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剛毅木訥
ネタがないので論語についてでも書いていこうかと思う。
(論語の)散文詩としてのリズムの美しさは、他の中国古代の書に冠絶する。中国音に慣れない人人には隔靴掻痒を逃れまいが、訓読によっても、それに接すること完全に困難でない。それほどそのリズムは美しい。(「論語について」 吉川幸次郎 講談社学術文庫)
私も訓読によってしか論語に接することはできない人間だが、それでも論語を美しいと思う。もっともそれは「面白い」ということではない。例えば老荘のような壮大な趣も、菜根譚のような味わい深さも、論語にはない。しかし、そういった書の後に論語を読み返してみると、その簡潔平易な文には捨てることのできない「何か」が確かに存在する。読むものを圧倒するような魅力があるというわけではない。普通のことを極めて普通に書いているだけだ。しかしそれはなぜか美しい。「剛毅木訥、仁に近し」とはまさにこういうことをいうのかと思う。
その美しさは小林秀雄が徒然草に見出した美しさと似ている。違いがあるとすれば、小林秀雄が価値を置いた美とは「抑制の美」であるが、論語の美とは抑制のない(あるいは薄い)「素の美」であると私は思う。
ひょっとしたら話は逆、なのかも知れない。現代に生きる私が論語に美を見出すというより、私が学んできた日本語の美感の根底には論語があるということだ。私が論語をきちんと読んだのはある程度の年齢になってからだが、それまでに読んだ本の中に(そのなかには中国の歴史物だったり西遊記だったりといったものも含まれているが)論語から続く流れのようなものを見出し、なにか懐かしい感じがしたものだった。
それからもうひとつ。吉川幸次郎が「散文詩」と評しているように、論語の美しさはそのロジックの欠如と密接に結びついていると思う。論語にはロジックがない。仁は論語の主要なテーマであるが、様々な論証を経て「仁とはこういうものだ」という結論が導き出されるわけではない。剛毅木訥、すなわち真っ正直で勇敢で質実で寡黙なのは仁に「近い」といったように、仁という言葉の内包を大雑把に例示するだけである。そしてそのロジックの欠如を美しさで代用しているのが論語の特徴ではないかと思うし、その特徴はまた日本語にも影響を与えているのではないかとも思う。
by tyogonou | 2005-01-04 01:38 |
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