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蒼天航路
原作者の李学仁氏が亡くなる少し前、ある大学の学園祭で学生たちの企画したシンポジウムに出席されていたのを観にいったことがある。お題はなんだったか、とにかく蒼天航路とは関係ないものだったが、話を振られると、「曹操という男は・・・」と脈絡なく話を始める人だった。印象的なのは、その話が延々と続き、脚本どおり話を進めたい他の学生たちがいらいらし、観客たちも飽きはじめたころ、突然その話が振られた元の話へと鮮やかに関連付けられていったことだった。
蒼天航路にもまた、そんな理屈っぽさが随所に見られて、個人的にはそういった点はあまり好きではない。また、いわゆる「演義」ではなく、正史に基づいているんだと強調するようなところも少々鼻につく。
欠点といえば、諸葛孔明の描き方も問題で、曹操に負けないくらいの存在感を出そうとしたのだろうが、行き過ぎて収拾がつかなくなっている。蒼天孔明はほとんど妖怪で、他の登場人物でまともに会話が成立するのは劉備ぐらい、彼の登場するところは物語として破綻している。

しかし、この作品が三国志関連の多くの作品の中でもとびきり魅力的な輝きを放つものであることもまた間違いない。
劉備を孔明のもとへ連れて行こうとする関羽と張飛の友情、荀イクの死、程イクの引退などの場面の味わい深さ、簡雍、韓遂、何晏、といったあまり脚光を浴びない登場人物の活き活きとした描写などすばらしい。そしてなにより、主人公曹操のまったく新しい、そして現代的でもあるイメージの魅力はこの作品の特筆すべき価値であろう。

曹操はもともと陰険な悪人として描かれてきた。たとえば、就寝中の暗殺を防ごうと、狸寝入りをして布団を直そうと近づいてきた家来を切り殺したりする。蒼天航路でも家来が寝ている曹操を起こしにいくが、おっかなびっくりすぐ逃げられるようにして近づくという場面がある。ただし、それは戦役中の曹操は夢の中でも戦を楽しんでいるため、間が悪いとその夢のまま襲われてしまうからである。蒼天の曹操は好奇心の塊で、常識にとらわれない自由人であり、「姦雄」といった悪名を着せられることにもまったく頓着しない、むしろ役に立つならそういった悪名もすすんで帯びようという人物である。
一般的な曹操の悪いイメージでは、どうしても実際の曹操の行動との間に齟齬が生じてしまう。たとえば、帝位簒奪の意思があるとされながら、なぜ自分は帝位に就かなかったのか、あるいは死後、葬儀や埋葬を質素にさせたのか、そういった歴史的事実は今ひとつうまく説明できない。
だが、自由人の蒼天曹操はその問いに対して「血のついた甲冑をまとう天子がいるか?」と答えている。曹操にとって皇帝とは都に腰を落ち着け、民が常に心のよりどころとするような存在である。庶民にまじって酒の醸造法や料理を研究し、劉備や孫権が攻めてきたと聞けば都をでて前線に赴く、そんな落ち着きのない自分が皇帝になったら民が困る、蒼天曹操のそういった考え方は、軍事に、詩に、学問に、自ら偉大な才を発揮した「非常の人」という人物像と符合する。

また蒼天曹操は、ある意味で非常に現代的な人間像でもある。曹操は悪名すら厭わない。他者が自分のことをどう思おうがまったく頓着せず、「自分は自分でしかない」という境地から決して離れることがない。それは、旧来の卑屈なイメージとは反対の肯定的なイメージではあるが、特有の陰も持っている。死を予感して遺書を書く曹操は側室の生計をどう立てろとかこまごましたことを書き連ねるが、側にいて戦に出る自分の身を案じてきた正妻の気持ちを忖度しない。荀イクを救えなかったのもまたそこに原因がある。互いに孤立し、他者に煩わされない代わりに他者に配慮を示すこともない、そんな人間像が現代的であると思う。

もうひとつ興味深いのは、「儒」「老荘」「法」の捉え方だ。
『史記』にはちょっと奇妙な点があって、道家と法家を同類と見ているようだ(老子韓非列伝)。現代日本の私たちの目には、無為自然、タオの道と、始皇帝の恐怖政治の元ととなった厳しい法治国家の思想とはまったく異なるように思われる。だが、儒との対比において、これら二つが共通して持つものを理解するには、蒼天航路、特に曹操と華佗、荀イクとの対立はうってつけだと思う。
曹操は医学という「才」を「方技」として見下す、荀イクら儒者や華佗自身に対して怒り「唯才のみを挙げよ」という布告を出す。それに対し、華佗と荀イクは結果として死に至るほどの反発を示す。両者の対立をどう解釈すればいいのか。私は人間の「自律性」をどう捉えるかという問題にあると思う。
儒教的な考え方では、人間とはなによりもまず「人間」なのであって、医術のような才が、単なる属性を超えて「医者」というアイデンティティと化してしまうことがあってはならないのだ。「人間」であるためにはさまざまな属性をひとつの人格の元に纏め上げなければならないが、曹操の布告は「才」をそれが属する人格から切り離し、人間の自律性を損なってしまう。行き過ぎれば、「漢朝の臣」であったり「曹操の部下」であったりといったアイデンティティがひとりの人間のなかで分裂してしまう。
「自分は自分でしかない」という境地に達すれば、あるいはそういった分裂を引き起こさずにいられるかもしれない。しかし、荀イクが憂えたように凡人がその境地を保持し続けることはとても難しい。また、そういった自己認識は、他者からの感化を受けてよりよい人間へと自分を再統合しようという意思を発生させない。
人間の自己統合を前提としない法家と道家が凡人に用意している解決策は、人と人との間を断つ事である。互いに孤立している人間は「自分は」と思い悩まずにすむ。だが儒家にとって、人が常に人中にあっていかにして影響を与え与えられつつ、よりよい人間へと自分を再統合し続けるかが重要な問題なのだ。
by tyogonou | 2009-07-12 15:40
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