<   2010年 01月 ( 14 )   > この月の画像一覧
<朝青龍関>「殴打したとは言ってない」暴行問題で高砂親方 (毎日新聞社)
<朝青龍関>「殴打したとは言ってない」暴行問題で高砂親方 (毎日新聞社) | エキサイトニュース
師匠の高砂親方(元大関・朝潮)は31日、「横綱は反省しているが、(暴行については)酔っていたからわからないと言っている。(相手と)車の中でもみ合ったようだが、殴打したとは言っていない」と説明した。
1.殴打だろうがもみ合いだろうが、相手に怪我を負わせている以上重要な問題ではない。
2.横綱は酔っていて分からなくても、運転手やマネージャーらは素面か少なくとも状況が分かっていたはずだから、そういった人たちに話を聞くのが、そしてそれに基づいた話をするのが「調査」を命じられた親方のすべきこと。
私も横綱も(マネジャーが被害者は自分だと主張していることを)知らなかった。
ニュースにもなり、厳重注意も受けていながら、その内容を知らなかったというのは通らない。
いかにも高砂親方らしいのんびりした話だが、ちょっとは危機感をもったほうがいいのではないか。もっとも、今更どうなるものでもないようでもあるが・・・。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-31 23:53 | スポーツ | Trackback | Comments(0)
朝青龍、史上初「引退勧告」も 被害男性「絶対許さねぇからな!」 (夕刊フジ)
朝青龍、史上初「引退勧告」も 被害男性「絶対許さねぇからな!」 (夕刊フジ) | エキサイトニュースありうる処分は、出場停止か解雇しかないが、サッカー騒動の時より重くせざるをえないとなると解雇になるだろうし、たとえ出場停止ですますとしても、あの時より長い期間の出場停止となれば事実上引退せざるを得ないだろう。しかし、一般人を殴って怪我を負わせたのは本人も事実と認めているようだから、やはり厳しい処分もやむをえない。
いけないのは虚偽の報告をしたことだ。当然これは素面で、マネージャーらと相談の上、ことの重大さを理解したうえでファンを欺いたわけで、非常に悪質だ。仮に事実を公表していたら、思いっきり甘くして出場停止処分というのもありえたかもしれないが、こうなると「その上」の処分以外はありえない。
示談が成立したということだが、その報告にしても親方のみが動き、本人は皇司の引退相撲での取材にも一言も話さないというのも著しく誠意を欠いた振る舞いだ。

前から疑問に思っていたのだが、朝青龍がらみの問題にしても、時太山の死亡や力士の麻薬使用の問題にしても、「改革派」の貴乃花親方が何のアクションも起こさないのはどういうことなんだろうか。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-30 23:23 | スポーツ | Trackback | Comments(0)
【コブスくんのモテ男道!】カフェ店員が聞いた! お客さんの“口説き文句”の数々!
【コブスくんのモテ男道!】カフェ店員が聞いた! お客さんの“口説き文句”の数々! (COBS ONLINE) | エキサイトニュース
バーにて
男 「酔ってるときのキミは本当に綺麗だ」
女 「あら、私お酒なんか飲んでないわよ」
男 「そんなこと分かってるさ、酔ってるのはボクのほうだ」
本当に言ったら引っ叩かれるかな
[PR]
by tyogonou | 2010-01-28 00:25 | Trackback | Comments(0)
消費社会の神話と構造 まとめ
書きかけ

楽観論者と共に「成長は豊かさを、それゆえ平等を生み出す」とはもういえないし、「成長は不平等をもたらす」という逆の極端な見解も採用できない。(p55)
成長は平等なものか不平等なものかという誤った問題の設定を逆転して、成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう。「不平等な」社会秩序や特権階級を生み出す社会構造の自己維持の必要性が、戦略的要素として成長を生産・再生産するのである。(p56)
単純に表現すれば、「不平等が成長を生み出す」ということだ。
かつて、生まれによって固定されていた不平等な社会階層は、民主主義の平等の原則と資本主義の発達によって、経済活動という「行動」によって移動可能な流動的なものへと変わった。その中で、不平等を埋めよう、上の階層に追いつこうとするエネルギーと、不平等を維持しよう、下の階層に追いつかれないようにしようとするエネルギーとが、いつまでも上昇し続ける(成長し続ける)経済を要求するのだ。
そこにはひとつの難点があって、経済活動を人間の物理的生物的欲求を充足させるための営みとして規定してしまうと、それはいずれ限界にあたってしまう、すなわち、無限に成長し続けることはできない。かつて、太っていることは、たらふく食べるだけの財力があることを示していたが、いくら裕福さを誇示したくても胃袋の大きさには限界がある。
この難点を回避するために消費社会が用いた戦略は二つあって、そのひとつはかつてのローマ人のように、食べたものを消化しないで満腹になったら吐いて胃袋を空けてさらに食べ続けるような方法、計画的佩用によってモノの回転は早くなり消費の絶対量も増加可能になる。
ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。(p45)
消費社会において消費されるモノは鋳型のようにそれを消費する人間を規定する。使い切られる前に廃棄されるため、あっという間に入れ替わるモノのラインナップに遅れないよう、消費者にも「ルシクラージュ」が求めれる。職業上の新しい知識を学びなおすことを意味するこのフランス語は、流行の「サイクル」について行かなければならないという要請を連想させるという意味では優れているが、21世紀に生きる私たちには「アップデート」というコンピュータ用語の方がより相応しいだろう。自動的に更新されることも多いが、アップデートしなければネットワークにつながることができなかったり、ウイルスなどによって深刻な被害を受けかねないほど重要で不可欠な行為である。
社会的存在(つまり意味の生産者であり、価値において他者に対して相対的である存在)としての人間の欲求には限度がないのである。(p73)
人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―――理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団を抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。(p67)
(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。
生物的制約を乗り越えるもうひとつの方法は、消費を欲求の充足の問題から切り離すことだ。つまりモノは、単に胃袋を満たすだけでなく、それを消費する人間の社会的な価値を高める特別な意味をもつことになる。
かつて多くの日本人にとって「米の飯」はそういう特別な意味を持っていたし、米食が一般の人々にとっても当たり前になると、「コシヒカリ」のようなブランドが同様な社会的権威づけの記号となった。高級外車、高級ブランドの服飾品など、誇示型商品の例は豊富に思い浮かぶ。
しかし、何にも意味ももたない雑器のなかにぽつんぽつんと特別な意味を持つ誇示型商品が浮かんでいるだけでは、経済発展は永遠に続く運動となりえない。そのためにはすべてのモノに意味を付与して、モノを使用価値の地面から浮かび上がらせ、それを階段状に配置しなければならない。あるいは、社会階層は無限に高くなるわけではないし、麦を食っていた貧乏人と米の飯を食していた上流階級の差は、ノンブランドの米を食う貧乏人とコシヒカリを食す上流階級の差となんら変わるところがないから、それほど多くない数のステップが次々と上から下へと流れてくるエスカレーターのような仕組みを作ればいい。さながら下りのエスカレーターを登っていこうとする子どものように、私たちはより上位の階級を追ってついさっきまで彼らが立っていたステップへと登っていくが、その実決して現在の位置から上昇することはないし、上下の階級との差も変わらぬままである。しかしそれでもなお、自分より上の者に置いて行かれないよう、そして自分より下のものに追い抜かれぬよう、私たちは登ろうとする努力をやめることも出来ない。

ここで注意しなければならないのは、モノはただその機能的な使用を越えただけでなく、所謂誇示型商品として個人や集団の単なる権威付けの機能も超えたということだ。それは、ただ機能を超えた社会的な意味を持つ商品が増えたということを意味するのではない。誇示型商品が権威など社会的な意味を持ちうるのは、ほかの商品がそういった意味をもたないという状況の中で始めて可能になることだ。すべてのモノが社会的な意味を持つようになると、そしてそれらがひとつの体系を構築すると、その意味は失われていき、モノはソシュールの言語論的な意味での差異表示記号となっていく。
ソシュールによれば、たとえば「水」という言葉とそれが指し示している液体とには何の必然性もない。言葉についての素朴な見方では、言葉の「正しさ」はそれが指し示している事物現象に根拠を持つが、ソシュールはそれを否定する。その液体を「水」と呼ぼうが "water" と呼ぼうがかまわないし、そのうちの温度の高いものを「湯」という別のカテゴリに分離するのも、単に "hot" な "water" として元のカテゴリに残すのもどちらでも問題ない。どちらが真実の水をより正しく捉えているかという議論は全く意味がなく、言葉の正しさはその言葉が属する言語体系によって規定される。そこで重要になるのは「水」という言葉が指し示す事物ではなく、それが対立しうる他の言葉(湯、油、火などなど)である。消費社会におけるモノにも同様のことが言える。ヴァージンコーラという商品名は、その飲み物の味わいなどを指し示すというよりも、コカコーラ、ペプシコーラといった他の商品名を引っ張りだし互いの差異を指し示す。そうして差異を表示するだけになったモノは、それが属する体系の中のひとつの要素にすぎなくなる。
生身の兵士は、様々な感情、様々な思考様式、様々な背景を持ち、それぞれが特異な行動をとるものだが、それが将棋というゲームの中に抽象化されると、個別の兵卒が持っていた属性は捨象され、唯一動き方の違いによって他の駒と区別され、あるいは同一視されることになる。いわゆる「差異の消費」とは、私たちが駒を動かして将棋を指すがごとく、記号としてのモノを操作して消費活動を営んでいるということを意味している。違うのが将棋がごく少数の例外を除いては私たちの日常生活に影響を及ぼさない特殊なコミュニケーションであるのに対し、消費生活はもはや私たちの社会生活そのものといえるまでに拡大しているところだ。
消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値のシステム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに超えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられるという事実の上にこそ、数字の羅列でも記述的形而上学でもないひとつの理論的仮説が成り立ちうるのだ。(96)
マス・メディアの機能は、世界が持っている現実に生きられた-一回限りの-出来事としての性格を中和し、互いに意味を保管しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界をおきかえてしまうことだ。(177)

マス・メディア的消費を規定するのは実在系をコードで置き換えるこの手続きの一般化なのである。(181)
もっとも取るに足りない技術的製品やガジェットでさえ技術がいたるところで勝利する見込みの現れであるのと同様に、イメージ/記号は、世界の徹底的な虚構化、つまり現実の世界を全面的にイメージ化すること(イメージはいわば世界の記憶―普遍的読解の細胞―のようなものだ)の傲慢さの現れである。(177-178)
イメージは出来事の(歴史的・社会的・政治的)独自性を認めようとも理解しようともしないで、イデオロギー的構造であると同時に技術的構造でもある同一のコードに従ってすべての出来事を無差別に再解釈して人びとに引き渡すという意味でも、出来事とはまったく別のものである。ここでいうコードとは、テレビの場合なら、大衆文化のイデオロギー・コード(道徳的・社会的・政治的価値体系)およびメディア自身の切り取り、分節化の様式のことで、メッセージの多面的で流動的な内容を中和し、メッセージが持っている意味の命令的強制で置きかえるある種の言説性を押しつける。(179)

マス・メディアは、さまざまな出来事を「イベント」や「イメージ」として抽象化し、記号化し、消費の対象として、さまざまな商品などと交換可能な存在にする。商品と出来事という全く別の次元に属する概念がマス・メディアによってモノの体系というひとつの枠組みの中に組み込まれ、私たち人間を囲い込む。言語学者の丸山圭三郎は『ソシュールを読む』の中で、ソシュールの記号論によれば、言語は人間が世界を分節化する枠組みであることを指摘し、動物とヒトがそれぞれ世界を分節化する仕方について、身分け構造とコト分け構造という概念によって説明している。マス・メディアの発達した消費社会に生きる消費者はもはやヒトを超えた生き物、すなわち「モノ分け」によって世界を分節化する別種の生き物であると言えるのかもしれない。

現実の世界をモノの体系という虚構の(ヴァーチャルな)世界で置き換えること、それは永遠に続く経済発展という資本主義の至上命令にどのような影響を及ぼすのか。
もっとも重要な効果は、コンピュータの仮想化と同様に、それによってシステムへの攻撃を防ぐことができることだ。逆に言えば、その中に生きる人間が資本主義システムを変えることを不可能にするということだ。
記号を、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結合体と見なせば、次の二種類の混同の本質が明らかになる。第一のタイプは子どもや未開人に見られる混同で、意味されるもののために意味するものが消滅することがある(自分自身の像を別の生き物と思い込む子供やスクリーンから消えた人間はどこへ行ったのかと怪しむアフリカ人のテレビ視聴者の場合)。第二のタイプの混同では反対に自己自身に収斂するイメージや、コードに収斂するメッセージの場合、意味するものが自ら意味されるものとなる。このとき、二つのものがひとつの円環をなして合体し、意味するものだけが際立つ。つなわち、意味されるものの消滅と意味するものの同語反復である。この第二のタイプの混同こそが消費を、マス・メディアのレベルでの組織的な消費の効果を規定するのだ。イメージを媒体として現実の世界に向かうのではなく、イメージのほうが世界を回避して自分自身に戻るわけである(意味されるものの不在証明の背後で、意味するものが自らを示している)。(179)

「あなたが夢見る肉体、それはあなた自身のからだです」(307)

もはや本ものも現実という準拠枠も存在せず、あらゆる神話や呪文と同様広告が別のタイプの検証つまり自己実現的予言(ある言葉を発することによって実現されたことになる予言)を拠りどころにしているからといってもよい。
(中略)
広告は、何かを理解したり学んだりするのではなくて期待することをわからせるという点で、予言的な言葉となる。広告の語る言葉はあらかじめ存在する事実(モノの使用価値についての事実)を前提とせずに、広告の発する予言的記号がつくりあげる実在性によって追認されることを前提としている。これが広告の効果を上げるやり方である。広告はモノを擬似イベントに仕立てあげる。この擬似イベントが、広告の言説への消費者の同意を通じて、日常生活の現実の出来事となるのである。
(中略)
[芸術が自然を模倣するのではなくて]自然が芸術を模倣するように、こうして日常生活はついにシミュレーション・モデルの複製になってしまう。

「マクドナルドのハンバーガーパテはビーフ100%である」という言明を考えてみよう。自分で料理をし、牛肉100%のハンバーグも、合挽き肉のハンバーグも作りそれらの肉の味をよく知っている人間にとって、この言明は現実を指し示す意味のあるものとなる。しかし、ファーストフードのハンバーグしか食べたことのない人間にとって、「牛肉100%のハンバーグの味とは」「マクドナルドのハンバーガーの味」ということになり、その味がどんなものかをまったく説明しない。さらに、肉の味をよく知っている人間でさえ、それを他人(特に不特定多数の人間)に伝えようとすれば、こういった意味を失った言明に頼らざるを得なくなるのが消費社会である。
皿の上に正体不明のハンバーガーが載っていれば、人はバンズの味、パテの味、そのた調味料や野菜類の味とそれらが調和してかもし出す味覚を味わうだろうが、よく知った包み紙によく知った外観のハンバーガーが包まれていれば、いちいちそういった味わい方をしないだろう。それは良くて味の確認に過ぎず、違和感さえ感じさせなければほとんど味わわれないまま飲み込まれるかもしれない。広告業者の仕事は、広告によってハンバーガーの味わいを説明することではなく、むしろその経験を先取りし、奪い、自らの作り出すイメージをそこに植えつけておき、そこに消費者を誘導することである。消費者はそこで広告によって予言されていたとおりのものを見つけることになる。そうして預言者たる広告業者と創造主たる広告主の正しさは証明される。異論を唱えたければ、創造主の創り給うたこの世界自体を否定するよりほかない。

消費社会は個別の問題領域についての理性に基づく異議申し立てがもはや不可能な社会であり、それに代わるものがあるとすれば、テロリズムのような暴力によって全てを破壊する企てしかない。消費社会は異議や暴力のようなネガティブなものを必然的に生み出すが、それを遮断し丸め込み拡散する巧妙な仕組みをもっているのだ。

アンビヴァランス(両義性)の一項である欲望(デジール)の否定的全側面が、欲求(ブズワン)の原則と効用の原則(経済的現実に関する原則)に、つまり何らかの生産物(モノ、財、サーヴィス)と欲求充足との間に常に完全で肯定的な相関関係に適応することを強いられ、一方で常に肯定的な計画的合目的性に従わされるという現実がある。したがって、この否定的側面が欲求の充足そのもの(享受ではない。享受は両義的だ)によって、無視され、検閲されることになる。その結果、欲望(デジール)の否定的側面はもはや投資=備給の対象とはならず、苦悩の巨大な潜在力として結晶する(経済学者と心理学者は等価性と合理性にしがみつき、主体が欲求に駆られて積極的に対象にむかうことですべてが完結する、と考える。欲求が満たされればよいので、それ以上何もいうことはないというわけだ。だが彼らは、肯定的側面しかないようなところには「満たされた欲求」つまり完結したものなどありえないことを忘れている。実際には肯定的側面しか持たないものは存在しない。われわれの前には欲望だけが存在する。そしてこの欲望は両義的なのである)。
豊かな社会における暴力という重要な問題(間接的にはアノマリーやうつ状態や逃避などのあらゆる徴候の問題も含めて)は、こうして解明される。貧困と窮乏化と搾取が生み出す暴力とは本質的に異なるこの暴力は、欲望のまったく肯定的側面によって排除され、隠蔽され、検閲された欲望の否定性の顕在的出現としての行為である。欲求(ブズワン)が満たされることによって人間とその環境がめでたく等価性をもつようになる過程の真っ只中に出現した両義性の否定的側面といってもいい。(271)

価値において他者に対して相対的である存在としての人間の欲求には限度がないが、一方で相対的な満足は不満と表裏一体であるという側面もある。優越感のあるところ必ず劣等感があるのだ。
また、相対的な欲望(記号化された欲求)にはもうひとつ欠点があって、無限の経済成長のために消費者たちを動員するためには彼らに上昇志向を持たせなければならないが、そのためには上下という基準座標軸が不可欠なのだ。消費社会は素朴な生物的欲求、あるいは快楽といったものをその軸としている。そして、相対的な欲望の生み出すネガティブな感情を生物的な欲求を満足させることで抑えつける。ブリオッシュを食べることができなくても、パンをたらふく食べられてるなら文句を言うな、ということだ。相対的な欲望の階層の中では、いくら上へとよじ登り、望んでいたものを手に入れたとしても、見上げるとそこにはまだ手に入れなければならないモノが私たちを呼んでいる。私たちはそんな永遠の渇望に苛まれながら、それを永遠に新しくもたらされる満足であると思い込まなければならない。なぜなら、永遠の渇望は私たちの上昇への意志を摘んでしまうからだ。満足に満足を積み重ね、さらに新たな満足が加わる可能性があるからこそ、私たちは経済活動を続けるのだ。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-20 00:27 | 消費社会 | Trackback | Comments(0)
貴の耳に念仏 改革“大先輩”の声届かず (夕刊フジ)
貴の耳に念仏 改革“大先輩”の声届かず (夕刊フジ) | エキサイトニュース
 「改革、改革って言ったって何をやるんだ。1人では何もできはしない。初日、貴乃花と30分あまり話し、やろうとしている改革についてもいろいろ聞いたけど、具体的なことは何も出てこなかった。この巡業部内を見ても、大相撲界をよくしようと先輩たちが一生懸命働いていることは、貴乃花もよくわかっているはず。焦って何を改革するんだ。無理するな」と千田川親方は貴乃花親方の“勇み足”の次を心配する。
一門の会合の後、離脱を発表したインタビューで、記者から理事になって何をしたいかと訊かれ、「それはまだ考えてないです」と応えていたのを思い出す。
マスコミは総じて貴乃花親方に好意的な論調で、軽々しく口にして潰されるのを警戒しているのだろうなどと推測しているようだが、私は疑問に思う。
正直、親方の「改革」とは、人気者の自分がもっと前に出れば相撲の人気も上がるという程度のものではないのかなどと勘ぐってしまう。この騒動がおきてからの世論の親方に対する期待の大きさを見ると、それもまたひとつの道なのかもしれないと思わないでもないが。もっとも、その路線で効果絶大なのは「三代目」の登場だが、本人しだいとはいえ、かつての親方自身のように後継者としてメディアに露出させるつもりはないようだ。
貴乃花親方の「改革」
以前にも批判したが、絶大な人気を誇る貴乃花の「相撲道」とは独り相撲の道ではないかと思わずにはいられない。
これには斟酌すべき事情もある。子どもの頃からそれこそ大相撲を背負って立つような大きな期待を集めていた人だから、いわば常にスポットライトを浴びるタレントとして振舞うことを要求されてきたということもある。「相撲をとる」以前に「相撲取りになる」ことを運命付けられていたといえようか。
もう1つ不幸だったのは、彼の活躍した時代が「若貴時代」となってしまったことだ。栃若や柏鵬は名勝負を何度も繰り広げながら互いに自らの相撲を磨き上げたわけだが、貴乃花にとっての最大のライバルは、特別な例外を除いては決して対戦することのない兄であった。ある意味では兄の若乃花の方が幸運だったのは、体格やパワーにそれほど恵まれていなかった分、大型力士に対抗するための技を磨くことが出来たことであろう。実力がひとつもふたつもぬきんでていた分、貴乃花は他の力士との切磋琢磨というより、プラトン的な相撲のイデアに忠実であろうとするような方向で精進するより他なかった。(曙も名勝負を繰り広げたライバルではあったといえるかもしれないが、曙の側から見た場合、ライバルは「藤島勢」だったと言えるし、ベビーフェイスの貴乃花がヒールの曙をライバル視するというのも難しかっただろう。)
[PR]
by tyogonou | 2010-01-19 00:18 | スポーツ | Trackback | Comments(0)
「新成人におすすめしたい20の本」、新成人に贈呈される
「新成人におすすめしたい20の本」、新成人に贈呈される (スラッシュドット・ジャパン) | エキサイトニュース
某宗教団体のラジオCMを連想してしまったが、まぁテーマパークで成人式をするよりはいい。
ただ、20歳なのだから、『一分間で分かる「菜根譚」』ではなくて、『菜根譚』そのものを挙げたらどうかと思う。やはり文庫で手に入るのだから。
よく書物を読む者は、喜びのあまり小躍りするようになるまで読んで、そうしてはじめて文字の末に落ちずに、真意をつかむことができる。また、良く事物を見る者は、心がそれに融合して一体となるようになるまで観察して、そうしてはじめて事物の形に捕らわれずに、真相を悟ることができる。(第214講)
私はたいした読書家ではない。要点を押さえて何冊も読んでいくのではなく、何度も読んで内容も知っている本なのにさらにしつこく読んでいくような読み方をするのだが、言ってみれば子どもの本の読み方ということになるのかもしれない。現代ではあまり勧められないけれども、「菜根譚」のこの一節を言い訳にしている。
そんな私が新成人に推薦するなら「窓際のトットちゃん」を挙げてみたい。最近では読んでない人も増えてきただろうから。トモエ学園のユニークな学校生活も心に残るが、小学一年生が登校するのに、引き綱もつけないシェパードをお供に連れ、校門で分かれると犬は一匹で勝手に家まで戻ってくるという、今ではありえないおおらかな時代の情景というものを知っておくのはいいことだと思う。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-12 23:05 | Trackback | Comments(0)
大相撲・「ひよの山」が国技館に
Yahoo!ニュース
内館さんにはこちらを退治して欲しかった。
古くはJALのCMとか、最近では(本物の力士は出なかったが)日清太麺堂々のCMとか、相撲取りは大きな存在感のある「キャラクター」として使われてきたにも関わらず、こんなちゃちな着ぐるみを頼るなんて情けないかぎりだ。
以前youtubeに、若い力士がドナルドダックのまねをして子供達にうけていた映像があったが、力士達にそういうカジュアルな場でのファンサーヴィスをもっと充実させるとかやるべきことはもっとあるだろう。


そんなにキャラクターとかが欲しいのならこの曲をイメージソングとしてEXILEにでも歌ってもらえばいい・・・。そんな悪態をつきかけたが、久しぶりにこの歌を聞いたら、氷川きよしには冗談抜きでぴったりの曲かもしれないと思った。それによってきよしファンが相撲に興味を持つかどうかは疑問だけれど。

記号の働きは、つねに両義的である。その機能は二重の意味で祓いのけることである。つまり記号(力、現実、幸福等々)を捉えるためになにかを浮かび上がらせることであり、他方、否定し、抑圧するために何かを呼び起こすことである。(『消費社会の神話と構造』24ページ)
こういった「キャラ」なども、同じようにそれが体現しようとしていたもともとの何かの魅力を否定し抑圧することになっているように思われる。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-08 00:14 | Trackback | Comments(0)
ジェッディン・デデン(父もその父も)

以前ちょっと触れたことのある演奏だが、あちらの人が日本語訳つきでUPしていた。日本語訳がこなれていないのはご愛嬌。
たいして難しくないがカタカナ歌詞もつけておこう。


ジェッディンデデン ネスリンババン
ジェッディンデデン ネスリンババン
ヘプハー らーマン トゥークミレティ

オるドゥラルーン ペクチョクザマーン
ヘるミシュティレーれ ドゥンヤーヤシャン
オるドゥラルーン ペクチョクザマーン
ヘるミシュティレーれ ドゥンヤーヤシャン


トゥークミレティ トゥークミレティ
トゥークミレティ トゥークミレティ
アーシュキー レッセブ ミリイェティ

カーハれットヴァタン ドュシュマヌヌーウ
チェクシンオメール ウンズィレティ
カーハれットヴァタン ドュシュマヌヌーウ
チェクシンオメール ウンズィレティ
[PR]
by tyogonou | 2010-01-07 23:44 | Trackback | Comments(0)
“曹操の墓”断定に反論、「魏の武将・夏侯惇の墓の可能性」
“曹操の墓”断定に反論、「魏の武将・夏侯惇の墓の可能性」 2010/01/05(火) 16:18:07 [サーチナ]
夏侯惇の墓だったならそれはそれで嬉しいのだが。

発掘者側の言い分によると、魏武王の称号については、三国志武帝記は、一月に死亡、帝から武王の称号が贈られ、二月に埋葬されたという順序で記述しているので、問題はないということだ。

他の疑問点に関しては私の見解だが・・・。
自分の墓と分からないようにという曹操の遺志と名前が彫られた石牌の矛盾については確かに分からない。もっとも、曹操の猜疑心の強いイメージは後世になって強められている部分があるので、別の意図があって印などを墓に入れないように命じていたのが、自分の墓を知られないようにと変化した可能性はあるかもしれない。
また、曹操は生前、倹約を旨(むね)としており云々に関しても、「贈答用や副葬用として」そういった実用でない品を作るのを禁じたというのが素直な解釈で、「常所用」の道具を墓に収めることまで禁じられていたと断じるのは強引である。また、その論理で行けば、曹操のすぐ後に死んだ夏侯惇の墓であるというのもおかしい。夏侯惇が自分の埋葬についてどのように考えていようと、直前に死んだ主君の例に反するような埋葬のされ方をするはずがあるまい。
曹操の墓が墓群を形成していたはずという説も疑問だ。曹操と息子の曹丕は漢代の儒教的な価値観とは異なる考え方をもっていたようで、薄葬を命じたことから考えてみても漢代の制度を踏襲したという説のほうがより疑わしい。また、そうだとしても劉会長の夏侯惇の墓という説は、「曹操の墓の近くには26人の墓が設けられた。その筆頭に挙げられるのが夏侯惇の墓だ」という自身の説と矛盾してしまう。
武具が多いのは魏の支配者である曹操に相応しくないという指摘もそれほど説得力があるとは思えない。曹操自身、武芸に優れていたとされているし、戦時中だからという理由で短期間の服喪と質素な埋葬を命じた人物像と、そういった副葬品類は必ずしも対立しないように思われる。
現在劉氏の批判を完全に跳ね返すだけの証拠もないのだが、夏侯惇の墓説は曹操の墓説よりまだ根拠が薄いように思われる。

もしこれが曹操の墓でないとしたら、「魏武王」と記された副葬品は誰が作ったものなのだろうか。
偽物の副葬品を作る理由として考えられるのはまず金のためなのだが、「曹操の墓発見」の経済的利益は相当なものになるとはいえ、それを見込んで偽者を仕込むような者がいるだろうかと考えるとちょっと難しい。こういった「掘り出し物」の世界の奇奇怪怪なることは幸田露伴の『骨董』でも読めば分かることで、そんな可能性を否定することもできないのだが、やはり前にも書いたようにでっち上げるなら、溝の掘られた石版などではなく、もっと金になりそうなものを作りそうな気がしてならない。
ほかに一応考えられるのは、地域の住民(最近の人とは限らない)が、曹操の墓といわれるこの墓をいわば整備する目的で入れるということもあるかもしれないが、それなら「魏武王」とせずに「魏武帝」としただろう。
唯一、可能性がありそうなのは、発掘に当たった考古学者たちが学問的業績のためにでっち上げたというものだろう。彼らなら、少なくとも一部の考古学者の支持を得られるほどリアリティのある偽物をでっち上げることもできるし、もともと墓の中にあった本当の主を指し示す証拠を廃棄することもできる。そして、そういうことは歴史上なんども例のあることではある。

批判者たちは、偽物であるならこれら副葬品をでっちあげたのは誰かという問題をちゃんと考えるべきだ。今のところ、溝の掘られた石版を掘り出した盗掘者がそれを見て枕だと見当をつけて「魏武王常所用慰項石」と掘り込んだのだという程度の見解しかないようにも見える。だが、必要な知識や技術などを考えれば、これが偽物だとしたら相当悪質な詐欺行為だと思われる。そうだとすると、墓の中にあったものすべてがいわば「汚染」されている可能性があるので、それを根拠にたとえば夏侯惇であると主張することもナンセンスである。
一番確かなのは、副葬品の数々をひとつひとつ科学的に調査をして制作年代を探ることだ。どれだけのことが出来るか分からないし、時間も当然かかるが、考古学とはそういうものだ。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-06 23:59 | 国際 | Trackback | Comments(0)
<曹操の墓>「素人発言で余計な批判するな」、「偽モノ説」噴出に専門家が反論―中国
<曹操の墓>「素人発言で余計な批判するな」、「偽モノ説」噴出に専門家が反論―中国 (レコードチャイナ) | エキサイトニュース
曹操高陵在河南得到考古确认

なんだかやけに喧嘩口調なのは翻訳のせいばかりでもないようで、河南省文物管理局のHPでも擁護派の文章を掲載したり、考古学者もネットで罵倒しあうのはいまどきなのか中国流なのか。

それはともかく、盗掘されていたものだから慎重な調査と議論を続けなければなかなか確かなことはいえないのは明らかだが、個人的には曹操の墓説を買いたい。
曹操は、薄葬を望んでいたとされていたが、この墓はそういう点では予想より大きい(ただし壁などの装飾は簡素だ)というのが発掘者の見解だ。その後、偽物説に反論する学者の文章の中では、大きいが大きすぎない、すなわち皇帝の格ではないと指摘している。墓が作られた年代が後漢末で、そのような格の人物で、60歳代に死んでいて、この地方に埋葬された人物が他にどれほどいるだろうか。

偽物ではと疑われている出土品も、偽造の素材としては微妙な感じがする。
盗掘にあって発見されたのは、曹操が日常使っていた石の枕という。隠者の生活の表現として「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」という言葉があるが、曹操ほどの人間の副葬品をでっち上げるのにそんなものを選ぶだろうか? さらにいえば、「枕」とされているこの石、裏の文字では「慰項石」すなわち首を休める石となっている。それ自体、首枕のような名称がつくほど一般的な道具ではなかったことを示唆しているし、溝が彫っていあるだけで何の装飾もない石版を見て、なかなかそういう用途は思いつかないものだ。まだ万里の長城の排水溝部分に使われていた石といったほうがありそうな感じではないか。
もっとも、三国志好きにはちょっと興味深い品ではある。曹操は名医華陀に切開手術を勧められたほどの頭痛もちだったというが、夏の暑い盛りにこの石を首の下に当てて休み、その冷たさで頭痛を和らげていたのではないかなどと想像すると嬉しくはなる。
他に「魏武王常所用」と記されたのは副葬品の目録のようなもののうち、戟と刀に記されている。戦に明け暮れた曹操に相応しいともいえるが、王たるものの副葬品として偽造するならもうちょっと豪華なものにしないだろうか。九錫の内のなにかであるとかだといかにも怪しい感じがするだろうが。
[PR]
by tyogonou | 2010-01-04 23:26 | 国際 | Trackback | Comments(0)