求はもはやモノではなくて価値をめざすようになり、欲求の充足はなによりもまずこれらの価値への密着を意味するようになっている。消費者の無意識的で自動的な基本的選択とは、ある特定の社会の生活スタイルを受け入れることなのである(したがってそれはもはや選択とはいえないのだ!―――消費者の自律性や主権についての理論はまさにこのことによって否定される)。(82ページ)

だから真なる命題は「欲求は生産の産物である」ではなくて、「欲求のシステムは生産のシステムの産物である」なのである。この二つの表現はまったく別のものである。欲求のシステムとは、欲求がモノに応じて個別に生まれるのではなく、消費力おして、生産力のより一般的な枠内での全面的処分力として生産される現象のことであって、テクノストラクチュアはこの意味において自己の支配力を拡大するということができる。(90ページ)

個別に切り離された欲求はに等しく、欲求のシステムのみが存在するのだということを、あるいはむしろ欲求は個人の水準での生産力の合理的システム化のより進歩した形態(その場合「消費」は生産の論理的かつ必然的中継地点となる)にほかならないということを、彼らは理解していないのである。(91ページ)
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by tyogonou | 2009-09-15 22:09 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その2
これまでのすべての社会は、いつで絶対的必要の限界を超えて、浪費と濫費と支出と消費を行ってきたが、それは次のような単純な理由によるものだ。つまり、個人にせよ社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することが出来るからなのである。(39ページ)

合理主義者や経済学者が作った効用という概念は、もっと一般的な社会の論理に従って見なおされなければならない。この論理では、高度の社会的作用として合理的効用の概念と交代しつつ積極的な機能を果し、ついには社会の本質的機能と見なされることになる―――支出の増加、余剰、儀礼的で無駄な「役に立たない出費」等は、個人的領域でも社会的領域でも価値と差異と意味とを生産する場所となるだろう。この見通しのかなたに、消耗としての、集団的浪費としての「消費」の定義が浮かび上がってくる―――必要性と貯蓄と計算のうえに成り立つ「経済学」とは逆の見通しである。そこでは、余剰が必需品に先立ち、支出が(時間的にではないにしても)価値において蓄積と取得に先立つのであろう。(40ページ)

ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、このもくてきとは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(45ページ)

消費が理想とする幸福とは、まず第一に平等(あるいはもちろん区別)の要請であり、そのために常に目に見える基準との関係で意味をもつべきものなのである。この意味では、幸福はあらゆる「祭り」や集団的高揚からはなおはるかに遠いところにある。というのは、平等主義的要請に裏付けられたこの幸福は、各個人に幸福への権利をはっきりと認めるフランス革命の人権宣言によって強化された個人主義的諸原則の上に成り立っているからである。(49ページ)

平等の神話では、「欲求」の概念が福祉の概念と結合している。「欲求」は安心感を与える目的に満ちた世界を描き出し、その自然主義的人間学は普遍的平等を約束するが、そこには次のような説が暗示されている。すべての人間は欲求と充足の原則の前で平等である。なぜなら、すべての人間はモノと財の使用価値の前で平等だからだというわけである(ただし交換価値の前では不平等であり反目しているが)。欲求は使用価値に応じて定められるのだから、ここにあるのは、その前では社会的・歴史的不平等がもはや存在しないような客観的効用または自然的合目的性の関係である。使用価値としてのビフテキを前にしては、プロレタリアートも特権階級もないのである。(50ページ)

成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。別のいい方をすれば、技術的・経済的成長の内在的自律性は、社会構造によるこの規定性と比べれば、微弱で二次的なものに過ぎない。(56ページ)

全体としてみれば、成長の社会は、民主主義の平等主義的原則(それは豊かさと福祉の神話によって支えられている)と特権と支配の秩序の維持という根本的至上命令との妥協から生じている。技術の進歩が成長の社会をつくったのではない。(56ページ)

(二) システムは不均衡と構造的窮乏によって生存し、その論理は偶然にでなく構造的に両義的であることを認め、システムは富と貧困を同時に生み出し、充足と同様不満を、進歩と同様公害をも生み出すことなしには存続できないと考える立場。システムの唯一の論理は生き残ることであり、この意味でのシステムの戦略は、人類の社会を不安定な状態、耐えざる欠損の状態に保つことなのである。生き残り復活するためにシステムが伝統的に戦争を強力な手段としてきたことは良く知られているが、今日では、戦争の機構と機能とは日常生活の経済システムと機構のなかに組み込まれてしまっている。(59ページ)

「きれいな空気への権利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって、資本主義システムの進歩にすぎないものを、客観的な社会の進歩(モーセの律法表に刻まれるような「権利」)ととりちがえてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に生産形態、つまり(一)、経済的利潤、(二)、社会的特権の源泉へと変質することなのである。(64ページ)

そのおびただしい数、そのさまざまな形態、流行の作用、さらにはその純然たる機能を越えたあらゆる性質によって、モノは今なおひたすら社会的価値(地位)を装う。(66ページ)

以上の事実は、したがって、欲求と豊かさの形而上学を超えて、消費の社会的論理についての真の分析をわれわれに指示する。この論理は、財とサーヴィスの使用価値の個人的取得の論理―――奇蹟への権利をもつ者と奇蹟から取り残された者とが存在する不平等な繁栄の論理―――とはまったく別のものであり、欲求充足の論理でもない。それは社会的意味するもの(シニフィアン)の生産および操作の論理である。この視点に立つと、消費過程は次の二つの根本的側面において分析可能となる。すなわち、(一)、消費活動がそのなかに組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味づけとコミュニケーションの過程としての側面。この場合消費は交換のシステムであって、言語活動と同じである。このレベルでの消費の問題に取り組むことは構造分析によって可能なのだが、この点については後でまた触れることになろう。(二)、分類と社会的差異化の過程としての側面。この場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキーの中の地位上の価値と指定秩序づけられる。ここでは、消費が戦略的分析の対象となり、知識、権力、教養などの社会的意味をもつものと共に地位を示す価値として特定の比重を決定される。
分析の原則はやはり次のようなものである。人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(67ページ)
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by tyogonou | 2009-09-15 00:29 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その1
今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系(エコロジー)に根本的な変化が生じている。すなわち、豊かになった人間たちは、これまでのどの時代にもそうであったように他の人間に取り囲まれているのではもはやなく、モノによって取り巻かれている。人間たちの日常的な交渉は、今ではこれまでと違ってむしろ統計的に増加曲線を描く財とメッセージの受け取りと操作となっている。(11ページ)

相手として組み合わされる他のモノとまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。このために、モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。(14ページ)

衣類とさまざまな器具と化粧品とはこうしてモノの購入順序を作り上げ、消費者の内部に抵抗し難い拘束を生じさせる。消費者は論理的にあるモノから他のモノへと手を伸ばし、モノの計略に陥ってしまうだろう。これは、商品の豊富さから怒る購買と所有の幻惑とはまったく別のものなのである。(14ページ)

快適さと美と効率のこの結びつきの中に、パルリー2の住民たちはわれわれの無政府的な都市が拒否している幸福の物質的諸条件を発見するのである・・・・・(19ページ)

われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる。そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、総てが安易にそして半ば無自覚的に消費される。(19ページ)

それは技術のおかげなのだが、技術は社会的現実原則そのもの、つまりイメージの消費にたどりつく生産の長い社会的課程を、消費者の意識から消し去ってしまう。その結果、テレビ視聴者もメラネシア人も、何かを手に入れることを奇跡的効果をもつやり方でだましとることだと思うのである。(22ページ)

夢の国の幻覚に取り囲まれ繰り返される広告に説得されて、自分たちには豊かさへの正当な、譲渡できない権利があるのだと思いこんでいるのにもかかわらず、消費者大衆は豊かさを自然の結果として受けとっているのではないだろうか。消費への素朴な信仰は新しい要素であり、今後は新しい世代がその相続人である。彼らは財産だけでなく、豊かさへの自然権をも相続する。こうして、メラネシアでは衰えつつある貨物船(カーゴ)の神話が、西欧では再び蘇えろうとしている。なぜなら、たとえ日常的で月並みになったとはいえ、豊かさは歴史的社会的努力によって生み出され、もぎとられ、獲得されたものとしてではなく、われわれ自身がその正当な相続人である好意的な神話的審級、つまり技術、進歩、経済成長等によって分配されたものとして現れ、この限りにおいては、やはり日常生活の奇蹟となっているのだから。(23ページ)

われわれの社会が何よりもまず、客観的にそして究極的に生産の社会、生産秩序、つまり政治的経済的戦略の場所だというのではない。そうではなくて、記号操作の秩序である消費秩序が生産秩序と混ざりあっている、という意味である。この範囲では、魔術的思考についても(大胆ないい方かもしれないが)同じことがいえる。なぜなら、どちらも記号によって記号に守られて存在しているからだ。現代社会のますます多くの基本的な面が、意味作用の論理や記号と象徴的体系の分析の領分に属するようになっている―――だからといって現代社会が未開の社会だというわけではなく、これらの意味作用とコードの歴史的生産という問題が手つかずのまま残されている。もちろん、この分析はその理論的延長と同様に、モノと技術の生産過程についての分析に結びつかねばならない。(23ページ)

よく知られているように、魔術的思考は自らつくりだした神話のなかで変化と歴史とを祓いのけることを狙っているが、ある意味では、イメージや事実や情報によって一般化された消費も、現実の記号によって現実を祓いのけ、変化の記号によって歴史を祓いのけることを目的としているといえよう。(24ページ)

消費社会の特徴は、マス・コミュニケーション全体が三面記事的性格を帯びてくることである。政治的歴史的文化的なあらゆる情報は、三面記事という当たりさわりのない、しかし同時に奇蹟を呼ぶような形式で受け入れられる。これらの情報はまったく現実的なもの、つまり目につきやすいように劇的にされ、と同時にまったく非現実的なもの、すなわちコミュニケーションという媒介物によって現実から遠ざけられ記号に還元される。(25ページ)

メッセージの内容、つまり記号が意味するものは全くといっていいくらいどうでもよいものだ。われわれはそれらの内容にかかわりをもたないし、メディアはわれわれに現実世界を指示しない。記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費することを、われわれに命じるのである。消費の実践を定義しうるのは、この点においてである。現実世界、政治、歴史、文化と消費者との関係は利害や投資=備給(アンヴェステイスマン)や責任の関係ではなく、また完全な無関心の関係でもない。それは好奇心の関係である。同様の図式に従えば、われわれがここに定義したような消費の次元は、世界についての認識の次元ではないし、完全な無知の次元でもない。それは否認の次元である。(26ページ)

消費社会は、脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲しているのだ。これが消費社会のイデオロギーである。(29ページ)
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by tyogonou | 2009-09-15 00:26 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その12
ボードリヤールは、ある意味で消費社会とは人間が疎外されることすらなくなる社会だと論じている。
彼は古典的な社会的疎外のあり方を古い映画を例に次のように説明している。
ある貧乏学生のもとに悪魔が現れ、大金で鏡の中の姿を売らないかと持ちかける。学生は応じ、その金のおかげで成功を収める。ところが、悪魔が鏡の中の姿に魂を吹き込んで放った自分の分身が自分の周囲をうろつき始め、自分のすることを先回りして自分の代わりに行い、それを悪事にしてしまう。ついには殺人を犯し、学生は追い詰められる。ある日、部屋に来た分身を学生は撃ってしまう。その瞬間鏡は割れ、分身は消え去るが彼自身も死ぬ。断末魔の苦しみの中で鏡の破片を拾うと、昔のように自分の姿が写るのを知る。
鏡の中の自分の姿は、自己証明(アイデンティティ)の根本であるが、それを「金と引き換えに」手放し、それが自分ではなく他者となると、人はアイデンティティを失い、阻害される。
ところが、消費社会になるとショーウィンドウが鏡に取って代わり、そもそも人が自分の姿を鏡に映して自己を確認すること自体がなくなるという。
そこでは個人が自分自身を映して見ることはなく、大量の記化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中に吸いこまれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものを描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。

だが、21世紀の日本に生きる私たちから見れば、事情はもう少し微妙に見える。
疎外された人間とは、衰弱し貧しくなったが本質までは犯されていない人間ではなく、自分自身に対する悪となり敵に変えられた人間だという事実である。
ボードリヤールはこういった超越性の神話自体が失われたと論じているが、私たちがたどってきたのは、そうではなく、鏡の中の自分が、自分自身を超える善となりヒーローやヒロインに変えられてきたということではないだろうか。自分の分身が、自分より美しく、利口で、素行もよく、あらゆる点で「イケてる」自分として行動しだしたとき、自分は、自分の分身のできの悪い分身と化してしまう。これは21世紀の日本に生きる私たちにはリアリティのあるイメージだと思う。
鏡の内と外を超えた悪魔という超越的他者はいなくなったかもしれないが、鏡はまだそこにある。私たちは、自分がその中に存在している社会を見、知るために頻繁にそれを覗き込む。私たちは新しい服を買うたび、あるいはボードリヤール的にはより上の階級に属する印となるようなモノを手に入れるたび、私たちはその鏡を見てより美しくより上流に近づき輝きを増す自分の姿に歓喜する。だが、鏡の中の自分がどんどん輝きを増すにつれ、鏡の外のこちら側の世界はどんどん暗くなっていく。どんな美しい服も、手にとってはどのようなものか見ることができない。それを着て鏡の前に立って(すなわち記号の体系の中に置いて)初めてその美しさを楽しむことができる。他者もまたそのような存在として現れる。私たちは皆で鏡の前に立つことでお互いを認識するが、すぐとなりにいるはずの他者は暗闇の中、見ることも触れることもできない。時に鏡の中で魅力的に見えた他者が、醜悪な本性をもっていたなどということがわかると、私のとなりに存在している他者とは、信用のならないひどく不安な存在となる。
そして、そういった他者の不確かさは自分自身の不確かさへとつながっていく。鏡の中にはっきり見える自分と、他者に直接認識されない鏡の外の透明な自分とどちらが本当の自分なのか。
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by tyogonou | 2009-07-08 00:50 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その11
このような差異の社会的論理を分析の根本的機軸として決定的に把握し、差別的なものとしての、記号としてのモノの開発(この水準だけが消費を独自的に定義する)がそれらの使用価値(およびそれと結びついた「欲求」)の追放の上に成り立っていることを理解しなければならない。(『消費社会の神話と構造』118頁)
ボードリヤールの主張は分からなくも無い。ブランド物の腕時計を考えてみれば、そこから時刻を知るという使用価値が追放されていて、それゆえにステータス・シンボルとなりうるのだといえる。私達との直感とも符合する。

しかし、ソシュール的な見方によればこれはちょっとおかしい。シニフィアンとシニフィエはそれぞれが他と潜在的な差異を内包していて、それが結びついてシーニュとなって初めて差異は確定したものとして現れるのだから、使用価値の追放は、論理的には差異の消失を導くはずだ。使用価値を失ったブランドものの腕時計は、他の腕時計との差異を失う。つまり、「腕時計」というモノが作り上げる記号の体系を編む力を失っていく。そして、そこにはただ、交換価値のみで存在しうる唯一の存在、即ち貨幣との差異=価格のみが残る。
使用価値を追放した「モノ」は記号の体系などつくれはしない。それはただ価格差の序列をつくるのみである。それは体系などといえるものではなく、消費社会の神話もまた消え去ってしまう。わたしにはそれが消費社会の後に来る社会であるように思われる。

モノの交換価値と使用価値という観点から社会の変遷を見ると、図Ⅴのようになるだろう。

前産業時代
① ものが記号化されていない時代
産業時代
② 企画によって実在的自己同一性を獲得したものと、それを指し示す商品名が結びつき、「モノ=記号」に
③ 「モノ」と「モノ」とが差異を生む
消費社会
④ 多くの「モノ」たちが互いの差異をもとに記号の体系を形作る。消費社会の神話の確立
⑤ 他の「モノ」との競争の中で、一部の「モノ」は交換価値を増大させ、使用価値を切り離しさえする。
ポスト消費社会
⑥ 使用価値が追放され、「モノ」は差異を失う
⑦ 単なるシニフィアンと化した「モノ」は「貨幣との交換価値=価格」によってのみ記述される。神話の消失。
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by tyogonou | 2009-07-03 23:59 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その10
図Ⅱ-③というような交換価値のみをもつモノの存在状態をボードリヤールが仮定したのは理由のないことではない。モノが使用価値を解き放たれない、使われないまま破壊され廃棄される、すなわち「浪費」されるとき、たしかにモノはそういった存在でありうる。バブルについていえば、それが崩壊したのは土地が破壊、廃棄の不可能なものであるからだといえるだろう。それが、たまごっちやスニーカーのような浪費可能なものであれば、バブル崩壊という急激な景気の悪化はもたらさなかっただろう。しかし、逆に言えば、本来浪費できないものが、浪費可能であるかのような幻想をもたれたからこそ価値の爆発的な急上昇が起こりえたのだが。
さらに、人間がそのような存在となった場合にも同じことがいえることを忘れてはならない。人間のシニフィアン化の先には、自己破壊が待っているのだということを。
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by tyogonou | 2009-07-03 00:03 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その9
経済成長を「もの」財やサービスの未成熟な交換価値を解き放つことだと解釈するとどんなことがいえるだろうか。

今の日本の状況について例えばひとついえることは、人間のシニフィアン化にまだ解発の余地があるということがいえると思う。
労働力も1つの商品であり、また、日本でもある程度シニフィアン化の過程が進んできていることは理解できるだろう。新旧二つの労働形態、使用価値に重点を置くものと交換価値に重点を置くものとを分かりやすく表現するなら、帰属型の労働と契約型の労働と言えるだろう。昔は会社員なら会社に帰属するものであったが、今はトヨタの派遣社員からGM(日本ではないが)のCEOに至るまで、会社と社員は契約によって一時的に(期間の長短はあっても)結び付けられているにすぎない。
問題は、市場に労働力を提供する側の家庭が契約型ではなく帰属型のままだということだ。契約型の労働環境で生き、自分の交換価値を高め、より高い値を出す企業の契約を望む人間にとって、結婚して家庭に「帰属」することは、その契約の選択の自由を損なうリスクになるし、また職場と家庭のそれぞれで必要な意識に齟齬ができてしまう。契約型の家族の良し悪しはまた別に考えなければならない問題ではあるが、欧米などに比べれば、そういったリスクを減らし齟齬を埋めるために、法制度のうえでも人びとの意識の上でも、家族についての考え方を変えることで、より消費に適応した(それでいて反道徳的とまではいかない)社会となる余地がある。社会が、例えば、若い女性が未婚の母という道を選択したり、夫婦が離婚、再婚を選択したりするにも、あるいはそういった親の元で子供達が成長するにも、障害が少なく、不利益を受けないようなものになれば、今よりも統合された効果的な消費社会になりうるだろう。
おそらく、それは景気を上向かせる効果があるだろう。

こういった提言には反発も多いだろうが、もちろんこれは「消費社会として」今より発展するにはという問題に対するひとつの回答である。そもそも「消費社会としてありつづけるべきか」という問題は別に考えなければならないが、そこを考えると、伝統的な家族観の破壊といった問題よりずっと深く困難な問題に直面する。

『消費社会の神話と構造』においてボードリヤールが告発した消費社会における人間の「疎外」のひとつの形は、「わたし」がシニフィエを持たないシニフィアンとなり、何かを意味しようとしながら果たせず自らに戻ってくる図Ⅱ-③のような状況になるというものだ。彼はその簡潔な表現としてブラジャーの宣伝文句を引用している。「あなたが夢見る肉体、それはあなた自身のからだです」そこではシニフィエ=意味される私が失われてしまっている。

私はさらに二つの「疎外」について指摘できると思う。
ひとつは上記のものを逆から見たに過ぎないのだが、「わたし」の利用可能性がわたしに閉ざされてしまう、ということ。分かり難い表現だが、レヴィー=ストロースのインセスト・タブーの考え方と同じことだ。野卑な表現をすれば「売り物に手をつけるな」ということだ。「わたし」が交換価値を持つと、それは自分の好き勝手にしていいものではなくなってしまう。分かりやすい例を挙げれば、警官として勤務中の「わたし」は例え自分自身望んでいたとしても酒を飲むことはできない、そういうことだ。その程度であれば問題はないが、「わたし」を形作る様々な要素がどんどん記号化されていけば、やがて、「わたし」自身が私のものではなくなってしまう。
ふたつめ。ボードリヤールは、人間の全体性が失われ「使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、切り離された機能として客観化され(224頁)」てしまうと論じた。本来図Ⅱの④のようであるべき人間が、①のように分離してしまうということだ。わたしは別の形の「全体性の喪失」を考えるべきだと思う。
古い人間のイメージは、「わたし」は多様な属性を内に含みながらも確固とした自己の枠によって他者と区別され対面する存在だと言えよう。(図Ⅲ)
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それに対し、消費社会における人間のイメージは図Ⅳの様になる。「わたし」の中の様々な要素が交換価値を付与され記号化すると、それらは第一に他者のそれとの関係の中に位置づけられ、それらを自己へと統合する力はきわめて弱くなってしまう。
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by tyogonou | 2009-07-02 00:16 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その8
交換価値だけのモノというものはソシュールの記号論ではありえないのだが、貨幣はまさにそういうものである。貨幣が消費社会において果たしてきた役割を考えれば、やはりボードリヤールは無視できない。

ボードリヤールは、経済成長を社会階級間のダイナミクス、すなわち上の階級に追いつこうという欲求と下に追いつかれまいという欲求によってもたらされるものと見た。しかし、私は使用価値だけの「もの」に交換価値が付与される②→③というプロセスこそが経済成長の本質だと思う。当たり前のようではあるが、②→③というプロセスは、ものの価格、貨幣との交換価値を上げる。それがもともと交換価値を全く持っていないものであったなら、それはあたかも深海から空中へと飛び出す潜水艦のように急激な上昇を見せる。日本のバブルはまさにそうだった。
バブル以前、日本人にとって土地とは、記号的な意味(「田園調布に家が建つ」)をもってはいたが、そうそう簡単に交換(取引)に出されるものではなく、先祖代々(あるいは自分が手に入れたら少なくとも自分の第一代は)そこに住んだりそこで商売したりして使い続けるものだった。それが、交換的価値をもつモノへと急激に変容し、時に全く使用されることのないまま次の交換に出され(転がされ)、まるでそれ自体が貨幣でもあるかのようでもあった。
しかし、土地は貨幣とは異なる。いつまでも更地で使用されることがない、さらに周囲の土地も同様、そんな転がされるだけで使用価値のない土地は、いうなれば「火星の土地」同様、大した交換価値をもってはいない。交換している側がそのことに気づいたとたん、土地はおそらくもとの②の状態にまで一気に値を下げた。バブルの崩壊とは即ち交換価値の消失である。
ボードリヤールの成長の見方ではバブルの成長は説明できてもその崩壊は説明できないが、彼のより一般的な消費の見方ではこのように説明が可能になる。
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by tyogonou | 2009-06-29 00:18 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その7
今まで見てきたソシュールの記号論の全体を図にしてみると次のようになる。(クリックすると別ウィンドウで拡大)
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それに対して、ボードリヤールがシーニュ、シニフィアン、シニフィエをどのように見ているか、あるいはその消費社会的表現である「モノ」がどう「ある」と見ているのかは次のように図示できる。
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すべての宣伝には意味(サンス)が欠如している。宣伝は意味作用(シニフィカシオン)を伝達するだけである。宣伝の意味作用(およびそれが引き起こす行動)はけっして個性的なものではなく、まったく示差的であり、限界的(マージナル)で組み合わせ的である。つまり、宣伝の意味作用は差異の産業的生産に由来している。この事実こそ消費のシステムをもっとも協力に定義づけるものといえよう。(『消費社会の神話と構造』112頁)
ソシュール的に理解すれば、ラングという構造の中でシーニュの関係が意味を生み出すものであるから、これは奇異な主張である。下図に示したようにボードリヤールは、モノの使用価値を味わうことが「意味」であると見ているようである。また、既に指摘したようにシニフィアンとシニフィエを独立して存在しうるものと見ているようでもある。(もちろん、言語行為と消費活動とを完全に同一視することが可能かどうかは話が別だし、ボードリヤール自身、シーニュの全体性の破壊がもたらすシニフィアンとシニフィアンの分離について論じてもいる。)

ボードリヤールのモノについての考え方をざっと見てみよう。
消費社会以前、私達人間が使う「もの」は、それこそチンパンジーがアリ塚からアリを吊り上げる棒のように、使えればよい=使用価値さえあればよいものだった。それが宗教的、呪術的な装飾を施されることなどはあっても、他の「もの」との交換において有利になるように、シニフィアン(交換価値)が付与され操作されることがいわば制度化されたのが消費社会である。それはのように、交換価値と使用価値と両方とも含んでいるのが健全な形であるが、ボードリヤールは現代社会にシニフィアンにシニフィエが吸収されるような「混同」があると論じている。
第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードの収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。(中略)すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(『消費社会の神話と構造』178頁
ものの使用価値が失われその「意味」を失い、差異のみによってアイデンティファイされる「モノ」が操作されるだけの社会、それこそボードリヤールの消費社会の核心的なイメージである。
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by tyogonou | 2009-06-28 15:20 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)