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消費社会 その12
ボードリヤールは、ある意味で消費社会とは人間が疎外されることすらなくなる社会だと論じている。
彼は古典的な社会的疎外のあり方を古い映画を例に次のように説明している。
ある貧乏学生のもとに悪魔が現れ、大金で鏡の中の姿を売らないかと持ちかける。学生は応じ、その金のおかげで成功を収める。ところが、悪魔が鏡の中の姿に魂を吹き込んで放った自分の分身が自分の周囲をうろつき始め、自分のすることを先回りして自分の代わりに行い、それを悪事にしてしまう。ついには殺人を犯し、学生は追い詰められる。ある日、部屋に来た分身を学生は撃ってしまう。その瞬間鏡は割れ、分身は消え去るが彼自身も死ぬ。断末魔の苦しみの中で鏡の破片を拾うと、昔のように自分の姿が写るのを知る。
鏡の中の自分の姿は、自己証明(アイデンティティ)の根本であるが、それを「金と引き換えに」手放し、それが自分ではなく他者となると、人はアイデンティティを失い、阻害される。
ところが、消費社会になるとショーウィンドウが鏡に取って代わり、そもそも人が自分の姿を鏡に映して自己を確認すること自体がなくなるという。
そこでは個人が自分自身を映して見ることはなく、大量の記化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序の中に吸いこまれてしまう。だからショーウィンドウは消費そのものを描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。

だが、21世紀の日本に生きる私たちから見れば、事情はもう少し微妙に見える。
疎外された人間とは、衰弱し貧しくなったが本質までは犯されていない人間ではなく、自分自身に対する悪となり敵に変えられた人間だという事実である。
ボードリヤールはこういった超越性の神話自体が失われたと論じているが、私たちがたどってきたのは、そうではなく、鏡の中の自分が、自分自身を超える善となりヒーローやヒロインに変えられてきたということではないだろうか。自分の分身が、自分より美しく、利口で、素行もよく、あらゆる点で「イケてる」自分として行動しだしたとき、自分は、自分の分身のできの悪い分身と化してしまう。これは21世紀の日本に生きる私たちにはリアリティのあるイメージだと思う。
鏡の内と外を超えた悪魔という超越的他者はいなくなったかもしれないが、鏡はまだそこにある。私たちは、自分がその中に存在している社会を見、知るために頻繁にそれを覗き込む。私たちは新しい服を買うたび、あるいはボードリヤール的にはより上の階級に属する印となるようなモノを手に入れるたび、私たちはその鏡を見てより美しくより上流に近づき輝きを増す自分の姿に歓喜する。だが、鏡の中の自分がどんどん輝きを増すにつれ、鏡の外のこちら側の世界はどんどん暗くなっていく。どんな美しい服も、手にとってはどのようなものか見ることができない。それを着て鏡の前に立って(すなわち記号の体系の中に置いて)初めてその美しさを楽しむことができる。他者もまたそのような存在として現れる。私たちは皆で鏡の前に立つことでお互いを認識するが、すぐとなりにいるはずの他者は暗闇の中、見ることも触れることもできない。時に鏡の中で魅力的に見えた他者が、醜悪な本性をもっていたなどということがわかると、私のとなりに存在している他者とは、信用のならないひどく不安な存在となる。
そして、そういった他者の不確かさは自分自身の不確かさへとつながっていく。鏡の中にはっきり見える自分と、他者に直接認識されない鏡の外の透明な自分とどちらが本当の自分なのか。
by tyogonou | 2009-07-08 00:50 | 消費社会
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