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クローズアップ現代 “食”がいのちを救う
クローズアップ現代 “食”がいのちを救う 10月29日(木)放送
いつ、どこでも食べたいものが手に入る「飽食ニッポン」。しかし今、生きていく上で欠かせない営みであり、日々の喜びであるはずの"食べる"という行為が軽んじられる時代になっている。若者たちにとって、今や主食はスナック菓子やアイスクリーム。その結果、栄養不足に陥り、血液に異常を抱えるケースも増えている。さらに食べることに関心がなく、サプリメントで最低限の栄養さえ取ればいいと考える人も増え続けている。その一方で、医療や介護の現場では「食べる」という行為を治療の一環として再評価する動きが出始めている。寝たきりで話すこともできなかった患者に食事ができるよう訓練を施した結果、言葉を取り戻し、散歩できるまでに機能が回復した例もある。様変わりする食の現実を見つめ、私たちは食とどう向き合っていけばよいのかを考える。
特別忙しい時だけというわけではなく日常的に菓子やサプリメントを食事にしている光景というのはショッキングなものだった。だが、それは食べるという行為が軽んじられているとか関心がないとかいうレベルの話なのだろうか。
初期のセブンイレブンで、新しい商品として「弁当」を売ろうとしたとき、社内からは反対の声が挙がったという。弁当なんて作って持っていくもので、金を出して買う人などいないというのがその理由だった。それから4半世紀、弁当を買って食べるのなどごく普通の事となった今に至るまでの間に、私たちの食というものの捉え方の根っこにある変化が生じたのではないかと思う。
それは、食べ物がボードリヤールのいう「モノ(消費の対象)」のひとつとして確立されたということだ。それは即ち、食べ物が他のモノと交換可能になり、比較され、選択されるものになったということだ。
栄養は錠剤で補給し食事はとらない、そういう未来社会は手塚治虫あたりの年代の漫画家たちも描いてはいたが、トキワ荘で鍋を囲んでいた彼らは、食事とサプリメントとを同格で秤にかける思考をどれだけリアルに想像できていただろうかと思う。技術的に可能で、論理的にも理解できても、食事の楽しみや喜びを人間が放棄できるのか、できるとしたらどのようにしてそれがなされるのか、彼らにはそのあたりの想像力が不足していたかもしれない。
食べ物がモノになったということを理解するには次のようなことを考えてみると良い。「昨日何を食べたか」という質問に対して、主婦など料理をする人には二通りの答え方がありうる。一つはたとえば「ほうれん草をおひたしにした」というもので、もう1つは「ほうれん草のおひたしを作った(食べた)」という答え方である。昔は前者のような答え方をすることもあったが、そういえば今そういう言い方をしないなと思い当たる人もいるのではないだろうか。些細な表現の違いのようでもあるが、私たちの食についての考え方の根っこにある構造に変化がおきたことを示しているのかもしれない。
昔の人たちにとって食とはおそらく、田の稲、畑の野菜、海の魚、家畜たち、そのほかもろもろの食べ物が栽培され採取されあるいは殺され、さまざまに手を加えられ、料理され、私たちの口に入り、そして私たちの体をつくっていく、そういうものだった。しかし、今の私たちにとって食とはまず「料理」を食べること(=消費すること)でであり、稲やら野菜やらはその原材料として料理から遡ってトレースされるものであり、それを調理することは「料理」という完成された製品に至る製造工程である。
「完成された」というのはひとつの鍵である。たとえば鮨職人は膨大な数の鮨を握るが、そのどのひとつととっても欠陥があってはならない。たまたま体調が悪かったであるとか、予期せぬアクシデントが起こってしまったどか、そんなことは客にとっては一切関係のないことだ。商品として客の前に出された以上、どのひとつをとってもパーフェクトでなければならない。職人の手を離れた瞬間、それはそれまでの時を奪われる。完成されるということは、それまでのプロセスから切断され、外部に対して閉ざされることを意味する。完成されたものに残されているのは同様に完成されたものとの差異のみである。
食べ物であれなんであれ、商品として販売されるものであればこれは当然のことであるといえるが、食べ物が消費の対象=モノとして確立されると、商品として提供されるものではないものまで同じ枠組みの中に取り込まれてしまう。それこそ自分で釣ってきた魚を食べるのでさえ、モノの消費であるという意味において、ファーストフード店でハンバーガーを食べるのと全く違いはない。どちらも、もはや私たちの舌を楽しませ、空腹を満たす実体的存在というより、モノの体系の中の関係的存在なのだ。
相手として組み合わされるモノとはまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。このために、モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。(『消費社会の神話と構造』 14ページ)
食べ物がモノと化したということはまた、それがモノの体系の中の他のモノとの互換性を獲得したということを意味する。食事がモノの消費となる前は、食事とおやつと薬(サプリメント、薬用酒など)とは私たちの生活の中にそれぞれ独自の地位(ニッチ)を占めていて、それぞれを互いの代りにするということなど想像もされなかった。しばらく前なら、子どもがおやつを食べ過ぎて晩御飯が入らないなんてことになったら母親に叱られたものだ。甘みを楽しみ、あるいは軽いエネルギーの補給に過ぎないおやつが、体を作り命をつなぐ食事の領域を侵してはならないからだ。今では、両者の違いは単にスーパーやコンビニの棚の位置の違いを意味するに過ぎない。
食の問題をボードリヤール的な枠組みで見ることは、そこに解決の糸口が示されないだけにあまり愉快なことではない。だが必要なことだと思う。
「食べる」という行為を治療の一環として再評価する動きがあるという。それは好ましいことのようにも思われるが、食事(手のかかった「料理」)を薬の代りにするのと、薬(サプリメント)を食事の代りにするのとでは、両者を交換可能なものと見ているという点において違いはない。食事がモノの消費と化しているという認識がなければ、どのような取り組みも、モノとしての食べ物に新しい交換価値を付与するだけのことになるだろう。それでは、生き物として、実体的存在としての私たちの肉体と、関係的存在となった食べ物との間の断絶を乗り越えることは不可能ではないかと思う。
by tyogonou | 2009-11-08 23:34 | 消費社会
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