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自由を教えることになんの不都合もない
歌わない自由の指導不適切 国歌斉唱で文科相
私は教育現場での国旗国歌に対する反対運動にはあまり共感できない。
もちろん、国歌斉唱時に起立しない歌わないということが特別な意見の表現である場合には、それは大きな敬意をもって認められるべきだと思う。そして、処分をちらつかせての強制という現在の政策がそういった行為が決して尊重されることのない社会を招来する危険性についても認識している。しかし、それでもなお、この反対運動がためにする反対であるという印象がぬぐえない。
だからといって、文科相の見解を支持するというわけでもない。
小坂憲次文部科学相は8日午後の衆院教育基本法特別委員会で、学校現場での国歌斉唱の指導の在り方に関連し、「指導的立場の教師が『内心の自由があるから歌わなくてもいい』という言い方をすれば、逆の指導をしていると取られてもやむを得ない場合もある」と述べ、歌わない自由を生徒に伝えるのは適切な指導でないとの認識を示した。
 文科相はその上で「日本の国には国旗、国歌があることを客観的に教える。歌うか歌わないかは最終的に生徒がその場の状況で判断することはあるかもしれない。学習指導要領に従った方法で適切な指導が行われれば、(生徒に)素直に受け入れられる」と強調した。
それがどんなものであれ、社会的に認められた自由について教えるのは教育の重要な役割である。君が代を歌わないことが内心の自由の表現であることを文科相自身認めるなら、それを教えることを非難することはできない。例えば、容疑者に黙秘の権利があることを教えれば黙っていろというようなものだから教えるな、などと警察が主張するなら、それはとてつもなくいかがわしい話だ。文科相のいう「適切な指導」がどういうものを意図しているのか知りたいところだが、かつてドミニカへの移住を希望していた人々に対して行われていた「要領のいい」説明と似たようなものではないのか。正しいが自分にとって不都合な情報を伝えることをもっともらしい理由をつけて回避し、その意を汲んだ弾力的な運用を期待するところなど、よく似た思考様式だと思われるのだが。
ドベルヘの土地に塩分があるとの点を強調せられることは移住者に不安を抱かしめるおそれあり。この辺、移住者に対し本省担当官において要領よく御説明なるよう特にお願いする

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by tyogonou | 2006-06-09 13:19 | 社会 | Trackback | Comments(0)
【中国】「日本の捕鯨に断固反対」98%、中国で強い反発
【中国】「日本の捕鯨に断固反対」98%、中国で強い反発
中国にはこのまま突き進んで欲しいと思うのは私だけだろうか?
 中央電視台(中央テレビ、CCTV)は、捕鯨について賛否を問うアンケートを公式サイトで2日から開始した。6日午前10時20分(日本時間)の時点で、「捕鯨に対して、中国はどのような対応をすべきか」との質問に対して、「日本の捕鯨に断固として反対する」との回答が541票(98.90%)、「日本の捕鯨を支持する」が3票(0.55%)、「よく分からない」が3票(0.55%)となっている。
ネットでのアンケートという形式であれば意見が偏りがちなのは仕方がないが、ひとつの意見に98.90%の票が集まるとは異常というより茶番だ。これをもって「中国国民は商業捕鯨に反対している」という主張の根拠にするなら、むしろ日本としては大歓迎だ。反対派の意見が理性に基づいていないひとつの例証になるのだから。
またグリーンピース中国では「鯨は何度、鑑賞しても飽きない。殺してしまえばそれっきりだ」とコメントしているという。
「足の生えているものは椅子以外、羽の生えているものは飛行機以外」なんでも食べるという国の人間がこんなコメントを出すとは、なんてファンタスティックなんだ。他の国ではペットとして愛好される類の動物を中国人は絶対食べていないとでも主張するつもりだろうか? 毛皮産業など、中国の産業界が動物の扱いに関して他の見本となるべき水準にあるとでもいうのだろうか? そもそも「鑑賞しても飽きない」から捕鯨をやめろとはどういう冗談だ。捕鯨に関する議論は、種の保存と文化の多様性など、尊重されるべき価値観が複雑に絡み合うなかでよりよい選択肢を模索する真剣なものであるべきだ(現状はかならずしもそうなっているとはいえないかもしれないが)。単に他国を貶め自国の力を誇示したいだけの幼稚な言動は真剣な他の国々に対して失礼だ。
中国にだってこの問題に口を出す権利はあるが、そのまえにしなければならないことがうんとあるはずだ。
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by tyogonou | 2006-06-07 13:20 | 国際 | Trackback | Comments(0)
金儲けは悪か?
<村上ファンド>「ルールの中で金もうけちゃ何が悪い」
 ――法律を破らなければ金もうけしてよいとの考えは変わらない?
村上氏ではなくても聞き返したくなる。法律に則っていても金儲けはしてはならないのか? もし、質問した記者が本気でそう考えているのなら、記者は直ちに職を辞してニートになるか、あるいは給料を全額返還すべきである。村上氏が非難されるべきはあくまで法律を破った点にあるのであって、より高い収益をあげるべく努力することは非難されるべきことでは断じてない。
私は「日本は変な国になってきたのかなと。」云々という村上氏の言葉にはあまり感銘を受けないが、それは、そこに自己弁護の匂いが感じ取れるだけでなく、称えられるべき人間のあり方についての考察が浅薄にすぎるからだ。金儲けに対する否定的な価値観は日本には以前からあったと思われるし、堀江氏の、土地の代わりに情報を転がして大きな利益を演出する能力は、バブルのころを考えれば突出した才能というほどのことではないかもしれない。それでも、村上氏の議論の方向性には一貫性がある。
私自身の価値観は村上氏のそれとは一致するところが少ないが、批判者達のいいかげんな議論には不快の念を禁じえない。
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by tyogonou | 2006-06-06 01:58 | 社会 | Trackback | Comments(0)
清水の舞台
清水の舞台 ヒールに泣く 張り替えも「ピン」で深く、穴ぼこ
 森孝忍庶務部長は「ファッションの規制はできないし、国宝なので舞台にシートを張る訳にもいかない。モラルに訴えるしかない。傷みが激しくなると、床板の張り替え時期を早める措置が必要だ」と心配している。
私が清水寺に行ったのはずいぶん昔のことだから、どういうつくりになっていたかはっきりとは思い出せないが、こんなものはスリッパと下駄箱を用意してはきかえるようにしたら済むことで頭を抱えるほどのこともないと思うが。でこぼこの床をそんな靴であるいたら、ヒールを取られて捻挫する危険だってありそうだし、舞台に上がる際に靴を脱がせることはすべて受け入れる「普門示現」菩薩の意に反するわけでもあるまい。
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by tyogonou | 2006-06-04 00:23 | 社会 | Trackback | Comments(0)
君が代
「君が代」替え歌ネットで広まる 斉唱義務への抗議として
件の反対運動のサイトも覗いてみたが、ジョン・レノンにかぶれた高校生の英作文のような出来の悪さと、新橋の酔っ払いの駄洒落にも劣るセンスの悪さに辟易した。
記事の中でもアメリカの"The Star-Spangled Banner"のスペイン語ヴァージョンをめぐる騒動について触れられているが、日米ともに国歌にふたつの似た問題点を持っているのはちょっとおもしろい。
ひとつは歌詞が難しいということ。君が代の歌詞が覚えにくいということはないが、歌っていてもとの歌詞の意味内容を想起することは難しい。もうひとつの問題はメロディーが難しくて歌いにくいということで、君が代は「八千代に」の部分、The Star-Spangled Banner では"And the Rokets' Red glare" の部分の頭が急に高い音を要求されるので、ここをきちんと歌うにはかなりの技術がいる。
余談だが、君が代のメロディーはかなり特殊で、ハ長調の曲でありながらハ(ド)の音で始まりハの音で終わるという決まりごとから外れている(二ではじまりニで終わる)。君が代が演奏される時に注意して聴くとすぐ分かるが、「千代に」から「苔のむー」の間だけ重厚な伴奏がついていて、最初と最後はなんとなくさびしいままだ。これは編曲を担当した当時のお抱え外国人音楽教師には扱いかねるメロディーだったため、扱える部分だけに編曲を施し、前後はあえていじらなかったからだという。(『私の音楽談義』 芥川也寸志 ちくま文庫)個人的には魅力を感じるこの完成度の低さは国歌としてどうかという議論は起きても不思議ではないが、もちろん聞いたことがない。

それはともかく、処罰を含んだ君が代の強制という問題に、このセンスの悪い替え歌がどれほどの役割を果たしうるものだろうか? 権力者に屈しないガッツとユーモアを誇ろうとするような自意識以外、私には伝わってこない。特にそこにあるべきはずの怒りが伝わってこないのは私には腹立たしい。それなら、これよりも辰野隆の「君が代~」と「民が代~」を繰り返せばよいという意見の方が万倍もよい。簡潔できちんと理想を持った代替案だと思う。もっともこういった歴史のあるものを無闇に変更してしまうことは、それが背負った歴史自体を闇に葬ってしまうことにもなりかねないということに充分な注意を払うべきだと思うし、その点でも「民が代」のみに変更するのではなく「君が代」と並列する辰野案は良い。
一番重要なのは「君が代」であれ"star-spangled banner"であれ、"Deutchland uber alles"であれ、それを強制するところに問題があるということだ。その点でもこの替え歌はなんの意味もない。昔読んだアメリカの童話では、主人公の少年達は相手の見えないところで人差し指と中指をクロスさせていればウソをついても許されるというルールをもっていて、そんなルールが通じない大人にどうしても嘘をつかなければならないときにも靴の中で必死に足指をクロスさせようとしたりしていたものだが、あまりそれと次元の違わないような振る舞いだ。

強制という問題自体に対する私自身の考えとしては、それが非民主的な国家によってのみ行われるものではないし、またスポーツの国際大会など各国の国歌が演奏される機会においてとるべき態度との整合性も考慮すればそこまで批判されるべきことだとも思えない。ただし、こういった論争的な問題の解決は処罰によらず説得によってはかられるのが民主的な社会の作法であるのはいうまでもない。もしそれが自由な討論によっては相手に受け入れられえないのだとすれば、その意見にはなにか間違ったところがあるということだ。
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by tyogonou | 2006-06-03 02:57 | 社会 | Trackback | Comments(0)