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自民新総裁に谷垣氏 河野、西村氏破る、民主と対決
自民新総裁に谷垣氏 河野、西村氏破る、民主と対決
【from Editor】彼女が自民党を捨てたワケ (1/2ページ) - MSN産経ニュース
谷垣新総裁は予想通りだし、私は自民党支持者でもないし、そしてなんだかんだいって扱いが小さくなって情報が入ってこないが、候補者たちは選挙戦であのネガティブキャンペーンについて語ったのだろうか、ちょっと気になった。
自分のことで精一杯であったとはいえ、衆院選中にこういったキャンペーンに反対の声をあげたひとはいなかったわけだから今更どうこうも言えないのだが、支持者にとっては、単に魔が差しただけなのか、それもとも知ってびっくりな自民党の本性だったのか気になるところではないだろうか。将来を語る選挙戦で、あのキャンペーンについて語らなければならないような文脈もなかったかもしれないが、候補者や応援する議員達はそういう気持ちを酌んでいたのだろうか。
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by tyogonou | 2009-09-29 00:09 | 国内政治 | Trackback | Comments(0)
横審で意見分かれる 朝青龍のガッツポーズ
横審で意見分かれる 朝青龍のガッツポーズ
内館牧子委員は「絶対にいけない」と批判したが、鶴田卓彦委員長は「わたし個人としては違和感がなかった」と寛大だった。
問題は違和感がなかったかどうかではなく、前回やって問題視され、親方が口頭注意を受けたという事実を黙殺する形で繰り返したことではないか。
そんなにガッツポーズがしたいのなら、前回注意を受けた時に自分はガッツポーズをしたいし、それは横綱に求められる価値に照らしても問題ないのだと反論すればよかったのだ。そうして、議論を盛り上げコンセンサスを得た上ならガッツポーズだろうがなんだろうが好きなようにすればいい。
だが批判されるとしおらしく頭をさげておいて、その実全く相手のいうことなど聞く気がないというのは、「狼少年だ」などと罵られてもしかたがない。
今場所は、「ひざ蹴り」も問題になった。実際にはひざで相手を蹴ったり押したりしたというわけではないようだが、その時点で問題を起こさないよう気持ちを引き締めていれば今回のようなこともなかったのではないか。
ガッツポーズにしろ、度重なるダメ押しにしろ、朝青龍は感情が盛り上がってしまうと歯止めが利かなくなる傾向がある。自己コントロールができないというのは横綱としてはやはり問題があると思うし、さらにいけないのは師匠ともどもそれを直そうという気が全くないことだ。
一方で、横綱審議会の方にも問題がある。大麻事件に関する協会の対応にも言えることだが、何がいけないことで何が許されること(すくなくとも処罰の対象でないこと)であるかの線引きをきちんとしたルールとして確立していないがゆえに、その場その場での感情的な攻撃と非難される側の自己保身との妥協に落ち着いて終わり。そんなことでは、品格ある力士など育ちっこない。
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by tyogonou | 2009-09-28 22:19 | スポーツ | Trackback | Comments(0)
ぎっくり腰
数日前腰をやってしまった。
重い荷物、ではなくゴミ袋を捨てに行こうとひょいともちあげたとたんにコキッと背骨がズレた。
何度かそうして腰を痛めたことはあるから、別段慌てもしなかったが、半日たつととてつもなく痛い。足を持ち上げただけで背骨に激痛が走る。しかも、普通と違い、前後ではなく左右にずれたので立とうとするとどうしても体が傾く。鏡を見ると腰のところで見事に「く」の字型に曲がっている。ちょっと慌ててヨガのポーズのように体をひねって背骨を鳴らしてみようとしたが痛くてとてもできない。
一日ちょっと苦しんだが、椅子の座面に背中を横たえ椅子のへりで背骨を一つづつ矯正するようなことをしていたら、コキッと小さな音がして、ほとんど変化の実感もなかったのだが、起き上がってみたらウソのように直っていた。
まっすぐ立てるって本当に素晴らしいと実感した。
痛めたときも直ったときも、大した音もしなかったが、小さなことでもポイントを抑えると大きな結果に結びつくものである。
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by tyogonou | 2009-09-27 23:48 | Trackback | Comments(0)
鳩山さんよ、劉邦たれ 政権交代の「先輩」細川護熙さん
特集ワイド:’09天下の秋 鳩山さんよ、劉邦たれ 政権交代の「先輩」細川護熙さん - 毎日jp(毎日新聞)
 「連想したのは秦漢の交代劇です。この選挙、そして小沢さんを見ていて、あ、項羽だ、と感じました。<力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う>。その力量は抜群で、秦を倒すことには有効でしたが、秦滅亡後の世の中をどうするかの展望と構想が欠けていた。なるほど小沢さんは項羽に比すべき腕力はある。でも、民主党の青写真はまだ十分に説得力のあるものではない。むしろ劉邦のように人材を集め、よく力を発揮させることができるかどうかがカギですよ」
今必要なのは、劉邦のような首相ではなく、僻地に押し込められた劉邦に中国全土を制覇するための道筋を示した韓信、本拠地をしっかりと固め、項羽に追われてあちこち逃げまわる劉邦に補給を絶やさなかったショウカのような人物ではないかと思う。各大臣が好き勝手なことをばらばらに言っている現状では、儒の礼式をもって内側から乱世の終焉をもたらした叔孫通のような人物も必要かもしれない。



Gyao!で最初の三話が無料で見られるが、若き劉邦のダメっぷりが楽しい。劉邦というのは不思議な人で、本人に特別な才覚があるわけでもなければそれほど強烈な野心家だったわけでもないのに、強大な権力の座につき、長く続く王朝を開いた例というのは世界史上にもほかに例がないのではないだろうか。
漫画『蒼天航路』は曹操を「破格の人」(もとの正史三国志では「非常の人」)と表現しているが、劉邦はさだめし「無格の人」ということになるのだろうか。才はないが、むしろないからこそ比較を絶するようなところのある人だと思う。部下の言うことをよく聞くといっても、秦が中国を統一する前、合従連衡が盛んだった時代の王たちは、他国からの説客の言うことでもよく聞いたものだし、独裁的な印象の強い始皇帝でさえ、大臣らの意見をきちんと聞いて行動しているわけで、その点で劉邦がそれほど優れていたということでもないだろう。もっとも、嫌いな儒者だからと無礼な仕打ちをしたものの、一喝されると、相手が特別名声のある人でもないのに畏れ入ってしまう素直さというのはなかなかないかもしれないが。
任侠の徒でありながら優しいところもあって、項羽に限らずいざとなれば非情な決断があたりまえだった時代に非情になりきれないのも、美点といえば美点だが弱点であったとも言える。そこは、重要なところで非情に徹した策を強く勧めることのできる重臣や、夫に代わって裏切り者を粛清できる妻などが補っていたためにたいした弱点とはならなかったのだろうし、対抗する項羽が非情さの点で傑出していたために好ましいものと見られただろうが、それでも天下統一という大事とはなかなか結びつかない。
何かわからないが皆が彼を助けたくなるようななにかがあったようでもあるが、それはなんとも説明しようがない。

結局なにが劉邦を皇帝にさせたのか、よくわからないままなのだが、それでもひとつ重要なことがあると思う。
三十六計逃げるにしかず、という。あの項羽を相手に何度も窮地に立たされながら生き延びたこと、たとえ大敗となっても、優秀な部下のおかげもあって次の反撃が不可能になるようなところまではいかなかったことが(そうはいっても逃げる時に車が遅くなるからといって自分の子どもを振り落とすぐらい切羽詰ったりしたわけだが)、最終的な勝利に結びついたのは間違いない。戦争をする、あるいは権力を握ろうとする人々はたいていプライドが高いもので、逃げろという策は、なかなかほかの国では聞かれない考え方だ。中国でそれが肯定的に捉えられるのは劉邦の例があったればこそなのだろう。鳩山首相には参考にならないだろうが、今の世に生きるには重要な考え方であるかもしれない。

余談だが、上の動画『大漢風』で項羽を演じているのは、映画『レッドクリフ』の趙雲を演じたのと同じ人だ。劉邦は雰囲気はいいが演技はいまひとつという感じもするが、総じてキャストはいい。こち亀実写版なんてやるくらいならこれを放映してほしいところだ。
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by tyogonou | 2009-09-25 20:40 | Trackback | Comments(0)
近ごろ、老人が凶暴化してないか?
「路上で将棋指すな」と男性刺され死亡 82歳を逮捕(産経新聞) - Yahoo!ニュース
近ごろ、老人が凶暴化してないか? [Webマガジン 月刊チャージャー] - Yahoo! JAPAN PR企画
今の日本を救う“キーワード” (新刊JP) | エキサイトニュース
ボードリヤールを読んでいて嫌なのは、彼の話の前提や論理には詳しく再検討したほうがいいような胡散臭さすらあるのに、そこから導き出された結論が、その執筆からはかなり経った現在の状況を鋭く指摘していることだ。
夢の国の幻覚に取り囲まれ繰り返される広告に説得されて、自分たちには豊かさへの正当な、譲渡できない権利があるのだと思いこんでいるのにもかかわらず、消費者大衆は豊かさを自然の結果として受けとっているのではないだろうか。消費への素朴な信仰は新しい要素であり、今後は新しい世代がその相続人である。彼らは財産だけでなく、豊かさへの自然権をも相続する。こうして、メラネシアでは衰えつつある貨物船(カーゴ)の神話が、西欧では再び蘇えろうとしている。なぜなら、たとえ日常的で月並みになったとはいえ、豊かさは歴史的社会的努力によって生み出され、もぎとられ、獲得されたものとしてではなく、われわれ自身がその正当な相続人である好意的な神話的審級、つまり技術、進歩、経済成長等によって分配されたものとして現れ、この限りにおいては、やはり日常生活の奇蹟となっているのだから。『消費社会の神話と構造』(23ページ)
ところが、豊かさそのもの(豊かさそのものさえも、というべきだ)が新しい型の強制のシステムに過ぎないという仮説を少しでも認めるなら、この新しい社会的強制(多かれ少なかれ無意識的な強制)には新しい型の解放の要求しか対応できないことがすぐにわかるはずである。今のところ、この要求は、無差別的暴力の形態(物質的・文化的財の「盲目的」破壊)または非暴力的で逃避的な形態(生産や消費への投資の拒否)をとった消費社会に対する拒否となっている。(270ページ)

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by tyogonou | 2009-09-18 00:20 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その7
ところが、豊かさそのもの(豊かさそのものさえも、というべきだ)が新しい型の強制のシステムに過ぎないという仮説を少しでも認めるなら、この新しい社会的強制(多かれ少なかれ無意識的な強制)には新しい型の解放の要求しか対応できないことがすぐにわかるはずである。今のところ、この要求は、無差別的暴力の形態(物質的・文化的財の「盲目的」破壊)または非暴力的で逃避的な形態(生産や消費への投資の拒否)をとった消費社会に対する拒否となっている。(270ページ)

アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間の常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方的で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって無視され検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しかもたないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。(270ページ)

われわれの社会に存在するあらゆる過程は、欲望(デジール)の両義性を解体し分裂させる方向にむかう。享受と象徴機能において統一されていた欲望の両義性は、同じ論理に従って二方向に分裂する。欲望の肯定性はすべて欲求〔必要〕とその充足の連鎖のなかに移行し、そのなかで一定の目的へと導かれつつ姿を消す。欲望の否定性はすべて統御不能な身体化、あるいは暴力行為の中に移行する。(284ページ)

したがって、資本主義の下で生産性が加速度的に上昇する過程全体の歴史で到達点ともいうべき消費の時代は、根源的な疎外の時代でもあるのだ。商品の論理が一般化し、今や労働過程や物質的生産物だけでなく、文化全体、性行動、人間関係、幻覚、個人的衝動までを支配している。すべてがこの論理に従属させられているわけだが、それは単にすべての機能と欲求が客体化され、利潤との関係において操作されるという意味ばかりでなく、すべてが見世物化される、つまり消費可能なイメージや記号やモデルとして喚起・誘発・編成されるというもっと深い意味を持つ事実なのである。(302ページ)

消費という特殊な様式のなかでは、超越性(商品のもつ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。意味するものと意味されるものの間には存在論的分裂ではなく論理的関係があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。幸福な時にも不幸な時にも人間が自分の像と向かい合う場所であった鏡は、現代的秩序から姿を消し、その代りにショーウィンドウが出現した。そこでは個人が自分自身を映してみることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中へ吸い込まれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものの描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。(303ページ)

子どもは自分自身と他者の中間に位置する鏡の中の像と「戯れる」。消費者にしても同じことで、項目や記号を次々と変えて自分を個性化する過程を「演じている」。子どもとその像の間には共謀と秩序だった関わり合いの関係があって、絶対的対立関係がないように、記号同士の間には何の矛盾も生まれない。消費者は自分がもっているモデルのセットとその選び方によって、つまりこのセットと自分とを組み合わせることによって自己規定を行う。この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明(アイデンティティ)の悲劇性に徐々に取ってかわったということができる。(304ページ)

消費社会が以前の社会とは違ってもはや神話を生み出さなくなったのはなぜだろうか。消費社会そのものが消費社会についての神話となっているからである。(305ページ)

その名に恥じないあらゆる偉大な神話と同じように、「神話」は独自の言説と反言説をもっている。すなわち、豊かさを礼賛する言説はいたるところで、消費社会の弊害とこの社会が文明全体に必ずもたらすであろう悲劇的結末を批判する陰気で道徳的な反言説をあわせもつことになる。(309ページ)

中世社会が神と悪魔の上で均衡を保っていたように、われわれの社会は消費とその告発の上で均衡を保っている。悪魔のまわりにはさまざまな異端とさまざまな黒魔術の流派が組織されえたが、われわれの魔術は白く、豊かさのなかには異端はもはや存在しえない。それは飽和状態に達した社会、眩暈も歴史もない社会、自ら以外に神話を持たない社会の予防衛生的な白さなのである。(310ページ)
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by tyogonou | 2009-09-17 20:40 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
民主党政権誕生
それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。(『消費社会の神話と構造』113ページ)
鳩山民主党、何かものたりないのは、「友愛」「脱官僚」「国民主権」そういったキャッチフレーズになにかデジャブのようなもの、「改革」ほど古臭くも言い尽くされてもないが、なんとなくいかにもありそうなスローガンで、現在の困難な状況との格闘というか葛藤というかそういったものの痕跡を感じさせない綺麗なまとまり方(これは民主党新人議員たちにも言えることだ)は、なにかとんでもないことが起きるのではないかという期待からは遠い。
政治家が(政治家に限ったことでもないだろうが)小粒になった、などと昔を知る人たちは言うが、「あるモデルと一体になる」ことでしか自己を特徴づけることができない消費社会の住人には、小さくまとまってしまうことは避けられないことなのだろう。
当然、自民党にも同じことがいえるわけで、民主党については今は政権交代を実現させたということを評価したいし、これを一時の例外としてしまわないよう、そこそこ安定した政権運営をしてくれれば充分であると思う。
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by tyogonou | 2009-09-17 00:54 | 国内政治 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その6
本来、性は全体的かつ象徴的交換の構造なのである。ところが人びとは、(一)、性を性器のリアルで露骨で見世物的な意味作用と「性的欲求」で置きかえることによって、性から象徴性を奪い取る。(二)、エロスをバラバラに切り離し、セックスを個人に、また個人をセックスに割り当てることによって、性から交換性を奪い取る(これは本質的なことだ)。こうした自体は技術的・社会的分業の帰結であり、セックスが(全体的ではなく)部分的機能となって私有財産としてひとりひとりに割り当てられている。(223ページ)

性の全体的で象徴的な交換機能が破壊され失われてしまうと、性は使用価値と交換価値(いずれもモノの概念の特性だ)の二重の図式に組み込まれ、次のような切り離された機能として客観化される。
 一、個人にとっての使用価値(自分自身の性器や性的テクニックを通じて表される使用価値―――なぜならここでは欲望(デジール)ではなく、技術と欲求(ブズワン)が問題になっているからだ)。
 二、交換価値(やはり象徴的価値ではなく、あらゆる形態の売春のような経済的、商業的交換価値、または今日ではそれよりずっと重要になっている見せびらかし的記号としての価値、つまり「性に関する生活態度」)。(224ページ)

いずれにしても大部分のモノは理論的には交換価値と切り離すことのできる一定の使用価値をもつわけだが、時間はどうだろうか。(227ページ)

貨幣と時間は交換価値のシステムの表現そのものだからである。(232ページ)

象徴的意味では金貨も銀貨も、客体化された時間も排泄物だが、貨幣と時間に排泄物としての古風で供犠的な機能を与えることはほとんどないし、現在のシステムの下では論理的に不可能である。そんなことが可能なら、われわれは象徴的なかたちで貨幣と時間から真に解放されることになるだろう。ところがわれわれを支配する計算と資本の秩序においては、いわばその反対のことが起こっている。この秩序によって客体化され、交換価値として操作されているのはわれわれ自身であり、貨幣と時間の排泄物となったのもむしろわれわれのほうなのである。(232ページ)

余暇がふえ、自由時間がだれでも手に入れられるようになると、特権が逆になって、時間の義務的消費からできる限り逃れていることが至上の特権になるかもしれない。余暇が開発されるのに伴い、その理想的な意図とは裏腹に競争と厳格な倫理に組み込まれるようになれば(充分考えられることだ)、労働(ある種の労働というべきだろう)が余暇から解放されて一息つくための場所と時間になるかもしれない。いずれにしても、現代社会では労働はすでに差別と特権を表示する記号となることができる。(235ページ)

余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の不在によって規定される。余暇の本質的価値でもあるこの差異はいたるところで共示され、誇張され、見せびらかされている。余暇のすべての記号・態度・実践の中で、また余暇が話題とされるすべての言説において、余暇はそのような見せびらかしや絶えざる誇張を糧とし、自己宣伝によって成り立っている。(239ページ)

人間関係(自然発生的・相互的・象徴的人間関係)の喪失は、われわれの社会の基本的特徴である。この事実にもとづいて、人間関係が―――記号の形で―――社会的回路に再投入され、記号化された人間関係と人間的温かさが消費されるという現象が生じている。(243ページ)

広告のずるさ、それはいたるところで市場の論理を《カーゴ》〈貨物船〉の魔術(未開人が夢見る完璧で奇跡的な豊かさ)ですりかえることにほかならない。(251ページ)

われわれはショーウィンドウをのぞくことによって絶えず変化への適応性と社会への順応度をテストされ、誘導された自己投影能力を試されている。(253ページ)

消費と流行のサイクルに入りこむことは、自分の好みに合うモノやサーヴィスに取り囲まれるようになることばかりでなく、自分自身の存在の意味そのものを変えることである。それは、自我のもつ自律性・性格・固有の価値にもとづいた個人的原理から、個人の価値を合理的に減少させ、変動させるコードに従って行われる、ルシクラージュの原理への不断の移行を意味している。このコードが「個性化(ペルソナリザシオン)」のコードであって、これをはじめから身につけているものはいないが、他者との明示的関係においては誰もがこれに頼らざるをえない。ここでは決定の審級としての人格が消滅し、個性化原理が支配的になる。その結果、個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な関係の一項にすぎなくなる。(259ページ)

この自己への他者の内在化と他者への自己の内在化は、際限のない相互関係の過程に従って、社会的地位に関するあらゆる行動(つまり消費の全領域)を支配している。ここには、厳密にいえば、個人的「自由」を持った主体も、サルトル的な意味での「他者」も存在せず、人間関係の各項がその差異的可動性によってのみ意味をもつ「雰囲気」が一般的になっている。(260ページ)

われわれにとって問題なのは、むしろ最適社会性つまり他人や多様な社会的立場や職業とできるかぎり摩擦を起こさないこと(ルシクラージュ、なんにでも適応できる能力)、あらゆるレベルでの社会的移動に順応できることのほうである。どんな場所にも「移動でき」、信頼され、どんな状況にも適応できる能力こそは、ヒューマン・エンジニアリング(人間工学)時代の「教養」である。(260ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 23:46 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その5
文化が永続することを前提として創造される時代は終わった。なるほど、文化は普遍的審級や観念的準拠として維持されてはいるが、文化が実質的意味を失ったためにますますそういうことになるのだ(自然にしても、いたるところで破壊されるようになるまではあれほど礼賛されはしなかった)。(138ページ)

規則的な授賞というシステムは昔はばかばかしいと思われていたのだが、今では状況に応じたルシクラージュや文化の流行の現代性と両立するようになった。かつて、文学賞は一冊の本だけに後世の人びとの注目をひかせようとしたが、それは滑稽だった。今日の文学賞は一冊の本を現代人の前で目立たせればよいのであり、それは効果的である。こうして文学賞は息を吹きかえした。(139ページ)

モノを買うという行為はクイズ番組によく似ていて、今日ではある欲求を具体的な形で満足させるための個人の独特な行動というよりはむしろ、まず第一にある質問に対する解答―――個人を消費という集団的儀式に引きずりこむための解答―――なのである。したがって、購買行動は、モノが常に一連の似かよったモノと一緒に提供され、個人がコンピューターゲームで正解を選ぶのとまったく同じやり方でモノを選択する―――購買行為とは選択であり好みの決定である―――よう催促されるという意味では一種のゲームだということができる。こういう次第で、モノの効用や性能についての直接的な質問ではなく、ほんの少しだけ異なるさまざまなモノ同士の「戯れ」についての間接的な質問に答えながら、人びとは買いものというゲームを楽しんでいるわけだ。この「ゲーム」とそれを成り立たせている選択は、伝統的な利用者と対立する購買者としての消費者の概念を特徴づけるものである。(144ページ)

消費社会、それは地位移動の可能な流動的社会である。幅広い層の人びとが社会的階梯をよじのぼり、ひとつ上の地位に到達すると同時に文化的要求を抱きはじめるが、それはこの地位を記号によって表示したという欲求にほかならない。社会のどのレベルにおいても「上の階層によじのぼった」世代は自分にふさわしいモノのパノプリ[セット]を求める。(153ページ)

ガジェットもまたキッチュと同じテクノロジーのパロディ、無用な機能の徒花的ひけらかし、実際に役立つ内容をもたないでひたすら現実的機能を模擬することにほかならない。このようなシミュレーションの美学はキッチュの社会的機能と奥深いところで結びついている。というのもキッチュは、階級的願望、階級上昇への予感、上層階級分化―――その形式、習俗、差異表示記号―――への魔術的同化を表現するからである。(155ページ)

テレビやラジオという技術的媒体や手段の力を借りて、事実と世界をバラバラに切り離し、断続的に継起するが互いに矛盾しないメッセージ(放送という抽象的次元において他の記号と並んで組み合わせられる記号)とすることこそ、消費の効果である。したがって、われわれがここで消費するのは、あれこれのスペクタクルやイメージそのものではない。想像しうるありとあらゆるスペクタクルが次々と出てくる可能性をわれわれは消費するのだ。しかも番組の継続と切り取りの法則のおかげで、あらゆることが月並みなスペクタクルと記号としてだけ出現するのだという確信をも、われわれは消費している。(175ページ)

マス・メディアの機能は、世界が持っている現実に生きられた―一回限りの―出来事としての性格を中和し、互いに意味を補完しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界を置き換えてしまうことだ。結局、各種のマス・メディアは互いに同じ内容になってしまう。―――これこそは消費社会の全体主義的「メッセージ」にほかならない。(177ページ)

記号を、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子どもやスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。この時、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。すなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒介として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179ページ)

この意味で、広告はおそらく現代のもっとも注目すべきマス・メディアである。広告は個別的なモノについて語りながら、実質的にはあらゆるモノを礼賛し、個別的なモノや商標を通して総体としてのモノ、モノと商標の総和としての世界について語っているわけだが、同様に個別的消費者を通して全消費者に、また全消費者を通して個別的消費者に狙いをつける。こうして広告は、総体としての消費者なるものをでっちあげ、マクルーハン的な意味で、つまりメッセージの中に、とりわけメディアそのものとコードの中にはじめから伏在している共犯と共謀の関係を通じて、消費者を部族のメンバーのような存在にしてしまう。広告のイメージや文章はその都度すべての人びとの同意を強要する。彼らは潜在的にそれらを解読することを求められている。いいかえれば、彼らはメッセージを解読しつつ、メッセージが組み込まれているコードへの自動的同化を強制されているのである。(180ページ)

それは、矛盾に満ちてはいるが現実的で流動的な経験から生まれたのではなく、コードの諸要素とメディアの技術的操作にもとづいて人工物として生産された出来事や歴史や文化や観念の世界である。このような事態だけがすべての意味作用を消費可能なものとして定義する。(181ページ)

広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果をあげるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者への同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。(中略)[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。(185ページ)

生産性向上のために合理的に搾取されるためには、肉体があらゆる束縛から「解放」されなければならない。労働力が賃金にもとづく支払可能な需要と交換価値に変えられるためには、労働者の個人的自由の形式的原則である自由な意思決定と個人的利益が保証されなければならないのと同じように、欲望の力が合理的操作の可能な記号としてのモノの需要に変えられるためには、個人は自分の肉体を再発見し、自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要がある(形式的快感原則)。つまり解体された肉体と分断された性欲のレベルで収益を上げるという経済的過程が擁立するためには、個人が自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料と見なす必要があるのだ。
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by tyogonou | 2009-09-16 20:24 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
『消費社会の神話と構造』より その4
モノは、かわりのきかないその客観的機能の領域外やその明示的意味の領域外では、つまりモノが記号価値を受けとる暗示的意味の領域においては、多かれ少なかれ無制限に取りかえ可能なのである。こうして洗濯機は道具として用いられるとともに、幸福や威信等の要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機に取ってかわることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定された機能や欲求にはまったく結びついていない。(93ページ)

すなわち、一方には、欲望が充足させられると緊張が和らいだり消えたりするという合理主義的理論とは到底両立しがたい事実、すなわち欲求の遁走、欲求の際限のない更新という事実を前にして絶えず素朴に狼狽ばかりしている立場があるが、これに反して、欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望であることを認めるなら、完全な満足などというものは存在しないし、したがって欲求の定義もけっして存在しないということが理解できるだろう、と。(95ページ)

消費は享受の機能ではなくて生産の機能であって、それゆえモノの生産とまったく同じように個人的ではなくて直接的かつ全面的に集団的な機能だと考えるのが消費についての正しい見解である。(96ページ)

消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに越えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96ページ)

しかし分配の段階では、財とモノはコトバやかつての女性と同様、人為的で首尾一貫した記号の包括的なシステムを形成する。それは欲求と享受の偶然的世界に取ってかわる文化的システムであり、自然的で生物学的秩序にかわる価値と序列の社会的秩序なのである。(98ページ)

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性を持つ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。(101ページ)

生産と消費は、生産力とその統制の拡大再生産という唯一の同じ巨大な過程のことなのである。(102ページ)

消費者の「猛烈なエゴイズム」は、豊かさと安楽な生活についてのあらゆる大げさな賛辞にもかかわらず、やはり彼が現代社会の新しい被搾取者であることについての漠たる潜在意識なのである。このような抵抗や「エゴイズム」がシステムを解決できない矛盾へと導き、システム自身はそれに対して共生を強めることしかできないという事実―――これはひたすら消費が膨大な政治的領域であることを証明している。(107ページ)

消費についてのあらゆる言説は消費者を普遍的人間とすること、すなわち人類の一般的・理想的・究極的な体現者とすることを目指し、さらに消費を政治的・社会的解放の挫折のかわりにすること、またこの挫折にもかかわらずなしとげられるであろう「人間解放」の前提にすることをめざしている。だが、消費者はけっして普遍的存在ではない。彼は政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であって、そのような存在として根本的な歴史的問題を再び提起するのである―――すなわち、消費手段(生産手段ではない)の所有、経済的責任(生産の内容についての責任)などの諸問題である。ここには深刻な危機と新たな矛盾が潜んでいる。(107ページ)

労働力の剥奪による搾取は、社会的労働という集団的セクターにかかわっているのである一定の段階からは人びとを連帯させる。搾取は相対的意味での階級意識をもたらす。消費対象や消費財の管理された所有は個人主義的傾向をもち、没連帯的で没歴史的傾向をもつ。生産者たるかぎりでまた分業という事実によって、労働者は集団の一部である。したがって搾取は万人の搾取なのである。消費者たるかぎりでは、人は再び孤立し、ばらばらに細胞化し、せいぜいお互いに無関心な群集となるだけである(家庭でテレビを見ている人々、スタジアムや映画館の観衆など)。(108ページ)

個人を特徴づけていた現実的差異は、彼らを互いに相容れない存在としていた。「個性化する」差異はもはや諸個人を対立させることなく、ある無限定な階梯の上に秩序化していくつかのモデルのうちに収斂していく。差異はこれらのモデルにもとづいて巧妙に生産され再生産されるのである。それゆえ、自己を他者と区別することは、あるモデルと一体となること、ある抽象的モデルやあるモードの複合的形態にもとづいて自己を特徴づけることにほかならず、しかもそれゆえにあらゆる現実の差異や特異性を放棄することでもある。特異性とは、他者や世界との具体的対立関係においてしか生まれないからだ。これこそ差異化の奇蹟でもあり悲劇でもある。こうして消費過程全体は(洗剤の商標のように)人為的に数を減らされたモデルの生産によって支配される。そこでは他の生産部門の場合と同じように独占化の傾向が見られる。差異の生産の独占的集積が存在するわけだ。(113ページ)

ここで問題にしている場合でも、差異の崇拝はもろもろの差異の喪失の上に成り立つのである(114ページ)

このような差異の社会的論理を分析の根本的基軸として決定的に把握し、差別的なものとしての、記号としてのモノの開発(この水準だけが消費を独自的に定義する)がそれらの使用価値(およびそれと結びついた「欲求」)の追放の上に成り立っていることを理解しなければならない。(118ページ)

システムがシステムとして成り立つのは、それが各個人の必然的に相違する固有の内容と存在を取り除き、差異表示記号として産業化と商業化が可能な示唆的形態を代置するからにほかならない。システムは一切の独特な性質を除去して、差別的図式とこの図式の体系的生産だけを残しておく。この段階では差異はもはや排除的ではない。もろもろの差異は違う色が互いに「戯れる」ように流行(モード)の組み合わせの中で論理的に互いに包摂しあうだけではない。社会学的には、ここにあるのは集団の統合を固めるもろもろの差異の交換なのである。このようにコード化された差異は諸個人を分割するどころか、反対に交換用具になる。このことこそ基本的な事実であって消費はこの事実にもとづいて次のように定義される。
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。(121ページ)

ルシクラージュは(精密科学、販売技術、教育方法などにおける)知識の耐えざる進歩にもとづく科学的概念とされている。社会から「脱落しない」ためには誰でもこの進歩に順応するよう努めるのがあたりまえだといわんばかりだ。(135ページ)
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by tyogonou | 2009-09-16 20:23 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)