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消費社会 その8
交換価値だけのモノというものはソシュールの記号論ではありえないのだが、貨幣はまさにそういうものである。貨幣が消費社会において果たしてきた役割を考えれば、やはりボードリヤールは無視できない。

ボードリヤールは、経済成長を社会階級間のダイナミクス、すなわち上の階級に追いつこうという欲求と下に追いつかれまいという欲求によってもたらされるものと見た。しかし、私は使用価値だけの「もの」に交換価値が付与される②→③というプロセスこそが経済成長の本質だと思う。当たり前のようではあるが、②→③というプロセスは、ものの価格、貨幣との交換価値を上げる。それがもともと交換価値を全く持っていないものであったなら、それはあたかも深海から空中へと飛び出す潜水艦のように急激な上昇を見せる。日本のバブルはまさにそうだった。
バブル以前、日本人にとって土地とは、記号的な意味(「田園調布に家が建つ」)をもってはいたが、そうそう簡単に交換(取引)に出されるものではなく、先祖代々(あるいは自分が手に入れたら少なくとも自分の第一代は)そこに住んだりそこで商売したりして使い続けるものだった。それが、交換的価値をもつモノへと急激に変容し、時に全く使用されることのないまま次の交換に出され(転がされ)、まるでそれ自体が貨幣でもあるかのようでもあった。
しかし、土地は貨幣とは異なる。いつまでも更地で使用されることがない、さらに周囲の土地も同様、そんな転がされるだけで使用価値のない土地は、いうなれば「火星の土地」同様、大した交換価値をもってはいない。交換している側がそのことに気づいたとたん、土地はおそらくもとの②の状態にまで一気に値を下げた。バブルの崩壊とは即ち交換価値の消失である。
ボードリヤールの成長の見方ではバブルの成長は説明できてもその崩壊は説明できないが、彼のより一般的な消費の見方ではこのように説明が可能になる。
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by tyogonou | 2009-06-29 00:18 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その7
今まで見てきたソシュールの記号論の全体を図にしてみると次のようになる。(クリックすると別ウィンドウで拡大)
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それに対して、ボードリヤールがシーニュ、シニフィアン、シニフィエをどのように見ているか、あるいはその消費社会的表現である「モノ」がどう「ある」と見ているのかは次のように図示できる。
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すべての宣伝には意味(サンス)が欠如している。宣伝は意味作用(シニフィカシオン)を伝達するだけである。宣伝の意味作用(およびそれが引き起こす行動)はけっして個性的なものではなく、まったく示差的であり、限界的(マージナル)で組み合わせ的である。つまり、宣伝の意味作用は差異の産業的生産に由来している。この事実こそ消費のシステムをもっとも協力に定義づけるものといえよう。(『消費社会の神話と構造』112頁)
ソシュール的に理解すれば、ラングという構造の中でシーニュの関係が意味を生み出すものであるから、これは奇異な主張である。下図に示したようにボードリヤールは、モノの使用価値を味わうことが「意味」であると見ているようである。また、既に指摘したようにシニフィアンとシニフィエを独立して存在しうるものと見ているようでもある。(もちろん、言語行為と消費活動とを完全に同一視することが可能かどうかは話が別だし、ボードリヤール自身、シーニュの全体性の破壊がもたらすシニフィアンとシニフィアンの分離について論じてもいる。)

ボードリヤールのモノについての考え方をざっと見てみよう。
消費社会以前、私達人間が使う「もの」は、それこそチンパンジーがアリ塚からアリを吊り上げる棒のように、使えればよい=使用価値さえあればよいものだった。それが宗教的、呪術的な装飾を施されることなどはあっても、他の「もの」との交換において有利になるように、シニフィアン(交換価値)が付与され操作されることがいわば制度化されたのが消費社会である。それはのように、交換価値と使用価値と両方とも含んでいるのが健全な形であるが、ボードリヤールは現代社会にシニフィアンにシニフィエが吸収されるような「混同」があると論じている。
第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードの収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。(中略)すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(『消費社会の神話と構造』178頁
ものの使用価値が失われその「意味」を失い、差異のみによってアイデンティファイされる「モノ」が操作されるだけの社会、それこそボードリヤールの消費社会の核心的なイメージである。
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by tyogonou | 2009-06-28 15:20 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その6
シーニュはポジティブ(実定的)だとはいっても、それはラングという構造のなかにおかれて初めてポジティブな価値を持つ。

このことを理解するには、次のような例を考えてみると良い。
茶の湯で使われる茶碗に井戸茶碗というものがある。井戸茶碗とは、もともと朝鮮半島で庶民が食事に使った安物の生活雑器だが、茶人達に珍重され茶碗の最高峰と言われるまでになったものだ。言ってみれば百円均一ショップに山積みになっている茶碗が、他所の国で国宝になってしまったようなものだ。この価値のギャップをどのように考えればいいのか。朝鮮半島の人々が良い茶碗を作る腕を持ちながら、見る目がなかったと考えるべきなのか(日本の浮世絵についてそういった見方をする人もいるのではないか)、あるいは、もともと価値なんかないもの金の使い道を知らない物好きたちが値を吊り上げただけなのか。
どちらも違う。井戸茶碗の価値は、それが他の茶碗、他の茶道具などとともに茶の湯という体系の中に位置づけられたことで初めて定まったのだ。それは単に素朴な味わいがあるから価値があるというのではなく、天目茶碗や楽茶碗などとは違う味わいがあるところに価値がある。
忘れてならないのは、楽茶碗の方の価値も、井戸とは異なる味わいがあるところにあるのであって、つまり価値は絶対的な基準によって決まるのではなく、お互いがそれぞれの価値を定める基準となる相対的なものだということだ。茶碗の価値は、物理的な存在としてのそれを特徴付ける要素によって決まるのではない。井戸茶碗の場合は大きいほうがより価値が高いとされるし、そもそも穴があってお茶が漏ってしまうようでは茶碗としての価値はゼロだが、それであっても価値はそこから生じてくるものではない。お茶が入る、あるいは飯がたっぷり入る、持ちやすい大きさで頑丈で・・・茶の湯の茶碗の価値は明らかにそういった使用価値を越えている。
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by tyogonou | 2009-06-25 23:04 | 消費社会 | Trackback(1) | Comments(0)
東国原知事>衆院選出馬に意欲…「地方のために行く」
<東国原知事>衆院選出馬に意欲…「地方のために行く」
もともと、単なる人寄せパンダになるつもりはない、ちゃんと地方分権のために自分がまとめた政策、マニフェストに賛同し、それを実現するための力を自分によこすというなら自民党から出ますよ、というところから出発したのではないかと思うが、あれこれ考えているうちにまたいつものように頭に血が上ってきてしまったように見える。最初、記者達が知事の言っていることを理解できなかったというのは、要求があまりに突飛だったというだけでなく、のぼせた知事が話をきちんとまとめられなかったことにも原因があるように思えた。
どうやら本気で、地方のために地方でできることに限界があるので国政の場で活動しなければならないと考えているようだ。その考え方が間違っているとは言わないが、方法論が未熟で乱暴だ。
知事のマニフェストを一言一句変えることなく党のマニフェストに盛り込み、それを実行しろというのは非民主的だし、無責任だ。向こうから持ってきた話ではあるから、「そういう条件でもかまわないなら」という提案をするのはかまわないが、本当にそういった政策を実現したいなら、まずその党の議員達を意見を交換し賛同を得るところからはじめなければならない。
国政選挙であれば経済や外交から少子化対策に至るまで様々な問題領域をカバーせねばならず、地方分権だけやればいいというものでもない。東国原知事の政策の実現を阻むものは単に地方分権を阻害し国の権益を守ろうとする勢力だけではなく、他のやはり重要な政策の実現のために努力している勢力もあるわけで、そこを自分の意見を無条件に通せというのは根本的に民主主義に反している。
また、自民党側から見れば、どれほど知事が自信をもっている政策であっても、内容を精査せずに受け入れて党のマニフェストとして掲げますというのは当然無責任であるし、財源などの問題についての議論もせず、実現可能性も定かではないものを「実行します」と宣言するのも同様に無責任である。
東国原知事を嫌いというわけでもないが、良い政策がある→実行する→理想の社会の完成、というような、ちょっとナイーヴな考え方をしがちのようで、そこに不安を感じる。
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by tyogonou | 2009-06-25 23:03 | 国内政治 | Trackback | Comments(0)
<クラスター>禁止関連法案を衆院委で可決
<クラスター>禁止関連法案を衆院委で可決
アメリカなどからの圧力があったわけでもなく、世論が禁止に向けて盛り上がったというわけでもないのに、なんだかとんとん拍子に話が進んだのはなんだか不思議だ。あるいは、もともと反対論が一部の人びとの利益に関わるところから出ていて、その人たちが発言権を失ったといったことなのだろうか。
たとえどういう経緯があったにせよ、こういった方向に進んでいるのは喜ばしいことだ。
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by tyogonou | 2009-06-24 23:26 | 国内政治 | Trackback | Comments(0)
消費社会 その5
ボードリヤールが援用したソシュールの記号論をざっとおさらいしてみる。(とはいっても簡単に説明するのは困難な作業だが)

ソシュールを理解するためにはまず、二つの混沌について押さえるところからはじめよう。
1つは私達の外にあって、私達の言葉によって指し示される外在的世界。もう1つは私達が言葉を発する時にもっぱら使用する音声。
どちらも混沌としていないじゃないか、といわれるかもしれない。町を歩けば男の人や女の人、子供達に、犬に猫にからすがいて、家々とそれを囲む塀、道路には車が通り、電信柱に道路標識、看板などが立ち並んでいる。整然としているか雑然としているかの差はあっても、ちゃんと秩序だっていて混沌としているようなところなどない。音声だって同じ、混沌としているなら50音から勉強して出直せと。確かにどちらの秩序も自明のことのように思われる。
だが、虹を考えてみよう。外在的な現象として私達の目に飛び込んでくる虹の多様な色も、それを表す語彙もちゃんと秩序だっているように思われる。しかし、私達が「赤 橙 黄 緑 青 藍 紫」の七色で区別する虹の色も、文化によって2色にしか区別されなかったりする。 また同じ色数でも、日本語の「赤」とそれに対応する外国語の単語が示すものの範囲が同じとも限らない。ただいえることは、虹には異なる色みが含まれているということ。それをどう区別するかは、見る人間によるのであって客観的に正しい区分が秩序だって存在しているのではない。
音声も同じ。外国語をちょっと習えば「あ」と「え」の中間の音、といった50音にない音もある。日本語ではおなじ「ん」の音でも、中国語では "n" "ng" という区別がある。日本人でも「ナンナンナン・・・」というときの「ン」は前者、「ンガンガンガ・・・・」というときの「ン」は後者の音に近い音を出せるが、日本語はそれを区別しない。声帯と口、鼻、舌や唇、歯などを使って人間が出せる音声は多様にあるが、「あ」の音、「い」の音、「う」の音、といった秩序がその音声の中に自ずから存在しているわけではない。
外在的世界も音声も、内にたくさんの差異を含んだ混沌なのである。
ソシュールはこの二つの混沌が接し、干渉しあう中で両者に含まれた差異が一体化して記号となり、そこで初めて秩序が生まれると考えた。
外在的世界をシニフィエ、音声をシニフィアン、記号をシーニュと呼ぶ。他に、言語行為をランガージュ、体系化された記号による言語をラング、シニフィエと似ているが微妙に異なる「指向対象」をレファランと呼ぶ。

シーニュ(記号)=シニフィアン(記号表現、意味するもの)+シニフィエ(記号対象、意味されるもの)

重要なのは、シニフィアンとシニフィエはともにネガティブ(否定的)であるということ、つまり、「あか」というシニフィアンは「あお」でも「くれない」でも「しゅ」でもないとしか言えず、それが指すシニフィエも同様であるということだ。赤というシーニュがポジティブ(実定的)に「赤とはこういうものだ」といえるのは、マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、二つの否定性が結びつくことで可能になる。
シニフィアンとシニフィエのネガティビテ(否定性)はもう1つ重要なシーニュの「恣意性」という概念を導く。色とは光の波長の違いによって認識されるものだが、その波長をどこで区切ろうが、それをどういう名前で呼ぼうが、人間の勝手である(客観的に決まっていない)ということだ。あるいは、それは言語を使用する人々の間の単なる「約束事」にすぎない、といえる。記号としては特殊な例だが自動車のパッシングを考えてみよう。右折しようとしているとき、対向車がパッシングしてきたら、多くの場合「お先にどうぞ」という記号だが、地域によって全く逆に「先に行くからまだ曲がるなよ」という意味で使われる場合もある。どちらが正しいかは自明のことではなく、ただ相手のドライバーの文化的背景のみが根拠である。なにかを伝えたいと思えば、なにか通常とは異なる(差異のある)行為を思いつけば、どんなことでも自由に表現できる。対向車線で速度違反の取締りをやっている!、向こうから来た車に教えてあげよう、相手の注意を引くには・・・パッシングだ、というように。自分の肯定的な印象を表現したいが、ナウいでもイケてるでもかわいいでもない・・・といったところから新しい表現が出てくるわけだ。

ボードリヤールの問題点は、この差異、否定性、恣意性という概念が悪いことのように捉えられていることだ。むしろ、そういった特徴は人間の精神生活、文化を豊かにしてくれるものと考えるべきだ。
先程レファランという用語を挙げた、その説明にもなるのだが、あるホモサピエンスの個体に対して(レファラン)、「父」「親父」「パパ」といったシーニュが存在する。それらは、同じレファラン=指向対象に対して使われるがそれぞれが別のシニフィエを持っている、つまり「親父」と「パパ」とでは意味がちょっと違う。ひとつの事物(レファラン)を様々な切り口(差異)によって捉えることができる、ということはその事物との関係が豊かであるといえるだろう。
また、そういった記号を使いこなすことによって、私たち人間ははじめて混沌とした外在的な事物を利用することができるということも忘れてはならない。動植物にまったく興味のない人間がいきなり大自然のなかに放り出されたら、「なんや分からんいろんな草や木がボーボー生えてるけどどうしたらええんや」と途方にくれるだけだが、そういった草木を言語によって秩序だって認識できる人間にとっては、いろいろ利用できる宝の山となりうる。

ボードリヤールはソシュールの記号論を経済の分析に適用することで、私達の理解を確かに深めたといえるだろう。ボードリヤールは記号化された商品やサービスをモノ(オブジェ)と表現したが、それを先程のシーニュの図式に当てはめると、次のような表現も可能である。

モノ=交換価値+使用価値
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by tyogonou | 2009-06-24 00:13 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
元冤罪事件弁護人が誤審防止「8つのお願い」
元冤罪事件弁護人が誤審防止「8つのお願い」
yahooのトピックスの一覧からはあっというまに消えてしまったようだ。

(1)「被告人は無罪」という推定の下に裁判を
(2)検察官に有罪の立証責任あり
(3)有罪の確信持てなければ「無罪」
(4)違法な捜査や信用できない証拠には“No!”を
(5)取り調べは適正だったかを確認
(6)鑑定は適正か確認できたか
(7)有罪・無罪の判断は被害者の心情とは離れて
(8)論告・最終弁論に耳を傾けて

(1)は理解され難いかもしれないが、裁判までに報道された「ひどいことをした奴」といった先入観を一旦忘れてまっさらなところから検察と弁護士のやり取りを見て、それによって自分自身の被告人像を形成してほしいということだろうか。

どれも当たり前のことであるが、弁護士にすら理解していない人もいそうで、裁判員が本当にこういった態度で裁判に臨めるかは不安でもある。
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by tyogonou | 2009-06-23 22:25 | 社会 | Trackback | Comments(0)
説明責任を問うこと 続き?
公明幹部「事実上の小沢氏への起訴状だ」 西松事件公判
西松事件、異例のスピード終結へ 検察、被告側が利害一致
説明責任を問うことの続きを書かなければと思いつつ、放置してしまったが、嫌な形で続きを書かなければならなくなったようだ。
小沢事務所の仕切りで談合が行われていて、西松の献金がその見返りであるというなら、談合なり収賄なりの容疑で立件すべきだ。それを、別の事件の裁判において、正規の手続きを踏んで行われる場合に要求される責任を回避して事実上の起訴を行うというのはなにごとか。
まして、小沢氏を非難する基礎となっているのは検察と利害が一致している証人の証言であって、こういうのこそ「出来レース」というのだ。証人に偏見がないか、偏見によって不利益を被る相手に対する敵意があったり、検察などの歓心を買おうというような意図があったりしないか、尋問によって試され公平であると認められなければ証言の価値は低い(偽証であれば罪に問われるという意味では一応の意味はあるが)。
小沢氏ほどの有力政治家であれば普通の人より大きな責任を負っているのだろうし、言っちゃなんだが嫌われ者だから、あまり疑問の声も挙がっていないようだが、一般論としてこのようなやり方が正当なものと認められてしまってはたまったものではない。警察(検察)と警察に弱みを握られている小悪党のタッグで自分のあずかり知らぬところで罪をでっち上げられる。悪徳警官の出てくるハリウッド映画などではよくあるパターンで、まさに冤罪の王道である。

自民党には小沢氏の参考人招致を求める声も出ているようだが、先に検察幹部に公の場で特定の犯罪を犯したと非難しておきながら、機会があったにもかかわらずその犯罪について起訴はおろか捜査すらしていないことについて説明を求めるべきではないのか。四つの工事を特定し、それが小沢氏の事務所の仕切りによる談合によって決まったと明言している以上、検察はそれを立件する義務がある。検察は、西松による献金を「裏献金」と表現したが、検察の主張によればそれはむしろ賄賂とよぶべきもので、重大な犯罪だ。それなのになぜ検察は政治資金規正法などという小さな要素のみをとりあげるのか。最初から収賄罪なりなんなりを追求するなら国策捜査などと批判されることもなかっただろうに。
小沢氏の側から見れば、きちんと証拠が調べられ、さまざまな証言の信頼性も試されることなく、罪有りとされるのは、裁判を受ける権利を侵害されることでもある。また、犯罪の事実が「ある」ことを証明するのに比べて、「ない」ことを証明するのは難しいことでもある。したがって、(小沢氏が本当に潔白なら)民主党側から小沢氏を告発するというのもひとつの手段ではないかと思う。それによって、警察・検察はこの犯罪についてきちんと捜査し、起訴するか否か判断を示す公式の義務を負うことになる。潔白でも起訴されることはよくあることだ(ついでに有罪判決がでることもあることのようだが)が、もし検察に起訴できるほどの証拠が固められなければ検察によって公に潔白であることを宣言されることになるわけで、それ以上の説明はないといえるだろう。
もっともそんな提案をされれば小沢氏が激怒するのは目に見えていることだし、敢えて鈴をつけにいく人もいないだろうが。
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by tyogonou | 2009-06-21 23:44 | 社会 | Trackback | Comments(0)
ほしのあきは“KY、知ったかぶり、なれなれしさ”が嫌われている
ほしのあきは“KY、知ったかぶり、なれなれしさ”が嫌われている
相手の所属厩舎の調教師のブログのニュースを読んだときの最初の感想は、一面にスクープされるか否かはほしのの意志でどうこうできるものでもあるまいし、それを気遣いがないといいって攻撃するのは筋違いだろうということだった。そのうえ、「いい年して」などという表現は女性に対しては失礼であろう。文面を読むかぎり、三浦騎手本人の話を聞いてもいないようだし、一応ほしの側が否定しているのを「熱愛」が事実という前提で話しているのも立場上いかがなものか。報道では先輩騎手も含めた仲間で食事をしていたということだから、身内であるそちらの責任をあげつらうのが先でもある。
個人的にはほしのあきはあまり好きなタレントではない。「KY、知ったかぶり、なれなれしさ」というのも分かる気はする。
ただ、競馬界にとってはどうなのだろうか。
私の競馬に対する興味は、ほしのに対するそれよりさらに薄い。そういう人間にとって、最近の競馬関係のニュースで記憶に残っているのは、ほしの絡みのニュースぐらいだ。競馬場で大声ではしゃいだり、レース中に絶叫したり、というのが迷惑だというのも分かる。私が競馬好きであったなら、相当苛立つことだろう。
しかし、(興味のない世界だから実際のところは知らないけれども)そういった知識のない、競馬より騎手に興味があるような若い女性達も気軽に楽しめるよう敷居を下げたという功績はないのだろうか? 功績をあればなにをしてもいいというわけでもないが、熱愛報道されたというのはそこまでも悪事でもないだろう。競馬会の最高幹部広報と話し合い云々ということまでいうなら、ほしのを出入り禁止にすればいい。それができるのだろうか?
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by tyogonou | 2009-06-20 23:44 | Trackback | Comments(0)
『愛を読む人』
ケイト姐さんが"DTハンター"に! オスカー受賞の官能作『愛を読むひと』
"DT卒業"の喜びと切なさを、ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、ブルーノ・ガンツら名優たちによって文芸色豊かに描いた社会派感動作なのだ。
テキストをどう読もうが勝手だとは思うが、『朗読者』をそんな風に読まれるのはちょっとひっかかる。『アクロス・ザ・ユニヴァース』のときもそうだったが、大ヒットは望めない映画にどう興味を持ってもらって映画館に足を運んでもらうための苦心の末の方便だと思いたい。

昔、原作についてリチャード・ローティ的な解釈にもとづいてちょっと文章を書いたことがあって、私には珍しく読みやすくまとまっていたが(たぶん)、残念ながらもう手元にはない。思い出しつつちょっと書いてみる。

まず、『愛を読むひと』という邦題はあまり良くないと思う。"DER VORKESER"がドイツ語の原題だが、問題は男性単数を示す「定冠詞」がついていることだ。
アメリカ映画で『ザ・ファン』というのがあって、これは日本版でもそのままカタカナ表記にしたはずだ。この映画はある野球選手に対する思いが過激化していくひとりのファンの狂気を描いたものだが、主人公は単なる「ひとりのファン」(ア・ファン)を越えているが故に「ザ・ファン」なので、邦題でも定冠詞をつけたのだ。
『朗読者』が"EIN VORKESER"ではなく"DER VORKESER"であることにも1つの意味がある。
それは朗読者であるということがミヒャエルの自己規定であるということだ。もちろん、それはミヒャエルが我こそ「ザ・朗読者」、朗読のプロだと辞任していたということではない。ハンナの謎の自殺に関して刑務所長は、ミヒャエルに尋ねる。「どうしてあなたは彼女にお書きにならなかったのですか?」 彼は答えることが出来なかったが、その答えはそれ以前に説明されている。
朗読こそがぼくの流儀であり、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だった。
ミヒャエルは自分を「朗読者」と規定したからこそテープを送り続け、ハンナが字を覚えた後にも手紙を書くことをせず、そしてもっとも重要なことに、ハンナが彼が手紙を書いてくれることをどれほど強く望んでいたかを察することが出来なかった
『朗読者』の主題はここにある。私たちが自他のアイデンティティを規定し、それを守ろうとするとき、それは全く自然で正当なことであるにもかかわらず、私たちが他者と理解し合い、時に相手を絶望から救い出すことを妨げてしまう。
ミヒャエルと父親の対話は短いながらも象徴的な場面だ。
「わたしたちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。」
哲学者である父は、自由と尊厳を守りつつ相手の幸せを願うなら相手の目を開かせる努力をしなければならないというものの、両者の対立を乗り越える、あるいは止揚させるようなアドバイスを与えることができない。子どもの幸福を願う「父親」としては苦しむところではあるが、自由と尊厳を語る「哲学者」としてはいたし方のないことだ。後者こそ、父にとってのアイデンティティであるのだから。
ローティ的な解法を探すと次のようなものになる。幸福と、自由や尊厳が矛盾したり対立したりするのにはひとつ前提がある。それは1つの論理体系の中にこの両者をともに組み込まなければならないと考えることだ。私たちは倫理について、矛盾のない1つの体系によって説明できるし、そうしなければならない、そういう前提を立てたとき、両者は相容れないものとなる。だが、そういった前提を放棄してしまえば、私たちは両者をともに追い求めることができるのではないか。
ミヒャエルの父にとって、自分が親として子どもに対して理不尽な介入をすれば、それは「哲学者」としてのアイデンティティを損なう深刻な事態となったであろう。しかし、自由と尊厳を重んじる哲学者が家でそういう親ぶりを発揮することは、アイロニカルで愉快な光景ではないだろうか。
『釣りバカ日誌』という映画(マンガ)があるが、二人の主人公、浜ちゃんとすーさんは、釣りの師匠でありダメ社員、へぼな弟子でありかつ社長、という矛盾する二つの関係を、場面にあわせて柔軟に変容させ、いろんなすったもんだを乗り越えていく。私たちは二人の関係を支離滅裂だとは思わない。ユーモアに満ちて、いかにも人間臭いと思う。人間とはそういうものだ。

『朗読者』の登場人物は皆真面目で、自分のアイデンティティにも他者のそれにも誠実であろうとしているが、それゆえに困難を上手いことごまかしてやりすごすような真似はしない。だが、それゆえにこそ他者の苦しみを救うことができない。
ナチ戦犯の裁判という状況の設定は巧妙である。ハンナは「『字が読めない』のではない自分」というアイデンティティを守ろうとしてジーメンスを辞め、「看守」という任務を真面目にこなそうとして焼かれ死ぬ囚人達を苦しみから救おうとしなかった。これは、自分のアイデンティティを守らなければならないという強迫観念は、人類が犯したもっとも残虐な行為に通じてしまいかねないということを示すものだ。
一方で、被害者であるユダヤ人少女も「被害者」故に同じ残酷さを示す。ミヒャエルが子どもの頃ハンナと肉体関係をもったという話を聞き、彼女はいかにもアメリカ的に反応して「なんて粗暴な女なのかしら」という感想を漏らす。実際の二人の心の機微を知っている読者から見れば酷な物言いである。そしてハンナが字を読めなかったという事実を聞かされても、それがあの裁判に全く別の光を投げかけるものであることに気づかない。そして「ホロコーストの犠牲者」を代表するひとりとして、ハンナに許しを与えることを拒む。それは全く責められないことだ。だがそれにもかかわらず、ハンナを救えなかったミヒャエルや囚人達を救えなかったハンナ同様、彼女もまた私達がお互いに理解し助け合うことを阻む罠にかかってしまっている。
『朗読者』とはそんな苦しさを私達に教えてくれる物語なのだ。
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by tyogonou | 2009-06-17 23:10 | Trackback | Comments(0)