カテゴリ:消費社会( 26 )
消費社会 その6
シーニュはポジティブ(実定的)だとはいっても、それはラングという構造のなかにおかれて初めてポジティブな価値を持つ。

このことを理解するには、次のような例を考えてみると良い。
茶の湯で使われる茶碗に井戸茶碗というものがある。井戸茶碗とは、もともと朝鮮半島で庶民が食事に使った安物の生活雑器だが、茶人達に珍重され茶碗の最高峰と言われるまでになったものだ。言ってみれば百円均一ショップに山積みになっている茶碗が、他所の国で国宝になってしまったようなものだ。この価値のギャップをどのように考えればいいのか。朝鮮半島の人々が良い茶碗を作る腕を持ちながら、見る目がなかったと考えるべきなのか(日本の浮世絵についてそういった見方をする人もいるのではないか)、あるいは、もともと価値なんかないもの金の使い道を知らない物好きたちが値を吊り上げただけなのか。
どちらも違う。井戸茶碗の価値は、それが他の茶碗、他の茶道具などとともに茶の湯という体系の中に位置づけられたことで初めて定まったのだ。それは単に素朴な味わいがあるから価値があるというのではなく、天目茶碗や楽茶碗などとは違う味わいがあるところに価値がある。
忘れてならないのは、楽茶碗の方の価値も、井戸とは異なる味わいがあるところにあるのであって、つまり価値は絶対的な基準によって決まるのではなく、お互いがそれぞれの価値を定める基準となる相対的なものだということだ。茶碗の価値は、物理的な存在としてのそれを特徴付ける要素によって決まるのではない。井戸茶碗の場合は大きいほうがより価値が高いとされるし、そもそも穴があってお茶が漏ってしまうようでは茶碗としての価値はゼロだが、それであっても価値はそこから生じてくるものではない。お茶が入る、あるいは飯がたっぷり入る、持ちやすい大きさで頑丈で・・・茶の湯の茶碗の価値は明らかにそういった使用価値を越えている。
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by tyogonou | 2009-06-25 23:04 | 消費社会 | Trackback(1) | Comments(0)
消費社会 その5
ボードリヤールが援用したソシュールの記号論をざっとおさらいしてみる。(とはいっても簡単に説明するのは困難な作業だが)

ソシュールを理解するためにはまず、二つの混沌について押さえるところからはじめよう。
1つは私達の外にあって、私達の言葉によって指し示される外在的世界。もう1つは私達が言葉を発する時にもっぱら使用する音声。
どちらも混沌としていないじゃないか、といわれるかもしれない。町を歩けば男の人や女の人、子供達に、犬に猫にからすがいて、家々とそれを囲む塀、道路には車が通り、電信柱に道路標識、看板などが立ち並んでいる。整然としているか雑然としているかの差はあっても、ちゃんと秩序だっていて混沌としているようなところなどない。音声だって同じ、混沌としているなら50音から勉強して出直せと。確かにどちらの秩序も自明のことのように思われる。
だが、虹を考えてみよう。外在的な現象として私達の目に飛び込んでくる虹の多様な色も、それを表す語彙もちゃんと秩序だっているように思われる。しかし、私達が「赤 橙 黄 緑 青 藍 紫」の七色で区別する虹の色も、文化によって2色にしか区別されなかったりする。 また同じ色数でも、日本語の「赤」とそれに対応する外国語の単語が示すものの範囲が同じとも限らない。ただいえることは、虹には異なる色みが含まれているということ。それをどう区別するかは、見る人間によるのであって客観的に正しい区分が秩序だって存在しているのではない。
音声も同じ。外国語をちょっと習えば「あ」と「え」の中間の音、といった50音にない音もある。日本語ではおなじ「ん」の音でも、中国語では "n" "ng" という区別がある。日本人でも「ナンナンナン・・・」というときの「ン」は前者、「ンガンガンガ・・・・」というときの「ン」は後者の音に近い音を出せるが、日本語はそれを区別しない。声帯と口、鼻、舌や唇、歯などを使って人間が出せる音声は多様にあるが、「あ」の音、「い」の音、「う」の音、といった秩序がその音声の中に自ずから存在しているわけではない。
外在的世界も音声も、内にたくさんの差異を含んだ混沌なのである。
ソシュールはこの二つの混沌が接し、干渉しあう中で両者に含まれた差異が一体化して記号となり、そこで初めて秩序が生まれると考えた。
外在的世界をシニフィエ、音声をシニフィアン、記号をシーニュと呼ぶ。他に、言語行為をランガージュ、体系化された記号による言語をラング、シニフィエと似ているが微妙に異なる「指向対象」をレファランと呼ぶ。

シーニュ(記号)=シニフィアン(記号表現、意味するもの)+シニフィエ(記号対象、意味されるもの)

重要なのは、シニフィアンとシニフィエはともにネガティブ(否定的)であるということ、つまり、「あか」というシニフィアンは「あお」でも「くれない」でも「しゅ」でもないとしか言えず、それが指すシニフィエも同様であるということだ。赤というシーニュがポジティブ(実定的)に「赤とはこういうものだ」といえるのは、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、二つの否定性が結びつくことで可能になる。
シニフィアンとシニフィエのネガティビテ(否定性)はもう1つ重要なシーニュの「恣意性」という概念を導く。色とは光の波長の違いによって認識されるものだが、その波長をどこで区切ろうが、それをどういう名前で呼ぼうが、人間の勝手である(客観的に決まっていない)ということだ。あるいは、それは言語を使用する人々の間の単なる「約束事」にすぎない、といえる。記号としては特殊な例だが自動車のパッシングを考えてみよう。右折しようとしているとき、対向車がパッシングしてきたら、多くの場合「お先にどうぞ」という記号だが、地域によって全く逆に「先に行くからまだ曲がるなよ」という意味で使われる場合もある。どちらが正しいかは自明のことではなく、ただ相手のドライバーの文化的背景のみが根拠である。なにかを伝えたいと思えば、なにか通常とは異なる(差異のある)行為を思いつけば、どんなことでも自由に表現できる。対向車線で速度違反の取締りをやっている!、向こうから来た車に教えてあげよう、相手の注意を引くには・・・パッシングだ、というように。自分の肯定的な印象を表現したいが、ナウいでもイケてるでもかわいいでもない・・・といったところから新しい表現が出てくるわけだ。

ボードリヤールの問題点は、この差異、否定性、恣意性という概念が悪いことのように捉えられていることだ。むしろ、そういった特徴は人間の精神生活、文化を豊かにしてくれるものと考えるべきだ。
先程レファランという用語を挙げた、その説明にもなるのだが、あるホモサピエンスの個体に対して(レファラン)、「父」「親父」「パパ」といったシーニュが存在する。それらは、同じレファラン=指向対象に対して使われるがそれぞれが別のシニフィエを持っている、つまり「親父」と「パパ」とでは意味がちょっと違う。ひとつの事物(レファラン)を様々な切り口(差異)によって捉えることができる、ということはその事物との関係が豊かであるといえるだろう。
また、そういった記号を使いこなすことによって、私たち人間ははじめて混沌とした外在的な事物を利用することができるということも忘れてはならない。動植物にまったく興味のない人間がいきなり大自然のなかに放り出されたら、「なんや分からんいろんな草や木がボーボー生えてるけどどうしたらええんや」と途方にくれるだけだが、そういった草木を言語によって秩序だって認識できる人間にとっては、いろいろ利用できる宝の山となりうる。

ボードリヤールはソシュールの記号論を経済の分析に適用することで、私達の理解を確かに深めたといえるだろう。ボードリヤールは記号化された商品やサービスをモノ(オブジェ)と表現したが、それを先程のシーニュの図式に当てはめると、次のような表現も可能である。

モノ=交換価値+使用価値
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by tyogonou | 2009-06-24 00:13 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その4
ボードリヤールは(特に景気のいい時の)社会の先鋭的な部分を考察する時には確かに役に立つように思われるけれども、景気が悪化する局面を考える時であるとか、あるいは社会全体を見回そうというときには、少し行き過ぎのような感じも受ける。また、ボードリヤールといえば、ペシミスティックでニヒルで暗いというのが衆目の一致したところであるが、そういわれる由縁となっている「差異の消費」というアイディアの元となっているソシュールには全くそんなイメージが付きまとっていないということを考えれば奇妙なことである。
こういった事態を引き起こしている原因のひとつは、ボードリヤールがソシュールを正しく理解していないところにあるのではないかと私は思う。
ソシュールとボードリヤールとでは、研究の対象が言語と経済とで異なっているし、ボードリヤールはソシュールを援用してマルクスを乗り越えようとしたわけだから、ソシュールに完全に忠実でなければならないというわけでもないだろう。しかし、ボードリヤールが犯している「間違い」はほかにも多くの人が犯しがちなものであるし、また、そこをソシュールの主張に沿ったところから出発して消費社会論を編みなおしてみるというのは試してみる価値のある課題のように思われる。
(消費の社会的論理とは、)社会的意味を持つもの(シニフィアン)の生産および操作の論理である。(『消費社会の神話と構造』62頁)
意味するものと意味されるもののあいだには存在論的分裂ではなく論理的関係があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。(『消費社会の神話と構造』303頁)
記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ
これを言いなおすと、「記号とは、シニフィアンとシニフィエが結びついたものである」となる。
ところで、うっかりしやすいのは、この「結びついた」という部分だ。これを”シニフィアンというものと、シニフィエというものとが、まずどっかにあって、それがあとからくっついて、記号とよばれるものになった”などと理解してしまうと、ソシュールの言いたかったことと正反対になる。
(中略)
シニフィアンとシニフィエは結びつきを解かれたとたんに、どちらも空中にかき消されてしまうのである。(『はじめての構造主義』50頁)
混沌の中に埋もれているシニフィエと、人が明確な意図を持って作る製品とは必ずしも同じではないかもしれない。しかし、ボードリヤールがシニフィアンを単独で存在し操作されうるものとしているのは、誤りである。それは後にオリジナルのないシミュラークルの円環といったよりペシミスティックな概念へとつながっていく。
とはいえ、だからボードリヤールは役に立たないなどと考えるべきではない。「絶対とか相対とかいった対立を超えた真の絶対性」などというような「哲学的」な言語は、私たち人間にシーニュのなかのシニフィエを見失ってしまう傾向があることを示しているのかもしれない。そして、消費社会に住む私たちにも商品に関してそういった思い込みに基づいて行動する傾向があって、ボードリヤールはそこを鋭く突いていると見ることも可能だから。
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by tyogonou | 2009-06-14 20:45 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その3

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

橋爪 大三郎 / 講談社


「詳しくはボードリヤールを読んで」というには、あまりにもあれなのでもっと分かりやすい本を紹介しておく。
以上の事実は、したがって、欲求と豊かさの形而上学を越えて、消費の社会的論理についての真の分析をわれわれに指示する。この論理は、財とサーヴィスの使用価値の個人的取得の論理――奇蹟への権利を持つものと奇蹟から取り残されたものとが存在する不平等な繁栄の論理――とはまったく別のものであり、欲求充足の論理でもない。それは社会的意味を持つもの(シニフィアン)の生産および操作の論理である。(67頁)
『消費社会の神話と構造』の有名な一説だが、『はじめての構造主義』のニューギニアの島々にあるクラという宝物を交換して回る儀式についての説明を参考に読むと多少は分かりやすくなるかと思う。
 むしろ、こう考えるべきだろう。”価値あるものだから交換される”のではない。その反対に、”交換されるから価値がある”のである! ここがポイント。人びとの間に効果のシステムが出来上がっていて、あるものを交換のためにみんな欲しがるから、それが価値あるものとなる。電流が流れると磁場が生まれるように、交換のシステムは必ず価値を孕むのである。このあたり、ソシュールのところで紹介した議論とそっくりになっている。
 モースはこういうことに気がついて、この交換のシステムのことを「全体的社会的給付」とよんだ。社会(人びとのつながり)とは要するに、交換することなのであって、誰もかれもが交換に巻き込まれていく。交換されるものに、「価値」がそなわっているとしか見えなくなる。こうしたことが、社会的事実(個々人の意志を離れ、社会全体で成立してしまう事柄)として生じていることを、指摘したのだ。(86頁)

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by tyogonou | 2009-03-23 23:33 | 消費社会 | Trackback | Comments(1)
消費社会 その2

消費社会の神話と構造 普及版

ジャン ボードリヤール / 紀伊國屋書店

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性をもつ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。(101頁)
消費はひとつの社会的労働なのだ。消費者は(今日ではおそらく「生産」のレベルでと同様)このレベルにおいても、やはり労働者として必要とされ動員されている。(106頁)

ボードリヤールは読み難い。示唆に富んではいるがそれですっきり話が分かるかというとそうでもなく、合わない眼鏡をかけているような居心地の悪さが付きまとう。差異を安易に階級の上下に結び付けてしまうのも問題があるように思われるし、ポップアートに関する記述など今となっては古い印象がする部分があるのも確かだ。
しかし、消費の社会的論理を社会的意味をもつもの(シニフィアン)の生産および操作の論理とする基本的な見方は今でも代わらぬ価値を持つ。

消費社会とは言うまでもなく、単に無駄遣いをする社会などというものを意味しているのではない。それは、親族や階級制度などに代わって、商品(ボードリヤールは「モノ」と表現するが)が社会内での個人の位置を定める座標軸となる社会であり、消費こそが社会参加である社会である。

私たちが何か新しい商品を作り売り出そうとするとき、それを消費者に買ってもらうために他の商品との「差別化」をはからなければならない。他者の製品(自社の旧製品も含まれるが)とどのような点で異なるのかが示されることによって初めて、消費者が他の商品ではなくそれを選択するのかを考えることが出来る。
そういった差別化=差異を必要にしているのは、競合する商品の種類が豊富にあることと、かつそれぞれの商品が自己同一性(アイデンティティ)を保っていること、そして鉛筆からミサイルに至るまでの多様な商品群が貨幣を媒介として交換可能であることである。

工業化される前の社会では商品の自己同一性はあいまいで、陶器でいえば産地、作者、大皿や小鉢といった種類、大きさ、描かれた模様の題材などの特徴によって記述するしかなく、例えば盗難届の出ている茶器と同一の品かどうかは写真などと照合しなければ不可能だ。しかし、工業製品である時計などなら型番が分かれば同一の品だと確実に言える。
この自己同一性は、ボードリヤールが言っていることではないが、商品の差異が神話へと形作られるのには不可欠の要素であると思われる。また、発展した消費社会に生きる人間が「自分探し」へと向かうことが必然であることも示唆しているように思われる。
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by tyogonou | 2009-03-22 01:23 | 消費社会 | Trackback | Comments(2)
消費社会 その1
<不況>高まる不安、骨太の経済書が人気 「2カ月で10万部も」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
現在の経済状況をめぐる議論を見ていると、消費の問題は収入が安定すれば自然に回復するものであるかのようで、敢えて語るにも値しないものであるかのようだ。しかし「アラフォー」の消費力などという話が出てくるのは、消費というものが社会的に訓練されて始めて獲得される特殊な能力であることを示しているようで、決して疎かには出来ない問題であるように思われる。それどころか、実はもっとも重要な問題ではないかとさえ私には思われる。

10年ほど昔、『科学の終焉(おわり)』という本が出版された。基本的には第一線で活躍する科学者達へのインタビュー集であるが、重要なのは、科学は限界のある営みであり、その限界に人類はすでに近づいてしまったのではないか、という著者の問題意識である。
科学がすでにどれだけ遠くへ達したかを考慮し、さらなる探求を抑制している物質的、社会的、認識的な限界を考える時、科学は、すでに生み出した知識に何も重要な追加ができそうもない。将来にわたって、ダーウィン、アインシュタイン、ワトソンとクリックらによって授けられたものに匹敵する大革命はおきないだろう。
麻生首相は好んで百年に一度というが、あるいはもっとスケールを大きくとるべきで、250年にかかって成長してきた消費社会がそれ自身の成功を理由として終焉を迎えようとしているのが今の状況であるのではないだろうか。
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by tyogonou | 2009-02-26 23:56 | 消費社会 | Trackback | Comments(4)