ボードリヤールは(特に景気のいい時の)社会の先鋭的な部分を考察する時には確かに役に立つように思われるけれども、景気が悪化する局面を考える時であるとか、あるいは社会全体を見回そうというときには、少し行き過ぎのような感じも受ける。また、ボードリヤールといえば、ペシミスティックでニヒルで暗いというのが衆目の一致したところであるが、そういわれる由縁となっている「差異の消費」というアイディアの元となっているソシュールには全くそんなイメージが付きまとっていないということを考えれば奇妙なことである。
こういった事態を引き起こしている原因のひとつは、ボードリヤールがソシュールを正しく理解していないところにあるのではないかと私は思う。 ソシュールとボードリヤールとでは、研究の対象が言語と経済とで異なっているし、ボードリヤールはソシュールを援用してマルクスを乗り越えようとしたわけだから、ソシュールに完全に忠実でなければならないというわけでもないだろう。しかし、ボードリヤールが犯している「間違い」はほかにも多くの人が犯しがちなものであるし、また、そこをソシュールの主張に沿ったところから出発して消費社会論を編みなおしてみるというのは試してみる価値のある課題のように思われる。 (消費の社会的論理とは、)社会的意味を持つもの(シニフィアン)の生産および操作の論理である。(『消費社会の神話と構造』62頁) 意味するものと意味されるもののあいだには存在論的分裂ではなく論理的関係があるように、人間存在とその神的または悪魔的分身(人間存在の影、魂、理想)との間にも存在論的分裂が失われ、記号の論理的計算と記号システムへの吸収の過程があるばかりだ。(『消費社会の神話と構造』303頁) 記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ混沌の中に埋もれているシニフィエと、人が明確な意図を持って作る製品とは必ずしも同じではないかもしれない。しかし、ボードリヤールがシニフィアンを単独で存在し操作されうるものとしているのは、誤りである。それは後にオリジナルのないシミュラークルの円環といったよりペシミスティックな概念へとつながっていく。 とはいえ、だからボードリヤールは役に立たないなどと考えるべきではない。「絶対とか相対とかいった対立を超えた真の絶対性」などというような「哲学的」な言語は、私たち人間にシーニュのなかのシニフィエを見失ってしまう傾向があることを示しているのかもしれない。そして、消費社会に住む私たちにも商品に関してそういった思い込みに基づいて行動する傾向があって、ボードリヤールはそこを鋭く突いていると見ることも可能だから。
by tyogonou
| 2009-06-14 20:45
| 消費社会
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